第92章: 死の教団の影、忍び寄る
今日はアリラが学園に戻ります。けれど平穏な日常は戻りません――紫のスパイ、シエレリスが突然現れ、彼女の最大の秘密を握ってしまいます。
死の教団の影が、じわじわと近づいているのかもしれません。
アリラはベッドの上で上体を起こした。
窓の外では、黄金の光がサンヴェイルの枝葉を透かして差し込み、ロスメアの街並みを斑に照らしている。屋根や塔が朝靄を突き抜け、その向こうにはジャングルが落ち着かない緑の海のように広がっていた。そよ風は焼きたてのパンと湿った土の香りを運び、街中には鐘の音が響き渡る。その音は、森の鳥の甲高い鳴き声と絡み合っていた。
今日から訓練が再開する。
クラスメイトや教官と顔を合わせることを思うと、胃がきゅっと縮んだ。どうせ彼らはじっと見て、囁き合い、笑うかもしれない。いや、それ以上に、哀れむような目を向けてくるのが最悪だった。
唇を尖らせた。指さされ、横目で見られる光景が頭に浮かぶ。
少女の声が静寂を破った。
【シエレリス】「ふふ、なによその顔?寝起きが悪いの?」
アリラの心臓が跳ね、慌てて部屋を見回した。……誰もいない。
【アリラ】「だ、誰?どこにいるの?」
【シエレリス】「あら、見えないの?そうだったわね……自分を透明化してたんだったわ。」
紫の霧がアリラの顔にふわりとかかった。彼女はぎゅっと目をつぶり、ぱちりと瞬きをした。
そこに立っていたのはシエレリスだった。口元には自信たっぷりの笑みが浮かんでいる。
アリラは凍りつき、息が止まりかけた。
【アリラ】「あ、あなた!……ここで何してるの?どうして姿を現せるのよ!もし誰かに異端のスパイと一緒にいるのを見られたらどうするの!」
シエレリスの笑みはさらに深まる。
【シエレリス】「まあまあ、落ち着きなさいな。私は仕事を心得てるのよ。ここに入る前に学校を一周して、誰にも感知されないよう確かめたの。」
【アリラ】「……へえ、それはご親切ね。」
シエレリスは大げさに一礼した。
【シエレリス】「いつでもお役に立てて光栄だわ。私たちの中には姿を隠す術をちゃんと知っている者もいるの。あなたは、まだ学んでいないようだけど。」
アリラは歯を食いしばった。
【アリラ】「質問に答えてない!ここで何してるの?もう望むものは手に入ったんじゃないの?デレクがどんなことができるか見たでしょ?あの巨大なデーモンを、ほとんど一人で倒したのよ!それで彼がカシュナールだって十分な証拠じゃない!」
シエレリスの目は退屈そうに鈍り、声は平板になった。
【シエレリス】「感心なんてしなかったわ。私がいなければ、あなたの大事なウォーデンもその『カシュナール』も、とっくに死体になってたはずよ。感謝して当然でしょ。」
アリラの頬に熱が上がった。
【アリラ】「あんたがいなければ、誰も危険にさらされなかったのよ!」
思ったより大きな声になり、胸がぎゅっと締め付けられる。視線がドアへ走った。誰かに聞かれた?
……静かだった。ノックもない。
シエレリスはゆっくりと首を振り、冷ややかな笑みを浮かべた。
【シエレリス】「頭を使うことを覚えなさいよ。もし私が介入しなかったら、ナーカラの死体で作られた巨大なゴーレムが、この街の門を叩いていたのよ?」
【アリラ】「ふん、親切でやったって言うの?」
【シエレリス】「理由は私のもの。あなたには関係ないわ。」
【アリラ】「じゃあここに来た理由は言わないのね?いいわ、衛兵を呼ぶ!」
アリラは立ち上がり、ドアへ向かった。
【シエレリス】「……あなたの小さな秘密、知ってるのよ。」
取っ手に伸ばした手が止まった。胸に冷たい刃が突き刺さるようだった。振り返り、唾を飲み込む。
【アリラ】「な、何のことかわからない。」
シエレリスの笑みはさらに鋭くなる。
【シエレリス】「顔を真っ青にしなければ、もう少し説得力があったのに。エボンシェイドで追ってきた死体たちと同じ色よ。」
アリラの喉が固く締まった。まさか、それも……?
