総長戦記 0064話 遅れ
1941年8月 第4週 『アメリカ』
この歴史においてアメリカの原子爆弾開発は史実よりも立ち遅れていた。
史実においてアメリカでの原子爆弾開発に携わり重要な役割を果たした多くの人物が、この歴史では数年前に亡くなっていたからである。
その殆どが金銭目当ての強盗にあい殺害されたと警察の記録には残されている。
史実ではシカゴ大学の亡命ユダヤ人のエンリコ・フェルミ教授が1938年に軍に対しドイツの原子爆弾開発の可能性を指摘しているが、アメリカ軍はそれを重大な問題とは捉えず無視している。
その後、1939年に既に高い名声を得ていたアルベルト・アインシュタイン博士が「アインシュタインの手紙」と呼ばれる、ドイツの原子爆弾開発に関する懸念を書いた手紙をルーズベルト大統領に出し、これが切っ掛けでアメリカは原子爆弾開発の研究に乗り出す事になった。
この「アインシュタインの手紙」を出したのは、アインシュタイン博士一人の考えではなかった。
3人の亡命ユダヤ人物理学者レオ・シラード、エドワード・テラー、ユージン・ウィグナーがドイツの原子爆弾開発の危険性を危惧し、既に名声を得ていたアインシュタイン博士に手紙を書く事を依頼したという経緯がある。
ただし、この「アインシュタインの手紙」だけでは、ルーズベルト大統領は恐らく動かなかっただろう。
何故ならこの手紙はルーズベルト大統領の旧知で経済面でのブレーンをつとめた過去を持つアレキサンダー・サックスに託されルーズベルト大統領に渡された経緯がある。
その時、ルーズベルト大統領はこの手紙を一読してもあまり関心を持たなかったのだ。
軍のエンリコ・フェルミ教授への反応と同じである。
深刻な問題とは捉えなかった。
当時の一般的な常識から考えれば、そんな強力すぎる爆弾ができるなど夢物語と思えても不思議はない。
だが、アレキサンダー・サックスは違った。
彼は原子爆弾の重要性とその危険性を認識し、再度熱意を持ってルーズベルト大統領に掛け合って再考を促したのである。
それによりルーズベルト大統領も考えを改め原子爆弾開発研究をスタートさせる。
つまりアレキサンダー・サックスの危機感と粘りが無ければルーズベルト大統領は「アインシュタインの手紙」を無視し動かなかった可能性が高い。
しかし、今回の歴史では、そのアレキサンダー・サックスも数年前に強盗にあい亡くなっている。
アルベルト・アインシュタイン博士も数年前に強盗にあい亡くなっている。
レオ・シラード博士も数年前に強盗にあい亡くなっている。
エドワード・テラー博士も数年前に強盗にあい亡くなっている。
その死は全て東洋の島国のある高位な軍人が裏で糸を引いた結果によるものである。
そのため「アインシュタインの手紙」は元から存在していない。
ただし、シカゴ大学のユージン・ウィグナー教授は健在である。
今回の歴史において彼はドイツの原子爆弾開発に関する懸念を書いた手紙を軍や政府に何通も出している。しかし、その手紙が重要視される事も関心を呼ぶ事もなく終わる。
「アインシュタインの手紙」でさえアレキサンダー・サックスがいなければ黙殺されていたのかもしれないのだから、アインシュタイン博士の名声に及ばないユージン・ウィグナー教授の手紙が黙殺されても、それは当然の結果であったのかもしれない。
その為、この歴史ではアメリカで30年代に原子爆弾開発の研究が始まる事は無かった。
史実では1941年3月にドイツと戦うイギリスに派遣されたアメリカ国防研究委員会が、イギリスにおける原子爆弾開発の研究の様相を知る事となる。
アメリカでは「アインシュタインの手紙」以降、専門の委員会が設けられその可能性を探っていた。だが、その内容と言えば、あまり進展しているとは言えない状況だった。
しかし、イギリスの原子爆弾開発研究に刺激を受け、更に後にはイギリスからの研究結果の新たな報告が齎されたため、アメリカでの研究もある程度は進捗する事になる。
今回の歴史では、やはり1941年3月にイギリスに派遣されたアメリカ国防研究委員会により、イギリスにおける原子爆弾開発の研究を知る事となる。
アメリカ政府としては、ここで初めて原子爆弾という存在について知る事になったのである。
いや、既にシカゴ大学のユージン・ウィグナー教授が再三にわたり原子爆弾についての手紙を出していたが相手にしていなかっただけである。
ここに来て、アメリカでも原子爆弾の可能性を探るため、ようやく専門の委員会を設置しようという動きが出ていた。しかし、それは始まったばかりであり、ニューヨークの惨劇が起きた時は、まだ委員会に参加してもらう物理学者の人選を行っている最中だったのである。
そうした事情の為、今回の歴史におけるアメリカの原子爆弾開発研究は史実に比べ完全に出遅れていたのである。
【to be continued】




