総長戦記 0090話 忘れ去られた戦場
【筆者からの一言】
久々に……
1941年 『中国大陸』
アメリカとドイツが海と空とにおいて激突を始めようとしていた頃、中国大陸では長引く戦乱に人々が疲弊していた。
中華民国は幾つもの勢力に分裂していた。
最大の勢力は今もなお中華民国政府である。
しかし、「日華事変」における敗北は中華民国政府の威信を大いに傷付け、日本の特務機関の暗躍もあり地方軍閥への統制力が著しく衰えていた。
本来なら中華民国政府の正規軍が地方軍閥を統制する重石になる筈であったが、「日華事変」での敗北は正規軍にあまりにも大きなダメージを残しており、その役割を果たす事ができなかったからである。
「日華事変」が発生する前、中華民国政府はドイツと結びつきを強めており、ドイツから軍事顧問団を招きドイツ製の兵器を輸入し、主力となる部隊にドイツ式の編成を取り入れ訓練もしていた。
しかし、そのドイツ式精鋭部隊と多くのドイツ製兵器は「日華事変」で失われている。
中華民国政府は「日華事変」において敗北したとは言え、ドイツ式軍隊の有効性は認めていた。
その為、ドイツとの協力関係を維持し、ドイツ軍事顧問団による軍隊の再建と、ドイツ製兵器の輸入に力を入れてはいたが、日本への多額の賠償金の支払いや、地方軍閥が離反傾向にある事から、そう容易くは軍隊の再建を成し得ないでいた。
ここで勢力を拡大して来たのが毛沢東率いる中国共産党である。
中華民国政府の弱体化の隙をつき、ソ連から資金と武器とソ連航空義勇兵部隊の援助を受け、勢力範囲を拡大していた。
ソ連航空義勇兵部隊とは、「日華事変」において中華民国政府を支援する為にソ連政府が送り込んだ航空隊である。
「日華事変」が始まると、「敵の敵は味方」の考えで中華民国政府は日本に対抗する為にソ連と接触を開始する。それが「盧溝橋事件」発生1ヵ月後の「中ソ不可侵条約」の締結であり、ソ連の対中軍事支援の始まりであり、その内の一がソ連航空義勇兵部隊の派遣であった。
ソ連航空義勇兵部隊は中国の大地で日本の航空隊を激闘を繰り広げた。
この辺までのソ連航空義勇兵部隊の話しは史実と同様である。
しかし、今回の歴史はそこからが大きく変化する。
「日華事変」は長期化する事なく半年で終了した。
ここで講和に不満な中国共産党が中華民国政府と袂を分かち内戦を再開した。
その中国共産党をソ連航空義勇兵部隊が支援したのである。
「中ソ不可侵条約」違反であり、中華民国政府はソ連政府に対し抗議したが、ソ連側は義勇兵の行動として突っぱねた。
中国共産党はソ連の支援を得て勢力範囲を、人口が多く産業も発展している華北南部方面に広げていく。
ただし、それは順調な拡大とは言えなかった。
ソ連本国から中国共産党の本拠地までは回教徒軍閥の勢力範囲を通過しなければならない。
宗教を認めない共産主義に回教徒軍閥は非友好的で中華民国政府寄りであり、更に日本の特務機関の工作もあって、ソ連から中国共産党の本拠地までの補給ラインにゲリラ攻撃を仕掛けていたのである。
それはソ連から輸送される武器と物資を奪い自陣営の戦力を強化しようという意図もあった。
中国共産党にはソ連までの長い補給路を完全に守り切る戦力は無かった。
もし、回教徒軍閥の壊滅とその支配地域を完全に確保しようとすれば、中国共産党軍の全戦力を注ぎ込む必要がある。いや、注ぎ込んでも足りない。
それにせっかく日本が華北南部から撤兵し、中華民国政府は弱体化している絶好の好機を逃す事になる。
それ故に中国共産党は多少の被害には目を瞑り、華北南部の制圧を急いだのである。
それが「日華事変」終結から1939年夏までの中国での状況であった。
1939年夏以降からは、また状況が変わって来る。