シエレリスは肩をすくめ、余裕たっぷりに続ける。
【シエレリス】「言うまでもないわ。あの日のことは全部見ていたし、人のオーラを読むくらいのことはできるの。預言者ほどじゃないけれど、私なりの勘があるのよ。そしてあなたの場合、見るべきものははっきりしていた。」
彼女の声は刃のように鋭くなる。
【シエレリス】「あなたの手のチャクラには《死》のエネルギーが宿ってる。それでも床でのたうち回ってないのは……奇跡的に安定してるからね。運がいいことね。」
アリラはゆっくりとベッドに腰を下ろした。
【アリラ】(どうすればいいの……秘密を知られてしまった……)
シエレリスはうなずき、口元に笑みを浮かべた。
【シエレリス】「そう、その顔の方がいいわね。覚えておきなさい。イザベルがその《死》の球体をあなたに渡した時点で、もう死刑判決を下されたも同然よ。でも……オルビサルは別の計画を用意しているようね。」
【アリラ】「イザベルは……やるべきことをしたの。自分で持とうとしたけどできなくて、それで私に頼んだのよ。任せてくれたことが光栄だった。デレクはその力を吸収して、あの怪物を倒したんだから。」
【シエレリス】「なるほど、思ったより従順ね。どう受け止めるか見たかったのよ。」
【アリラ】「どうして……?」
【シエレリス】「デレクは、イザベルがあなたに頼んだことにかなり怒ってるみたいよ。ここの会話、いろいろと聞かせてもらったわ。」
アリラの眉が寄る。
【アリラ】「デレクは私のものじゃない。それに、すぐ仲直りするはず。私のことで怒るなんて……」
シエレリスは呆れたように目を転がした。
【シエレリス】「ほんとに鈍い子ね。デレクが二度とイザベルを信じなくなる可能性だってあるのよ。……ま、信じたいなら勝手に信じればいいわ。」
アリラは頭を振り払った。
【アリラ】「……それで、結局ここに来た理由は何?」
シエレリスの笑みが深まる。
【シエレリス】「理由はいろいろあるけど、あなたに関係するのはこの学校よ。」
【アリラ】「学校に?……どんな理由で?」
【シエレリス】「父、コリガンはエボンシェイドの件を強く懸念してるの。死の教団の一員がすでに潜んでいるか、あるいはこれから来ると考えてるのよ。」
アリラの胸が高鳴った。
【アリラ】「死の教団が……?この学校に?何のために?」
シエレリスは意味深に、じっと彼女を見つめた。
アリラは思わず叫ぶ。
【アリラ】「……私を狙ってるの?」
スパイはゆっくりとうなずいた。
【シエレリス】「そう。あなたの《死》のエネルギーは稀少で、きわめて貴重。奴らはあなたを仲間に欲しがってる。オルビサル教会には不向きだと考えてね。……正直、私もそう思うわ。」
アリラは立ち上がったが、足がもつれて再びベッドに倒れ込んだ。
【アリラ】「……それで?」
【シエレリス】「父は《死》の教団が覚醒の鎖にとっても脅威だと見ているの。原則として死の魔法を禁じてはいないけど、エボンシェイドのやり口は容認できない。だから私の仕事は、奴らの動きを探って、できれば邪魔すること。」
彼女は片目をつむり、ウィンクする。
アリラは眉をひそめる。
【アリラ】「……それ、本当にコリガンが言ったの?『邪魔する』なんて、あんたの言葉でしょ。」
【シエレリス】「ふふ、鋭いじゃない。……それと同時に、デレクが本当にカシュナールかどうかも調べる。それくらい両立できるのよ。」
【アリラ】「……いつまで『お嬢ちゃん』って呼ぶつもり?」
