第62章: 私は、あなたの剣となります
俺はもう誰も信じないと決めた。
でも――あいつは、信じてくれた。
ならば俺も、信じてみてもいいだろう? 一度くらいは。
犬は黒い矢のように、まっすぐ彼らへ向かって突っ込んできた。
唸りも、吠えもない。
あの不気味な、ギクシャクした動きもなかった――デレクがゾンビのホロフィルムで見慣れていたような、あの動きは。
ユキはいつも、そういうシーンになるとクッションの後ろに隠れていた。
なのに見せたら怒るんだ――「またこんなの見せて!」って。
NOVAのディスプレイに、ラベルがちらりと表示された。
クリーチャーの頭上に。
《レベル:アイアン6》
熱と光が一閃する。
デレクが目を細めた瞬間、火球が空を裂いて犬へ飛んだ。
アンデッドの犬は、避けようともしなかった。
火の塊はそのまま真正面から命中し、火山の噴火に弾き飛ばされた溶岩のように――後方へ。
ドスッ、と湿った音。
転がり、数回跳ねて、止まる。
炎に包まれた肉の塊。
【デレク】(……HPバーはなし。レベル表示の下、何もない。)
倒したのはツンガか――それとも、まだ終わってないのか。判断はできなかった。
イザベルは一息で剣を抜いた。
刃に沿って白い火花が弾ける。
そのまま焼けた死体に一歩踏み出した。
【イザベル】「まだ終わっていません。下がってください。」
黒焦げの塊が、ぴくりと動く。
ツンガの魔炎がまだ纏いついていた。
彼は杖を構えたまま目を細め――静かに、力を送り続けていた。
こめかみには汗が流れている。
……焼き尽くす気だ。何もかも。
犬がよろめきながら四足で立ち上がろうとしたとき、イザベルが間に合った。
ツンガの炎はもう消えかけていた。
焼けた肉からは、腐臭と焦げた臭いがNOVAのフィルターに染み込み始めている。
遮断はできた。
でも――しなかった。
【デレク】(全部感じたかったんだよな。これも「観測」だ。)
臭い一つひとつが、あの身体が「動いてる理由」のヒントになりうる。
だから、フィルターも切った。
イザベルの剣が、低く水平に閃いた。
【イザベル】「《オルビサル》の力を受けなさい、穢れし者!」
パキンッ――太い枝が折れるような音。
犬の首が、体から吹き飛ぶ。
湿った草の上に、数メートル転がって落ちた。
……なのに、体は倒れない。
脚は突っ張ったまま硬直し、まだ魔力の残響で震えている。
それでも、動かない。倒れない。
血は出ていない。
血圧も、体温も――ゼロ。
頭すら、ない。
それでも――立っている。
イザベルが一歩下がり、ツンガを見る。
彼は無言で頷き、再び杖を上げた。
二発目の火球が、死体に叩き込まれる。
今度こそ、地面に沈んだ。
イザベルは死体のそばまで歩き、炎の中を覗き込む。
大剣を高く構え、深く息を吸い――縦に一閃。
肉の塊が真っ二つに裂け、燃える破片が左右へ散った。
彼女は黙ってそれを見ていた。
燃え尽きるまで、じっと。
―――
【ツンガ】「……まだ動いてるか?」
【イザベル】「……動いていないようです。」
ツンガが杖を下ろす。
魔炎が、すっと消える。
NOVAのHUDに通知は出ていない。
……すでに死んでいたから?
あるいは、デレクが一度も攻撃していなかったから?