1939年夏に「ノモンハン事件」が勃発し、その事件が終息する頃にはドイツ軍がポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発した。
更に冬にはソ連軍がフィンランドに侵攻する。
これらに関連して、まずドイツが一時的に中華民国政府との関係を凍結し、ポーランド侵攻前にドイツ軍事顧問団を中国から引き揚げている。
ポーランドに侵攻する事はイギリスとフランスと開戦するという事でもある。
そうなれば、海軍力の弱いドイツが中国との関係を維持する事が難しくなるのは明白だ。
ドイツ近海ならばともかく、イギリス海軍を相手に戦いながら大西洋とインド洋をこえて東洋まで行くのは殆ど不可能である。
その為、戦争終了までの一時的措置として、中華民国政府との関係や貿易を凍結していた。
その結果、中華民国政府はドイツ軍事顧問団を失い、まだ兵器が揃わず訓練も完了していない中途半端な正規軍部隊を維持する事になってしまった。
中華民国政府はドイツだけに頼らずイギリス等、他の国からも武器を輸入してはいた。
しかし、第二次世界大戦の勃発と共に、中国に輸出される兵器は削減される一方だった。
兵器生産国は今や自国と同盟国が兵器を欲していたからである。
アメリカはイギリス連邦向けの兵器の増産で精一杯であった。
イギリスだけでなく連邦を構成するカナダ、オーストラリア、カナダ等から兵器の発注が相次いでいた。
まだ、この時期は民需を軍需に充分に転換できていなかったのである。
その為、中国への輸出も消極的だった。
まずは第一の盟友イギリスを助ける事をルーズベルト大統領は優先していたのである。
一方、中国共産党もソ連からの援助が減っていた。
ソ連は僅か半年の間にノモンハンで日本軍と戦い、その後はドイツと組んでポーランドを分割占領し、更には大軍を動員してフィンランドに侵攻したのである。
当然、多額の戦費と物資を使っており、その皺寄せが中国共産党への援助の削減という形となってあらわれた。
特にノモンハン事件の発生はソ連航空義勇兵部隊の帰国という結果を招いている。奇しくもそれは史実と同様の結果であった。
その為、毛沢東の中国共産党も苦しい戦いを余儀なくされた。
第二次世界大戦の勃発により欧州各国は自国の戦いに集中しており、この時点においては、中国大陸での戦争は優先事項から外れていたのである。
それでも歴史的に中国華南地方を経済的植民地とし、多くの農園や工場を持つイギリスは華南地方の安全と安定を求めて、中華民国政府へ武器や物資の輸出を行っていたが、ドイツとの戦いが厳しい事からその量は削減される一方だった。
中国大陸における中華民国政府、中国共産党、地方軍閥は、それぞれが資金と兵器、物資不足に苦しみながら戦争を続行するという、まるで弱い雌鶏の蹴り合いみたいな騒がしいだけの戦いを繰り広げ、決め手を欠く戦いをダラダラと続けていたのである。
これには日本の特務機関の暗躍もあった。
閑院宮総長の指示通り、偽法幣と鹵獲武器を使って地方軍閥をうまく操り、中華民国政府が優勢ならば、その足を引っ張り、共産党軍が優勢ならば、やはりその足を引っ張るように仕向け、戦争の長期化の一因となっている。
1940年の半ばになると「背に腹は代えられない」とばかりに、中華民国政府が日本政府に積極的に接触を図るようになる。
まずは武器の買い付けであり、後には軍事顧問団の派遣要請である。
かつて中華民国政府には国営の兵器工場が幾つもあった。しかし、その幾つか、特に揚子江沿いの主要な兵器工場は「日華事変」時に、移転する間もなく日本軍に占領され、多くの工作機械が運び出され、残りの施設は破壊されている。
残った兵器工場による生産と破壊された兵器工場の再建につとめてはいたが、その状況は芳しくなかった。
元々生産されている兵器の質が良いとは言えなかった。
