総長戦記 0044話 新部隊
【筆者からの一言】
これまでボウフラのような人生を歩んできた私の経験則からするとですね、ミリオタっていう人種にはですね、人それぞれ何かしら譲れない「拘り」というものがあるのだと思うんです。
ですからね、合理的な判断を下すならばもはや廃止するべきだとは理性の面からはわかっていても、感情の面からは敢えて不都合をおしてでも使い続けたいという兵器があったりする場合もあるんですよ。
例えそれが鬼総長であっても。
1941年 『日本 陸軍』
陸軍予算の増額により装備の更新が進む中で、陸軍では部隊の再編制も進んでいた。
これは数年前から進められていたもので1個師団4個歩兵連隊制を1個師団歩兵3個連隊制への改編である。
史実でもこの改編は行われていたが、改変中にアメリカとの開戦を迎え、戦争が激化する中で改変が進められている。
1個師団を3個連隊制にすると当然1個連隊余る事になる。
余った連隊を集め新たな師団を編成したり、独立混成旅団が編成されたりしたが、他にも閑院宮総長の指示で、この余った連隊の人員を利用して実験的に新たな部隊が幾つか編成された。
そのうちの1個が空挺旅団である。
他にグライダー旅団も編成された。
この2個旅団はドイツ軍の西方侵攻作戦における空挺部隊の活躍を見倣ったものである。
史実において陸軍は1940年から空挺部隊の研究を始め、正規の戦闘部隊として空挺部隊を編成したのは1941年11月の事であり「教導艇進第1連隊」が編成されている。
グライダー部隊は1944年に「滑空歩兵第1連隊」が編成されている。
今回の歴史では空挺部隊は9ヵ月程早く「艇進歩兵第1旅団」が編成され、グライダー部隊は3年も早く「滑空歩兵第1旅団」が編成される事になったのである。
1941年2月に初めてパラシュート降下実験に成功した事を受け、閑院宮総長が空挺部隊の編成を促進させたのである。
史実において連隊規模のグライダー部隊の編成は遅かったが、グライダー部隊自体は空挺部隊内に小部隊として編成されていた。
グライダー自体の開発も1940年から始まっており「二式小型輸送滑空機」が、1942年からこの頃はまだ艇進隊(空挺部隊)内の小部隊であった滑空班(グライダー部隊)に配備され始めている。
今回の歴史では閑院宮総長が、特に力を入れ空挺部隊とグライダー部隊の編成拡大に動いている事から史実よりも早い時期に実戦可能な状態になると見られる。
その空挺部隊の主要小火器は今の所「99式小銃」である。空挺隊員がパラシュート降下する時は、兵器専用のパラシュートも使い別々に降下して地上で回収し使用する方式だった。
ただしサブマシンガンの「100式機関短銃」が既に完成し、その生産が近く開始される予定なので、何れは「100式機関短銃」が主要小火器になる予定である。
閑院宮総長は「100式機関短銃」に大きな期待を寄せているようで早くから注目していたようだ。
ただ、注目するだけでなく「100式機関単銃」を生産する予定の「中央工業株式会社」にも「閑見商会」から出資を行い、その生産設備の拡大を図っている。
「中央工業株式会社」は日本の財閥の一つ「大倉財閥」系の企業であったが、「閑見商会」からの出資については、閑院宮総長の代理人が交渉し敵対的買収でもなければ、経営権を握ろうという意図はないという事で話を纏めたとも言われる。
史実においては、大戦後半からの登場となり生産数もそれほど多くなく、あまり活躍したとは言えない「100式機関単銃」だったが、今回の歴史では大幅に早い速度で部隊配備が進む事になる。
他には新たな部隊として「独立軽工兵旅団」なる部隊が編成されている。
これは言い換えるなら市街戦用部隊だった。
現代世界の歴史における冷戦時代、ソ連軍には市街戦を主任務とした「市街戦用特別工兵旅団」という部隊が存在している。
それと「独立軽工兵旅団」は同種の部隊である。
この部隊の主要小火器も今の所「99式小銃」であるが、何れは「100式機関短銃」が主要小火器になる予定だった。