――いや、そもそもこの狂った世界のルールが、まだ分からねぇ。
彼は焼け焦げた死骸に歩み寄った。
NOVAのブーツが、湿った草の中に沈んでいく。
【デレク】「ヴァンダ、死体をスキャン。何かエネルギー反応でも残ってねぇか?」
【ヴァンダ】「はい、デレク。微弱なエネルギー場が、まだ体内で活動しています。」
胸が縮む。
【デレク】「……また動くか?」
【ヴァンダ】「いいえ。」
【ツンガ】「……目覚めた《球体》から、遠い。」
声は低く、ざらついていた。
【デレク】「つまり……あの《球体》の着地点が近かったら、コイツはまた動いてたってことか?」
【イザベル】「そうね。近ければ、また立ち上がってた。そして私たちを襲ってくる。だから言ったでしょ? 細かく砕くの。十分に小さくすれば、《球体》の力でも再構成できない。」
デレクは顔をしかめ、焼けた死体を蹴飛ばした。
後ろ脚が、茂みへ転がる。
【デレク】「ツンガの言った通りだな。あそこにはゾンビがいる。……でも、そこまで強くはなさそうだ。こっちが先にバラせば、それで済む。」
彼は笑った。短く、皮肉げに。
【デレク】「向こうが組み直すより、俺が壊す方が速い。……なあ?」
彼はツンガを見た。
次に、イザベルを。
……どちらも、笑わなかった。
【イザベル】「……デレク。本当に分かってるのかしら? 私たちがこれからどこに踏み込むのか。」
【デレク】「……何か見落としてるのか?」
【イザベル】「ええ。今のは、迷って出てきた一匹。しかも《球体》の力から遠かった。でもこれから向かうのは、群れよ。アンデッドの群れ。簡単には倒せないし、倒しても終わらない。……これは「殲滅任務」じゃない。「捜索と救出」よ。中に入って、アリラを見つけて、出てくる。それだけ。」
言い切る声に、迷いはなかった。
【イザベル】「そして、できれば……自分たちがアンデッドにならずに済むよう祈る。それが現実よ。……いいわね?」
デレクは大きく息を吐いた。
【デレク】「了解。目立たず行動。……「俺流アピール」は禁止ってことだな。」
イザベルは無言で頷く。
【デレク】「で、シエレリスは? 「異端の小間使い」をどうするつもりだ?」
彼女はすぐには答えなかった。
表情は無。
でも――拳が白くなるほど握られている。
こめかみの血管が脈打っていた。
やがて、絞り出すような声。
【イザベル】「彼女は連れていけません。……デレク。」
デレクはゆっくり頷いた。
ああ――そういうことか。
見つけたら、始末するつもりだ。
ここ、《エボンシェイド》で、死体の山に紛れさせて。
《オルビサル》の慈悲、ってやつか。
「そんなの、俺は認めねぇ。」
腕を組み、静かに言った。
【デレク】「じゃあ、問題だな。今ここで、話をつけるぞ。」
【イザベル】「デレク、彼女はアリラを誘拐したのよ!」
【デレク】「嘘だな。」
声に、何の起伏もない。
ただの事実確認。
【デレク】「あんた、前からずっと殺したがってたじゃねぇか。」
イザベルの顎がわずかに上がり、眉間が険しくなる。
【イザベル】「私の理由がどうであれ、関係ないわ。彼女がアリラを誘拐したのは事実。それだけで十分よ。」
【デレク】「ああ、事実だな。アリラを連れ出し、危険に晒した。
正直、俺も頭に一発くれてやりたいくらいだ。」
イザベルの拳が震える。
【イザベル】「これは、ただの悪ふざけじゃない。
異端者による教会の芽生えへの犯罪よ。軽くは済まされない。」
【デレク】「……ただの少女だぞ、イザベル。マジで、なんなんだこの星は?
あの子は親父に認めてほしくて無茶やっただけだろ。
しかもその親父ってのが、お前らの敵の総本山、「あの派閥のトップ」ってわけだ。」
声に苛立ちが滲む。
【デレク】「俺だって子供の頃、親父の気引くために相当バカなことしたさ。」
イザベルは鼻で荒く息を吐いた。獣のように。
【イザベル】「彼女は、教会を侮辱したのよ。私たち全員を。そして、ウリエラ様を――
評議会の面前で!」
【デレク】「俺もだ、イザベル。全く同じことをやったぞ。
それでも、俺の首は狙わないのか?」
彼女は目を伏せ、唇を真一文字に結んだ。
【イザベル】「あなたと彼女、似てるのかもね……。だから、あなたは庇うのかもしれない。」
【デレク】「違うな。俺が庇ってるのは、「ただの迷ってる子供」だ。
――あんたらがゾンビ犬みたいに、殺そうとしてる子供じゃねぇ。」
【ツンガ】「犬……もう死んでた。」
不機嫌そうに呟く。
【デレク】「ああ、ありがとな、ツンガ。ナイス補足だ。」
【イザベル】「……聞きたくないのは分かってる。でもデレク、あなたは「カシュナール」よ。
あなたの行動は、《オルビサル》の御心に繋がる。選ばれたのは、理由があるから。あなたが……「それをするため」に。」
彼女は曖昧なジェスチャーを交えながら続ける。