それに中国特有の腐敗から国営兵器工場で生産された兵器が他勢力に流される事が度々起こっている。
輸送途中の兵器が奪われる事も少なからずあった。
その幾つかは日本の特務機関の工作によるものである事は間違いない。
中華民国政府の要請に対する日本政府の返事は色よい物ではなかった。
日本政府の、いや、閑院宮総長の対中国基本戦略は分裂を促進し戦いを長引かせ中国を一つに纏めない事にある。
その為に軍事顧問団の派遣要請は断り、兵器の売却もごく限られたものになった。
結局、中華民国政府は内乱を制するのに決め手を欠いており、日本に期待したいところではあったが、それは叶わず苦闘を続ける事になる。
1941年夏になると、中国共産党が極めて厳しい状況に陥った。
独ソ戦の開始と、その戦況の悪化からソ連政府が中国共産党への援助を打ち切ったのである。
それだけ戦況が逼迫していた。
もはや他を援助している余裕は全く無かった。
この時、武器の不足に苦しむ中国共産党に閑見商会のダミー会社が接触し大量の武器、弾薬を売却している。
売却したのは第二次世界大戦の勃発前にイタリアから大量購入していたライフル、機関銃、手榴弾等だった。
ライフルは「M1891マンリッヘル・カルカノ」ライフルである。
このライフルは第二次世界大戦が勃発した時、列強各国の陸軍が装備する主力ライフルの中で最も旧式で低性能なライフルであった。
それもその筈で1892年から配備が開始されていたのだから旧式にもなる。
第一次世界大戦での主力武器である。
太平洋戦争では旧式兵器と言われた日本の「38式小銃」でも1908年からの配備であり、それより16年も古い。
イタリアとしても後継の「カルカノM1938」を完成させ生産には入っていたが、予算面での問題から旧式の「M1891マンリッヘル・カルカノ」のを使い続けなければならなかった事情があった。
この「M1891マンリッヘル・カルカノ」は、一部であまり評判が良くなかった。
弾道性能が悪くて威力が低い。またライフルの尾筒部分の厚さを削って軽量化している。
その結果このライフルには「弱くて危険」という評価の声が上がっている。
なお、史実においては日本陸軍が「M1891マンリッヘル・カルカノ」を元に改良した「イ式小銃」をイタリアから6万挺も購入している。
1937年11月に「日独伊防共協定」が成立した事によるイタリアへの配慮からである。
だが、届いた「イ式小銃」は前線で使うには性能不十分として陸軍では使われず、海軍に譲渡されている。
しかし、今回の歴史では「日独伊防共協定」が成立しておらず、そのために日本が「イ式小銃」をイタリアに発注する事は無かった。無駄遣いは防がれたのである。
イタリアから買い付け転売した機関銃は「フィアット・レベリーM1914」である。
この機関銃も1914年から部隊配備が始められた兵器で、後継の機関銃も完成しているが、やはり予算面での問題から第二次世界大戦でも第一線で使われ続けている。
この機関銃も評判は良くなかった。
操作が複雑で作動不良が多く更に構造上の問題から射手が怪我をしやすかったのである。
手榴弾はブレダ社、OTO社、SRCM社、PCR社の物である。
これだけの会社がありながら、そこで造られる手榴弾は全て作動が不確実で非常に危険な代物だった。
どの社の手榴弾も性能が悪かったが中でもPCR社の手榴弾が最悪だったと言われている。
北アフリカ戦線では、イタリアの手榴弾が不発のままよく見つかり、爆発の危険性が高かった事から連合軍将兵に恐れられた。
イタリアの手榴弾は全て赤いエナメル塗装が施されていた事から連合軍将兵は「赤い悪魔」と呼んで恐れている。
この「赤い悪魔」も大量に中国共産党に売却された。
この時点では、まだ「赤い悪魔」の悪名と性能の悪さと危険性は中国の大地にまでは届いていない。
