第73章: 湿った森の空気と鍛冶屋の家
今回の話はちょっと落ち着いた雰囲気です。
アリラが出会う鍛冶屋は一体どんな人物なのか、楽しんでいただければ嬉しいです!
アリラは地下墓所を出て、マルクスの後を追った。シエレリスも、すぐ背後に続く。
扉を出た瞬間、湿ったジャングルの空気が壁のように押し寄せてきた。
三人は素早く、だが慎重に進む。マルクスは何度もジャングルの方をちらりと見た。奇妙なほど静まり返っている。前方に見える建物群までは、あと数百メートルしかなかった。
アリラは息を殺し、命を救ってくれた見知らぬ男の広い背中を見つめ続けた。彼が誰なのか、まだ分からない。こめかみから頬にかけて走る傷跡が、灰色の無精ひげを貫き、太い腕は黒い体毛に覆われていた。威圧的な外見のはずなのにーー
……なぜか、安心できた。理屈じゃない。本能が、信じてもいいと告げていた。
彼らは暗い石造りの平屋にたどり着いた。屋根は錆びた鉄板と焦げた木で補修され、煙突の周囲には煤がこびりついている。雨が降っていても、鉄と煙のにおいが空気に残っていた。
鍛冶場だ。
マルクスは扉の前で立ち止まり、重いハンマーで「コン、コン、コン」と三度ノックし、少し間を置いてから、さらに三回ノックした。
彼らはその背後でしゃがみ、じっと待つ。
やがて、重い足音が中から響いた。続いて、木材が石の床を引きずる音。鈍い擦過音が数秒続き、止んだ。
マルクスはゆっくりと扉を押し開けた。
アリラとシエレリスは目を見合わせる。アリラが小さく肩をすくめ、先に中へ。魔導士も無言で後に続いた。
中に入ると、マルクスは鍛冶ハンマーを床に置き、足で扉を「バン」と閉めた。
乾いた空気に、溶けた鉄と灰の匂いが混じっていた。喉の奥が焼けるように痛んだ。アリラは顔をしかめた。
無言のまま、大男は巨大な木の梁を軽々と持ち上げた。普通の人間では持ち上げることすら難しい代物。それを入り口に横たえ、扉を封鎖した。
アリラの心臓が跳ねた。その梁を一人でどけて逃げるのは、不可能だ。
すすけた石の壁に囲まれた部屋には、他に出口は見当たらない。
鼓動が耳の奥で鳴り響く。壁には金属製の道具がずらり。ハンマー、トング、ペンチ、鍛造レンチ……錆びたものもあれば、まだ輝きを放つものもある。
床にはいくつかの道具が散らばっていた。血の跡や、正体不明の……見たくもない何かで汚れていた。
部屋の隅では、煤で汚れた顔の子供たちが身を寄せ合っていた。目だけが異様に白く浮き上がっている。怯えた表情。片目に包帯を巻いた子もいれば、腕を抱えてうずくまっている子もいる。
マルクスがノックしたとき、扉を開けたのはきっと彼らだ。他にあの梁を動かせる者などいない。
ここは一体……? この男はいったい誰なんだ? 本当に助けてくれたのか、それともーー囮?
シエレリスの言葉が頭をよぎった。あの警告を無視すべきじゃなかった。だがもう遅い。閉じ込められたのだ。
どうして、あんなにも無防備だったのかーー。
アリラは唾を飲み込み、一歩後ずさった。その背には、魔導士がいる。
【シエレリス】「おい、足元に気をつけなよ、ガキ。」
アリラは答えず、マルクスを見つめた。その動きを、読もうとしていた。
マルクスは床に落ちていた血と何かで汚れた道具を拾い上げ、壁に丁寧に戻していく。
アリラは視線を部屋の一角に向けた。ーー出口はない。戦うしかないのか? でも、素手であの巨体を相手にするなんて……
どれか道具を掴めれば……
不意に、小さなアウレリアの壊れた身体が、脳裏をよぎる。さっきまで隣にいた少女。その姿が、粉々になって横たわる様子。
背筋が凍った。
屋根を打つ雨の音は、金属と石にこもって続いている。遠くで雷が鳴り、建物がかすかに揺れた。火鉢がぱちぱちと音を立てていた。
マルクスはハンマーを肩に担ぐ。まるで羽のように軽々と。
アリラの体が反応した。芽生えとして叩き込まれた訓練が、反射的に動く。拳を握り、低い構えを取った。
マルクスは驚いたように、手を上げる。
【マルクス】「おいおい、ガキ。どうしたんだ?」
アリラは視線を走らせる。武器になりそうなものを探す。トング……いけるか?