「89式重擲弾筒」「100式火炎放射器」といった兵器等が通常の歩兵部隊よりも多い割合で装備され、他にも「97式20ミリ自動砲」(対戦車ライフル)を対物ライフルとして配備し、近接戦闘専門部隊としての役割が与えられた。
他には「独立狙撃兵大隊」が編成された。
陸軍の狙撃兵は通常1個師団3個連隊編成の部隊の場合、歩兵部隊の小隊指揮班に1名の割合で配属されている。
通常は狙撃兵を集めた部隊は編制されていないし、そうした狙撃兵の集中運用は行われない。
ただし、史実では戦争中には戦場での必要性から臨機応変の対処という事で臨時に狙撃兵を集めた部隊が編成され任務にあたっている場合もあった。
「独立狙撃兵大隊」は、大隊とはなっているが、実際の歩兵大隊よりは人数が少なく、歩兵大隊として動く訓練も為される事はなかった。
少数、または単独で、しかも敵後方での狙撃任務を遂行するような訓練が行われている。
所謂、現代風の軍の特殊任務狙撃班に近い部隊であり、この時代の軍隊としては、どこの軍隊も編成していない部隊であった。
現代における対テロ組織戦闘においては珍しくもない適地潜入狙撃任務であるが、この時代に果たしてこのような狙撃部隊を編成して有効かどうかは不明である。
この「独立狙撃兵大隊」が使用する狙撃銃は「97式狙撃銃」である。
これは「38式小銃」の生産ラインの中から精度の良い部品を選び、狙撃銃向けの改装を施し組み立て、倍率2.5倍の「97式狙撃眼鏡」を装着した物で、一般の歩兵部隊の狙撃兵もこれを使用している。
ただし陸軍では小銃を「99式小銃」に更新している関係から、一般の狙撃兵は現在開発中の「99式狙撃銃」に今後、更新する予定になっている。
「99式狙撃銃」も「99式小銃」の生産ラインの中から精度の良い部品を選び、狙撃銃向けの改装を施し組み立て、倍率4倍の「100式狙撃眼鏡」を装着した物である。
しかし「独立狙撃兵大隊」では「99式狙撃銃」を使う予定はなく「97式狙撃銃」を以後も使う予定であり、今後、陸軍内において唯一6.5ミリの小銃を使う部隊になる予定である。
部隊の改編が進み、新たな部隊も編成されていく中で、陸軍は満洲国を舞台に実戦訓練を行っている。
対象は匪賊(反満抗日を主張する武装集団及び武装強盗団)である。
史実において満洲国から匪賊が一掃される事は無かった。
原因は戦力不足である。
満洲は広大で山脈もある。
匪賊が隠れられる場所は数多くある。
しかし、日本は「日華事変」で多くの兵士を中華民国との戦いに派遣しており、満洲の部隊はソ連への警戒配置についている。更に後にはアメリカ、イギリス、オランダと開戦し南方に兵力を派遣した。
その結果、満洲国内部の匪賊を一掃する程の兵力を配置できなかったのである。
しかし、今回の歴史では「日華事変」は短期に終了している。
その為、兵力には余裕があった。
1個師団4個歩兵連隊制から1個師団歩兵3個連隊制へ改編完了し、「38式小銃」を「99式小銃」に更新した新編成部隊に、匪賊を敵軍に見立てての実戦訓練を順次行なわせたのである。
その結果、多くの匪賊が壊滅し満洲国内の治安は史実よりも各段に良くなり、経済的にも開発が促進される事になったのである。
満洲国は日本にとり欧米諸国における「スペイン内戦」と同様の地でもあった。
つまり実戦を通しての新兵器と新戦術の実験場である。
正規軍相手というわけではなく、匪賊は逃げるばかりであったが、それでも実弾や新兵器、新装備を試せ、機械化された部隊の実戦行動はプラスの経験となった。
こうして陸軍は史実よりも良い装備と行き届いた訓練を行う事により、更に精強になっていく。
【to be continued】
【筆者からの一言】
きっと「艇進歩兵第1旅団」が空挺降下する時は、総長の趣味でどこかの国の如く
「コース良し! コース良し! 用意!用意!用意! 降下!降下!降下!」と言っているに違いない。
そんなわけで装備の更新が進んでも「97式狙撃銃」が帝国陸軍から消える事は無かった……
総長「ふっ、いつかこの97で◯ューク東郷と腕比べしてみたいものよ……」
97!97!97!




