第97章: 沈黙の予言者
イザベルがヨリンのもとを訪れる夜。
それは、ただの密会ではなかった。
ウォーデンとしての信念と、ひとりの人間としての罪が、静かに交わる時――。
イザベル・ブラックウッド――ナーラカラのウォーデンにして、少なくとも今はカシュナールの守護者――は、予言者ヨリンの書斎の前で足を止めた。
北から吹き込む冷たい風がフードを揺らし、顔をさらそうとする。彼女は片手で布を押さえ、深く息を吸い込みながら、もう一方の手をローブの大きなポケットに滑り込ませた。
指先に触れたのは冷たい金属――盗んだコイン。彼女は拳を握りしめ、関節が痛むほど力を込める。これから踏み越える一線に、戻る道はない。
この調査を単独で続ける許可はない。しかも、ヨリンのような怪しい男に頼るのは、なおさら刃を自分にねじ込むようなものだ。ここで誰かに見つかれば――とくにこの格好で――疑いを切り裂けるほど鋭い嘘をひねり出すしかない。
だが、嘘は彼女の得意な武器ではなかった。
胸が激しく打ち、肋骨を突き破って逃げ出そうとしているかのようだ。なぜオルビサルは彼女をこのように試すのか。
扉へ一歩を踏み出すと、コインが手のひらに食い込んだ。
【ギャラス】「失礼」
背後から男の声が空気を切った。
彼女は凍りついた。鼓動が止まり、冷たい沈黙が胸を満たす。誰かに見つかった――しかも、この声には聞き覚えがある。
彼女はゆっくりと振り返り、フードを深く保ったまま、わずかに首を傾けて縁をほんの少しだけ持ち上げた。
視界の端に、鋭く探る視線がのぞく。
そこに立っていたのは尋問官ギャラス。彼の視線はフードの影を剥ぎ取り、隠そうとしたものをすべて暴き立てるかのようだ。
喉が締まり、脈が跳ね上がる。ギャラス……なぜ彼がこんな地区に? 見抜かれたのか? いや、落ち着け。彼に見えているのはローブ姿の人物だけ。顔はほとんど見せていない。
【イザベル】「……はい?」
彼女は肩をすくめ、声を低く荒くして、ほとんど別人のように応じた。
【ギャラス】「君は……」
彼は紙切れを一瞥した。
【ギャラス】「ヨリンのところに行くのか?」
ギャラスらしい。名を言い間違えるのが罪でもあるかのように、いつも名前を書き留める。
もう彼は、彼女がヨリンの扉まで歩いたのを見ている。否定しても悪化するだけだ。
彼女は一度うなずき、目を閉じて覚悟を決めた。
【ギャラス】「それで……あいつはどんな人物だ?」
【イザベル】「……どういう意味でしょうか?」
【ギャラス】「繊細な件で話がある。腕前と口の堅さは噂どおりか、知りたい。普段は、ああいう手合いとは関わらないんだが」
イザベルは瞬きをした。ギャラスが、しかも個人的な理由で、ヨリンについて意見を求めるとは。
好機だ。こちらからも情報を引き出せる。
【イザベル】「依頼の性質によります。私的なご相談ですか? それとも職務上の件? 鑑定すべきは物か、人か――」
【ギャラス】「……それが重要なのか?」
もちろん、本質的には関係ない。だが尋問官の腹の内を探らずにいるのは難しい。捜査に関わるかもしれないし、思わぬ弱点の手がかりになるかもしれない。
【イザベル】「場合によっては、意味を持ちます」
フードの陰から見えるのは彼の脚だけだが、それで十分だった。落ち着かず身じろぎし、離れかけては戻り、咳払いをする。
【ギャラス】「いくつか見せたい物がある。どこから来たのか、誰が触れたのかを知りたい」
彼は不安げだった。いつものギャラスではない。見知らぬ相手に助言を求めに来るほど――よほど切羽詰まっている。
彼も同じ用件なのか? 事件現場のコインを鑑定させに来た? だが、城塞の予言者を使えばいいはずだ。捜査を統べる尋問官である彼なら権限はある。
危険だが、もう一つだけ聞くべきだ。
【イザベル】「その手の鑑定なら、ヨリンは……とても得意です」
【ギャラス】「信用できるのか。秘密は守るのか?」
【イザベル】「その種の依頼を扱っているので、信用は厚いはずです。――それは私的なご用件で?」
【ギャラス】「……それは君には関係ない」