マルクスはゆっくりとハンマーを肩から下ろし、片手を上げたまま、壁に立てかけた。
【マルクス】「落ち着け。何もしない。ほら、ハンマーは置いた。な?」
そして、一歩下がる。
その瞬間、アリラの後頭部に何かが当たった。
素早く振り返る。反撃の準備をしながらーーそこには、シエレリス。睨んでいる。
【シエレリス】「少しは落ち着いたら? あたしにも殴りかかるつもり?」
アリラは眉をひそめる。なんで今、叩く? こんな状況で?
彼女は再びマルクスに向き直った。構える気持ちは、まだ残っていた。
だがマルクスは、腕を組み、ただじっとこちらを見ていた。
【マルクス】「友達の言う通りだ。落ち着け。ここは安全だ。」
アリラは黙ったまま視線を合わせた。なぜだか、信じたい気持ちが湧いていた。だが、体は動かない。訓練による反射か、それとも恐怖か……
マルクスは静かに首を振り、子供たちの方へ向かった。
一番小さな子の前に膝をつき、包帯を優しく調整し、髪を軽く撫でる。
【マルクス】「よし、それでいい。きつく巻いとけ。ちゃんと治せる奴が来るまでな。」
子供はこくりとうなずく。
続いて、腕を押さえていた少年の元へ。マルクスの大きな手が、意外なほどに優しい。少年は痛そうな顔をしたが、泣きはしなかった。
アリラはその光景を見て、口を開けたまま立ち尽くす。彼は誰も傷つけようとしていない。子供たちの世話をしている。
そして今は、自分たちのこともーー
彼女は自分の拳を見た。まだ固く握っている。
……馬鹿みたいだ。
震える息を吐き、拳を下ろした。
マルクスはアリラの方へ向き直る。
【マルクス】「いきなり現れて、クソでかいハンマーを振り回して、あのアンデッドの少女を叩き潰して……で、扉を封じた。そりゃ、警戒もされるか。脅かすつもりはなかった。」
彼は頭の後ろを掻く。
【マルクス】「それで、名前は?」
【シエレリス】「あたしはシエレリス。怖がっちゃいないわ。ただ、信用してないだけ。この中で取り乱してたのは、そこの彼女。」
顎でアリラを示す。
マルクスはアリラを見る。
アリラは頬を赤らめ、ぎこちなく微笑んだ。
【アリラ】「アリラです。オルビサルの芽生えです。」
マルクスはうなずき、二人をじっくりと見つめる。
【マルクス】「ってことは……ロスメアからか。どうしてまた、こんなところに? あそこじゃ「エボンシェイドには近づくな」って教えてるはずだろ。」
目を細める。
【マルクス】「家出でもしてきたのか?」
アリラが口を開こうとしたその時、シエレリスが割り込む。
【シエレリス】「ビンゴ。」
さらりと言って、顎をしゃくる。
【シエレリス】「じゃあ今度は、あんたの番。近くに《生命》の《球体》が落ちたのは知ってる。でも、あたしたちが見たものは、ただの低ランクの《球体》じゃ説明できない。……神官、名前はたしかーーエリアス? 一体何があったの?」
マルクスの顎がわずかに動き、長い傷跡がぴくりと引きつった。それはまるで、皮膚の下を蛇が這ったようだった。
アリラが凝視しているのに気づいたのか、マルクスはその傷に手を添える。
【マルクス】「悪魔の爪だ。」
シエレリスが眉をひそめた。
【シエレリス】「悪魔? エボンシェイドに? 飛躍しすぎじゃない?」
マルクスは小さく首を振る。
【マルクス】「俺はもともとここに住んでたわけじゃない。昔は、神聖護衛隊付きの鍛冶屋だった。任地は転々としたが、最後はロスメア。武器、鎧、盾ーー投げられたもんは何でも修理した。たまに戦場にも駆り出された。」
傷跡を指でなぞみ、顔をしかめる。
【マルクス】「数が多すぎて、もううんざりだった。静かな場所を求めて、ここに来た。」