【シエレリス】「大人になったらやめてあげるわ。」
アリラは息を吐き、ようやく思考をまとめ始めた。
【アリラ】「……ここまで話したのは、私に何かしてほしいからでしょ?」
シエレリスは軽く一礼する。
【シエレリス】「やっと考えが回り始めたわね。そうよ。いくら私が一人で動けても、この学校の中に目が増えるのはありがたいもの。」
アリラの胸が激しく鼓動する。
【アリラ】「……私にスパイをやれってこと?」
シエレリスは大声で笑い出した。
【シエレリス】「まさか。あなたはスパイに向かないわ。ただ普段通りにしてればいいの。目的を知った今、この学校に潜むカルトの人間を見つけてほしいのよ。」
【アリラ】「……本当にいるかどうか、どうやってわかるの?」
【シエレリス】「父には情報源があるわ。詳しくは言えないけど、必ず来るって確信してる。」
【アリラ】「……じゃあ、なんで私に?あんた、私じゃスパイに向かないって言ったばかりじゃない。」
【シエレリス】「ふふ……ここに潜んでる奴は、もうあなたを狙ってるの。だから一番疑わしい相手に気づけるのは、あなたじゃなくて?」
緑の瞳が狂気じみた光を放つ。無謀で、危うい輝きだった。
【アリラ】「……わかった。探してみる。」
シエレリスは手を叩き、乾いた音を響かせる。
【シエレリス】「完璧!怪しいことを見たら報告だけでいいの。首を突っ込まないことよ。……連れ去られたくないでしょ?」
アリラは冷ややかににらむ。
【アリラ】「……おもしろいわけないでしょ。」
【シエレリス】「また会いましょう!」
紫の煙が広がり、彼女の姿はかき消えた。
アリラは固まったまま指を組み、心臓が落ち着くのを待った。
深く息を吐き、胸の嵐を無理やり鎮める。感情を暴走させてはいけない。今度こそ。
死の教団、クローディン……そしてこの厄介なスパイ。どうして自分は、普通の生活を送れないのだろう?
髪をかきむしり、空っぽの部屋に叫び、椅子を蹴飛ばした。
足に鋭い痛みが走る。
【アリラ】「いった!……くそっ、くそっ、くそっ!」
ドアがノックされた。
ドアの外には、腕を組み、不機嫌そうな顔をしたタニアが立っていた。
【アリラ】「タニア?どうしてここに?」
【タニア】「クローディン教官に言われたの。あんたが訓練に戻れるか確かめろって。」
【アリラ】「でも、授業はまだ一時間先でしょ?」
【タニア】「普通の訓練じゃない。落ちこぼれ用の補習コースのこと、忘れた?」
【アリラ】「……ああ、それね。」
まだ足は痛んでいたが、ただの打撲だとわかっていた。エボンシェイドの惨劇を生き延びておいて、部屋で足を痛めるなんて、冗談にもほどがある。
靴を結ぼうと身をかがめたとき、冷たい考えが胸をよぎった。……もしタニアがカルトのスパイだったら? わざわざ自分と訓練したがる理由なんて、それしかないのでは――。
だが、考えすぎだと頭を振った。そんなふうに疑い始めれば、誰も信じられなくなる。自分の役目は探偵を気取ることじゃない。観察して、報告するだけだ。
これまでのところ、タニアが怪しい行動をしたことは一度もなかった。
【タニア】「どうする?嫌なら、無理って伝えてやるけど?別にあんたと時間潰したいわけじゃないし。」
タニアは頭一つ分背が高く、実力の差がなくても十分に威圧的だ。まさにチャンピオン。
クローディンがこの訓練を続けろと命じた理由はわからないが、期待を裏切るわけにはいかなかった。