閑見商会のダミー会社は、武器不足に苦しむ中国共産党に、これらの旧式で低性能で危ない兵器を高値で売りつけ暴利を貪ったのである。
食い物にされた中国共産党は、それを知らずにイタリア製兵器を前線で使い苦労する事となる。
この頃になると日本から中華民国政府への兵器の輸出も徐々に増え始める。
好景気から陸軍の予算が増え大掛かりな装備の更新が開始され、それが軌道に乗り、旧式の余剰兵器が大量に出始めたからである。
旧式兵器とは言えど戦争になればまだまだ立派に使える。
しかし保管し定期的に整備しておくには手間暇かかり、特に数が大量の場合には管理する人員や予算も馬鹿にならない。
そこで、一部の旧式兵器の売却が始まったのである。
威力不足の「92式70ミリ歩兵砲」や鹵獲兵器で運ぶに馬が10頭も必要な「99式10センチ山砲」等である。
こうした兵器を中華民国政府に売却する事で維持する必要経費を削減し、また売却代金で新装備の購入を促進したのである。
なお旧式ではあるが日本製の「38式小銃」が売却される事は無かった。
また「日華事変」における鹵獲兵器の小銃等の小火器は、主に謀略に使われている。
地方軍閥に流したり、インドの独立運動派にも流されている。
質の悪い鹵獲兵器ではあったが、そのように他勢力に流された為、中華民国政府に売却される事はなかった。
その代わりタイ王国から中華民国政府へ小銃が売却されている。
その製造元は満洲国の奉天工廠であり、生産され売却されたのは「モ式小銃」である。
事の始まりは「日華事変」だった。
日本は「日華事変」時に中華民国軍より大量の小銃を鹵獲した。
兵器工場と機械も押さえた。
この時、中華民国軍が使用していたのがドイツの小銃である。
中華民国政府ドイツから小銃を輸入し後には自国で生産もしていた。
「モーゼル・スタンダードM1924」を自国で生産した物が「中正式歩槍一式」である。
「Kar98k」を自国で生産した物が「中正式歩槍二式」である。
それを日本は満洲国の奉天工廠でコピー生産させた。
満洲国の奉天工廠の前身は、張学良の満洲軍閥に属する工廠であり、1920年代には年間9000挺のモーゼル・ライフルを生産していた経験もある。
満洲国の奉天工廠でコピー生産された小銃はモーゼルの「モ」をとり「モ式小銃」と命名された。
これをタイ王国に輸出したのでる。
タイ王国では、この「モ式小銃」を中華民国政府へ売却する。
中華民国政府は満洲国を承認していない。それ故に正式な輸入はできない。
しかしタイ王国からならば輸入はできる。
タイ王国としても貿易の仲介料が入り儲かる。
満洲国も外貨が入り儲かる。
中華民国政府は自分の所で生産している物より質の高い不足気味の兵器が入手できる。
正に三者三得である。
その裏には勿論、日本の姿があった。タイ王国と友好関係を深め満洲王国の経済にも利益をもたらす。
日本だけが儲かるのではなく他国にもある程度は利益を齎し味方を増やす。
まずはタイから。
その為の「モ式小銃」輸出である。
それが日本の、いや閑院宮総長の考えであった。
中華民国政府と中国共産党の戦いを軸に周辺の地方軍閥を唆し中華の大地に血を流し続けさせる。
その閑院宮総長の戦略は成功していた。
どの勢力も弱体化しつつも、今もなお戦いを止めない。
そして列強各国は既に自国が参加している戦争に手一杯で、もはや中国を顧みる余裕はない。
まさに中華の大地は列強からは忘れ去られた戦場であった。
そして今日もまた中華の大地に血が流されている。
中国人同士で殺し合い、罪も無い民間人が巻き込まれ生活を破壊され家族が殺されている。
その状況に総長は満足していた……
【to be continued】
【筆者からの一言】
赤い旗には赤い悪魔がよく似合う。