【シエレリス】「感動的ね。で、あの子たちは?」
鍛冶場の隅を顎で示す。
【シエレリス】「非常食?」
マルクスの表情が曇る。
【マルクス】「違う。……って、なんてこと言うんだ、お前。冗談が過ぎる。あいつらは弟子だよ。……まあ、全部が地獄になったときに一緒にいた。」
シエレリスは子供たちを一瞥し、皮肉げに言った。
【シエレリス】「……鍛冶屋向きには見えないけどね。」
アリラが一歩前へ出る。
【アリラ】「何が起きたのか、知ってるんですか?」
マルクスは静かに首を振る。
【マルクス】「全部が狂う数日前、神殿の前で騒ぎがあった。エリアスが村人たちと口論してた。……でも、俺は宗教とは関わらない主義なんだ。」
そのとき、腕を押さえていた少年が小さな声で言葉を挟んだ。
【少年】「あれ……教団だった。死者の教団。エリアス、すっごく怒ってた。」
シエレリスが鋭く目を細める。
【シエレリス】「理由は?」
少年は肩をすくめた。
【少年】「もともと嫌ってた。「冒涜者」とか言って。でも今回は……なんか、もっと怒ってた。怖かった。」
アリラはマルクスに視線を戻す。
【アリラ】「それから、どうなったんですか?」
マルクスは天井を指差す。
【マルクス】「その時、《生命》の《球体》が墜ちてきた。この地域で初めてじゃない。数年前にも一つあった。そのときは、混乱で済んだ。エリアスが封印して、ロスメアから回収部隊が来た。」
シエレリスの瞳が光る。顎を上げ、声のトーンをわずかに変える。
【シエレリス】「でも今回はーー違ったのね?」
マルクスは大きく息を吐いた。
【マルクス】「地獄だった。村中が混乱した。《球体》を見に行く者、離れろと叫ぶ者……でも誰も、本気で心配してなかった。エリアスがいるからって。」
顔の汗を拭いながら、苦い声でつぶやいた。
【マルクス】「みんな、彼ならなんとかしてくれると……そう思ってたんだ。」
【シエレリス】「で? その彼に、何が起きたの?」
【マルクス】「……わからん。だが、《球体》を拾って戻ってきたエリアスは、もう別人だった。封印もせず、祭壇にも置かず、杖に埋めて持ち歩き始めた。」
【マルクス】「周囲は不安がった。エリアスは意味不明なことを語り出し、神殿の外で説教し始めて……人々がロスメアに助けを求めようとした、その時ーー」
【シエレリス】「死者が、墓から這い出した。」
マルクスは重くうなずいた。
【マルクス】「最初は、話せたんだ。考える力もあった。家族と抱き合って、普通に会話して……エリアスは「オルビサルの奇跡だ」なんて言ってた。「あれは狂わない」って。何人かは信じた。……俺も、信じてしまった。」
【シエレリス】「でも、違ったのね?」
マルクスはゆっくり首を振る。
【マルクス】「すぐに狂い始めた。殺し始めた。死者は全員蘇って、狩りに加わった。でも、エリアスには手を出さない。」
【マルクス】「……奴が、奴らを操ってる。「忠実なる者たち」と呼んでた。完全にイカれてたよ。」
鍛冶場に静寂が満ちる。雨の音と、火鉢のぱちぱちとした音だけが聞こえていた。
アリラは身じろぎする。ざわつく気持ちが、背筋をなぞる。
床に散らばった血まみれの道具は、もはや鍛冶用じゃない。戦いの跡だった。
子供たちの傷を見れば、彼らがマルクスと共にこの場を守っていたのは明らかだった。
彼らはここに立てこもって、生き延びていた。一方の扉は溶接され、完全に閉ざされている。出入りできるのは、今自分たちが通ってきた、あの一つだけーーあの梁の先。
突然、シエレリスが手を叩いた。
アリラは思わず身を震わせた。……今度は何? また何か始まる?