【イザベル】「承知しました。少々、興味があっただけです」
この声色を続ければ、喉がいずれ咳き込む。早めに切り上げるべきだ。
【ギャラス】「今から会うのか?」
彼女はうなずいた。
【ギャラス】「なら、奴が手すきの時にまた来よう」
彼は踵を返し、反対方向へ歩き出す。
イザベルは軽く頭を下げ、オルビサルに感謝した。ようやく彼が去った。――もう、この茶番をこれ以上引き延ばすわけにはいかない。
【ギャラス】「待て」
呼び止める声が先ほどより鋭く、心臓が跳ねた。彼女は立ち止まり、目をぎゅっと閉じ、肺が固くなった。
【ギャラス】「もし俺に気づいていたとしても、ここで俺を見たことは誰にも言うな。いいな?」
【イザベル】「誰だか知らないし、興味もない」
彼女は素っ気なく吐き捨てた。
振り返りもせず書斎へ向かった。足取りはあくまで一定――今すぐ駆け出したい衝動を押し殺しながら。背中に彼の視線が熱のように張りつく。アンデッドとやり合う方がまだましだ。こういう駆け引きは彼女の得意な戦場ではない。
入口に近づくと歩みを速め、ノックもせず取っ手を掴んで中へ滑り込む。
扉を閉め、フードを下ろす。ヨリンに顔を隠す必要はない。彼は彼女を待っているはずだった。
だが、部屋を見回しても彼の姿はない。
書斎は以前来た時とほとんど同じ。散らかったろうそく、雑然とした机、焼けた蝋の匂い。ただ一つ違っていたのは――隅の肘掛け椅子が空で、予言者の姿が見当たらないこと。
もしかすると、ほんの少し席を外しているだけかもしれない。
イザベルはコインを指で転がした。ヨリンが本当にその起源をたどれるかはわからない。だが、どこかから始めなければ。どうやら、ギャラスも同じ考えらしい。
水晶だけが魔力の器ではない。金属も痕跡を保てる――ただし量は少ない。残った残滓だけでも、以前にそれを手にしていた者を示すことがある。
熟練の予言者の手にかかれば、かすかな魔力の囁きでも十分だ。
彼さえ見つけられれば。どこへ行った? 約束の時間はもう始まっているはずだ。
イザベルはそっと室内へ踏み込んだ。
【イザベル】「ヨリン、入っていい?」
近くで見ると、書斎はいつもより乱れていた。倒れたろうそく、古い敷物に固まった蝋。横倒しの花瓶、床に散った色粉の鈍い雲。
視線が場をなぞる。誰かが急いで立ち上がり、花瓶を倒し、その勢いでろうそくを散らしたのだ。
彼女は片肩をわずかにすくめた。
ヨリンは奇人だ。今度はどんな思いつきで席を立ったのか、見当もつかない。そもそも予言者とはそういうもの。見えざる潮流に片目を据えて生きるのだから、日常が容易なはずもない。孤独なら、なおさらだ。彼女の知る限り、そんな暮らしをしている予言者は彼だけだった。
数年前、理由は不明のまま破門され、ここに居場所を築いた。そして、決して悪くはなかった。
無所属の予言者は稀で、秘匿を求める者たちが彼を訪ね、依頼は途切れなかった。
その時、壁に赤い筋が走っているのを見て、彼女は足を止めた。指で引きずったような跡。絵の具か? それとも――。
胃がきゅっと縮み、唇を固く結ぶ。息を整え、隣室へ踏み込む。重いカーテンを鋭く引いた。
ヨリンが仰向けに横たわっていた。両腕は力なく脇に落ち、目は大きく見開かれ、ガラスのように虚ろ――驚愕の面相のまま凍りついている。大きく開いた口の下には、さらに大きく穿たれた傷。血が細い筋となって床へと滴っていた。
喉が締まり、熱い鉄の匂いが鼻を刺す。吐き気がこみ上げる。戦場は見てきたが、ここで――彼の自宅で――こんなふうに出くわすのは、膝が崩れそうになる。
胸を締め付ける鼓動のまま、彼女は彼のもとへ駆け寄り、手首を掴んで静脈に指を当てた。
……何もない。
腕を放すと、その重みは命を失っていた。
くそ。誰かが先に来ていた。哀れなヨリン。彼女の調査を妨害するためか? いや、理屈に合わない。彼女がここに来る計画を知る者はいない。――いや、今朝までは彼女自身も予定していなかった。予約を入れると決めた、その朝までは。
誰かに尾けられ、意図を見抜かれたのだろうか。だが――彼女があのコインを持っていることまで、どうして分かる?