【アリラ】「だ、大丈夫。ちょっと準備するだけ。」
【タニア】「勝手にしな。ジムで待ってる。」
そう言い残して、首を振りながら歩き去った。
――準備を終え、ジムへ向かう。
青い水晶灯が廊下を冷たく照らす。食堂へ向かう生徒たちが好奇の目を向けてきたが、声をかける者はいなかった。
彼女はうつむき、歩みを速める。注目も質問も、いまはごめんだった。
ジムでは、タニアがすでにストレッチをしていた。
しなやかな体を片脚へ、次にもう片脚へと折り曲げる。その動きは正確で、揺るぎがない。
タニアはすっと立ち上がり、片眉をつり上げた。
【タニア】「で、どうだった?」
【アリラ】「え、何が?」
【タニア】「エボンシェイドに決まってるだろ。みんなその話ばっか。でも、くだらない噂にしか聞こえねぇな。」
【アリラ】「……ひどかった。たくさんの人が死んだ。司祭さまも。」
そして――マーカスも。
喉に塊がこみ上げたが、飲み込んだ。
【タニア】「村を引き裂く化け物がいたって噂もあるけど?」
【アリラ】「……話したくない。訓練に来たんでしょ?」
拳を構え、視線を逸らす。あの記憶を繰り返すくらいなら、一日中殴られた方がましだった。
【タニア】「ふん、いい度胸だな。そこまで殴られたいなら、喜んでやってやるよ。」
アリラは歯を食いしばった。
【タニア】「さあ来いよ、小さな芽生え。……そういや、この前の借り、まだ返してなかったな?」
しまった……。
【アリラ】「タニア、どうしてクローディンは私と訓練させたの?あなた、私から学べることなんてないはずでしょ?」
タニアは首筋をかき、頭を振った。
【タニア】「それが違うんだよな。クローディンは、この無駄な時間が私に役立つと思ってる。理由は知らねぇ。……トーナメントと関係あるのかもな。」
【アリラ】「トーナメント?」
【タニア】「そうだよ。今学期最初のトーナメントがもうすぐある。ロスメアから二人の有望な生徒を選んで全国トーナメントに送るんだ。男子校も別でやってる。遊びじゃない。今のウォーデンは、ほとんどが優勝者か決勝進出者だ。」
【アリラ】「……そんなの知らなかった。じゃあ、頑張ってね。」
タニアは軽蔑の目を向ける。
【タニア】「運なんていらない。必要なのはあんたの方だよ。」
【アリラ】「わ、私?私も出るの?でも私はまだ芽生えで、入学して間もないのに!」
これは遊びじゃない。――観客、教官、他都市の要人たちの前で戦う。ひとつでも失敗すれば、何年も笑い者だ。
【タニア】「トーナメントは全員に開かれてる。ランクも区分もなし。全員、同じチャンスがあるんだよ。」
――もう終わりだ。ナーカラ全土の前で完膚なきまでに叩きのめされる。
タニアは口元を歪め、皮肉な笑みを浮かべる。
【タニア】「エボンシェイドを生き延びたくせに、トーナメントごときにビビってるのか?」
【アリラ】「こ、怖くない!……ただ、準備が足りないの。恥をかきたくないだけ!」
【タニア】「なるほどな。じゃあ時間を無駄にせず始めようぜ。」
彼女は構えを取り、口角が残酷に吊り上がった。
アリラはごくりと唾を飲み込んだ。
――学校に戻った最初の日は、とても、とても長い一日になりそうだった。
ついにアリラの秘密が他人に知られてしまいました。
シエレリスの狙いは何なのか、そして学園に潜むという死の教団の存在は本当なのか……。
次回、アリラは不安を抱えたまま補習訓練へ挑みます。