【シエレリス】「いやあ、素晴らしいわね!」
まるで劇場のカーテンコールみたいな声だった。
【シエレリス】「ありがとう、鍛冶屋さん。話のおかげで、あたしたちがすでに知ってたことが確認できたわ。エリアスが関わってて、《生命》の《球体》が墜ちてから全部がぶっ壊れた。それだけ。」
彼女はマルクスを顎で指す。
【シエレリス】「で、あんたはどうするつもり? ここに閉じこもって、アンデッドが飽きて帰るのを待つわけ?」
マルクスの表情が険しくなる。
【マルクス】「いや。《砦》が救援をよこすまで、ここを守る。ロスメアは遠くない。必ず助けが来る。外のジャングルで野垂れ死ぬより、ここにいた方がマシだ。」
シエレリスは皮肉げに唇を吊り上げ、首を振った。
マルクスの眉がぴくりと動く。
【マルクス】「……何だ。言いたいことがあるなら、言え。」
シエレリスは真っ直ぐにマルクスを見据えた。
【シエレリス】「もし来るなら、とっくに来てるはずでしょ?」
子供たちがざわつき始めた。不安のさざ波が空気を揺らす。
アリラは唾を飲む。ーー言葉に出せないけど、シエレリスの言うことが正しい気がする。ロスメアは遠くない。馬なら数時間。歩いてもーーそれなのに、何日も何もない。
マルクスは何も答えず、視線を落とす。
【シエレリス】「あたしが見たもの、教えてあげようか?」
【シエレリス】「さっき、木の間に「神聖護衛隊」の制服を着たアンデッドがいたわ。」
マルクスはじっとシエレリスを見る。
【マルクス】「……確かか?」
【シエレリス】「確かよ。」
あまりにあっさりと。
【シエレリス】「つまりーーもう誰か来た。でも、うまくいかなかった。再編成中か、もしくは最初から見捨てられてたのかもね。」
わざとらしくため息をついた。
【シエレリス】「やれやれな時代よね。空から《球体》は降ってくるし、《メサイア》が現れたなんて噂もあるし。古代の預言も蘇る……さて、そんな中で、オルビサルの教会がこんな沼地に兵を送ると思う?」
アリラの拳が震える。ーーやめろ。子供たちを怖がらせるな。
【アリラ】「《カシュナール》様は、今このエボンシェイドにいます!」
空気が、止まった。
一瞬の静寂。みんながアリラを見ていた。
アリラは頬を赤くしながらも、顎を上げて続ける。
【アリラ】「お一人じゃありません。仲間もいます。そして……あたしたちを探してくれています。」
ちら、とシエレリスを横目で見る。あの片口の笑みーーまったく、腹立たしい。
【アリラ】「絶対に見つけてくれる。あと少し……信じて待てばいいんです。」
マルクスは驚いたように眉を上げ、ふっと口元がゆるんだ。
【マルクス】「本当か、ガキ。」
アリラは力強くうなずく。
マルクスの顔に笑みが広がった。彼は子供たちの方を振り向いた。
【マルクス】「聞いたか、お前ら! 《カシュナール》様がここに来てくださったんだ! 奇跡だ! オルビサルを讃えよ、助かったぞ!」
子供たちの顔に、ぱあっと安堵が広がる。小さな子が、涙を浮かべて微笑んだ。
アリラも、静かに微笑み返した。
その横で、シエレリスは冷めた目で見ていた。
【シエレリス】「じゃあ、あんたたちはここで《メサイア》を待ってなさい。」
そう言って、入口へ歩いていく。扉を塞ぐ梁の前で立ち止まり、マルクスを振り返る。
【シエレリス】「それ、どかしてくれる? やることがあるの。」
マルクスは眉をひそめる。
【マルクス】「外は地獄だ。アンデッドだらけだぞ。武器も持たずに、一人で何をするつもりだ?」
シエレリスは片手を挙げ、紫の霧がその身を包む。
霧が晴れると、そこには腐敗した男が立っていた。こけた頬、剥がれかけた皮膚、露出した骨。
マルクスがのけぞり、子供たちは悲鳴を上げる。
アリラは顔をしかめた。ーーまたか。何かしら、見せびらかさずにいられないのね。
アンデッドはうめき声を上げ、手を掲げる。そして再び紫の霧に包まれた。
霧が晴れると、元のシエレリスが立っていた。表情は冷めたまま。
【シエレリス】「あたしが子守り係を押し付けられてなければ、アンデッドの間を抜けるくらい簡単よ。」
マルクスに向かって、冷たく言う。
【シエレリス】「だから、開けて。あんたには関係ないでしょ?」
マルクスは咳払いし、何も言わずに梁を持ち上げた。
……もう、止める気はない。むしろ、出ていってくれるならそれでいい。そんな顔をしていた。
【アリラ】「どこへ行くつもりなの?」
この女が何を考えてるか、誰にも読めない。
シエレリスは口の端だけで笑った。
【シエレリス】「《メサイア》がどこに行ったのか、確かめに。」
そして、雨の中へと消えた。
アリラはその背を見送った。胸が重く沈むように感じながら。
あいつは何かを企んでいる。間違いない。なのに……誰にも話さなかった。
ーーそれこそが、一番の警告だ。
あの女を出してしまったのは、正しかったのか?
それとも、この夜でーー
―――最大の過ちだったのか。
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