ヨリンはいつも多くの秘密を抱えていた。おそらく、別の依頼人の誰かが「生かしておくのは危険」だと判断したのだ。
彼女は膝をつき、短い祈りを捧げた。今できるのは、それだけだ。
この殺人を報告すれば、ここにいた理由を説明しなければならない。
残念だが、この遺体は別の者に見つけてもらうしかない。
イザベルは立ち上がり、部屋を見回した。寝室は書斎と同じように、花瓶やろうそくで飾られている。
倒れた花瓶やこぼれたろうそく以外に、争いの跡はない。犯人は刃を持って素早く仕留めたのだろう。ヨリンは肘掛け椅子から逃げ出し、寝室へ走った。その途中で花瓶やろうそくを倒したが、相手のほうが速かった。
喉を裂く刃を振り下ろされる、その瞬間に振り返ったに違いない。その恐怖は、凍りついた顔が物語っている。
一撃で仰向けに倒れ、二度と立ち上がらなかった。
犯人は入ってきたのと同じように去り、扉を閉めて出ていったのだろう。
ここで誰かに見つかれば、彼女が犯人にされる。すぐに立ち去らなければ――だが、その前に確かめたいことが一つ。
犯人はおそらく依頼人だ。ヨリンは迎え入れ、椅子に座って待っていたはず。
ならば、どこかに名前が記録されている可能性がある。彼は几帳面ではないが、依頼を追跡する手立てくらいはあるに違いない。
依頼人の名簿か、予定を書きつけた板。偽名でも、暗殺者や犯罪者は思ったほど用心深くない。
彼女は書斎へ戻り、低い机の前にしゃがみ込んだ。
花瓶、ろうそく、色粉の瓶、輝く水晶――しかし、名前のリストはない。
イザベルは唇を噛んだ。まだ何をしているのだ、私。死体と一緒に見つかれば説明は不可能だ。しかもヨリンの死は、私が来た理由とは無関係。
フードを被り直し、立ち去るべき――。
その時、紫の輝きが目に入った。寝室の小さな台座の上に、水晶が一つ。机の上に雑然と散らばる他のものとは違い、それだけは明らかに意図して別に置かれている。
その色の水晶は幻影の魔法を蓄え、映像や形、記憶さえ投影できる。
【イザベル】「――あるいは、情報を記録するために」
彼女は空の部屋に囁いた。
紙ではなく水晶に隠す。彼なら当然だ。
彼女は棚へ歩み寄り、水晶を手に取り、力をそっと流し込む。
……何も起きない。
ヨリンは封を施していたのだろう。依頼人リストは仕事の中でも最重要の機密。驚くことではない。
これを解ければ、犯人の名――少なくとも予約時に使った偽名――に辿りつけるかもしれない。
【???】「……何をしている」
突然の声に、血が凍った。
戸口にはギャラス。彼の視線は遺体に釘付けになり、見開かれた。
【ギャラス】「オルビサルよ……君は何をした」
沈黙の中に隠された真実。
ヨリンの死が偶然か、それとも仕組まれたものか――。
そして、ギャラスの言葉の裏には何があるのか。
次回、「裁きの影」にて、イザベルの選択が試される。