【イザベル】「でも、シエレリスはただの異端者。
評議会を騙し、カシュナールを騙し――それに……」
言いかけて、止まる。
【デレク】「……そして、お前も、だろ?」
彼女は遠くを見る。
目を合わせようとはしなかった。
【イザベル】「違う。それとは関係ない。」
【ツンガ】「俺、あの娘好き。シャーマン向いてる。」
ツンガは真顔。まったくの本気だった。
イザベルが鋭く睨みつける。
だがデレクは、一歩踏み出して彼女の前に立つ。距離は一メートルもない。
ヘルメットを外すと、熱気が顔を包んだ。湿った布でも叩きつけられたようだ。
【デレク】「いいか、イザベル。……確かに、「カシュナール」って呼ばれるのはクソ嫌いだ。でも、お前が持ち出した以上、今はっきりさせる。」
彼はガントレットの手で彼女の顎を掴み、無理やり目を合わせさせた。
彼女も睨み返してきた。顎を食いしばり、一歩も退かない。
【デレク】「エボンシェイドの作戦は「救出」だ。あんたが言った通り。
もし生きてるなら――アリラも、シエレリスも、両方に連れ帰る。
無傷で、安全に。」
微動だにしない彼女に向かって、低く告げる。
【デレク】「これは、カシュナールからの命令だ。
《ナルカラ》のウォーデンよ――答えろ。」
【イザベル】「……デレク、彼女はもうアリラを誘拐してるのよ。次に何を――」
【デレク】「答えは?」
一瞬口を開きかけ、そして――閉じた。
短い沈黙の後、硬い動きで頷く。
【イザベル】「……カシュナールのご命令に従います。」
デレクは顎を離し、一歩下がった。
口元に、うっすらと笑み。
【デレク】「よかった。お前を《ロスメア》に送り返さずに済んで。」
【イザベル】「あなた……あの子に惹かれてるのね?」
【デレク】「……は?」
【イザベル】「私はこの使命のために、人生を捧げてきた。
芽生えとしての修練を積み、ウリエラ様直属の精鋭に選ばれて――
誰にも頼らず、自分の力だけで「ウォーデン」になった。」
【デレク】「それが……何の関係が?」
【イザベル】「「啓示」を受けたのよ。オルビサルが道を示してくださったの。
だから私は兵士たちを残し、難民たちだけを連れて進んだ。
それが《神の御心》だったから。」
彼女は小さく咳払いし、声の震えを無理やり整えた。
【イザベル】「あなたには、私が壊れたように見えるかもしれない。
……実際、部下たちもそう思ってる。けど私は信じたの、啓示を。
そして従った。ウォーデンとしての最初の任務で――
私は、すべてを賭けて、神の示した道を選んだのよ。」
デレクは唾を飲もうとしたが、口の中はカラカラだった。
覚悟はしていた。
だが、これは予想していなかった。
彼女が、そんな重さを抱えていたなんて。
どうすれば分かる? 何を見れば気づけた?
……いや、たぶん知ってた。
知ってたけど――無視してただけだ。
誰のことも、長いこと気にかけたことがなかった。
自分のことさえ。
「カシュナール」? そんなもん、冗談だと思ってた。
だから他人にとっても、冗談であるべきだと、勝手に決めていた。
でもイザベルは――違った。
本気で、それを伝えようとしてくれていた。
何度も。いろんな形で。
……そして俺は、そのたびに笑い飛ばしてきた。
【デレク】「イザベル、俺……俺は――」
喉が詰まり、声にならない。
何を言いたい? また皮肉か? 信仰への嫌味か?
彼女は黙って見ていた。目に、光が滲んでいた。
デレクは大きく息を吸い、絞り出すように言った。
錆びた金属を無理やりこじ開けるような、痛む声だった。
【デレク】「……お前は……ユキが死んでから、初めて――俺が信じた人間だ。
それに意味があるなら……それだけは伝えておく。」
視線を落とす。
それが、今の彼にできる限界だった。
人間じゃない。いや、かつて人間だった何か。
もし彼女がそれ以上を求めるなら――それは与えられない。
顔を上げると、彼女は膝をついていた。
剣を逆さに持ち、柄を差し出している。
【イザベル】「私は、あなたの剣となります。カシュナール。
今も、そしてこれからも。」
デレクはその剣をそっと押しのけ、彼女の腕を取って立たせた。
驚いた表情で、彼女は彼を見上げる。
【デレク】「イザベル、俺は剣はいらない。」
かすかに笑って、続けた。
【デレク】「必要なのは……友達だ。ポンコツでもいいならな。」
彼女は口を開きかけたが、言葉は出なかった。
【ツンガ】「……街の人間って、変なやつばっか。」
【デレク】「……否定できねぇな、シャーマン。」
【ヴァンダ】「デレク、複数の生命反応を検出。リペアボットがテレメトリを送信中です。」
デレクは唾を飲み込んだ。
【デレク】「……なんでこんなに時間かかってる?」
【ヴァンダ】「データ量が多すぎるようです。……もうすぐ。
――まもなく、ミニマップに表示されます。」
彼はヘルメットを被り直す。
灯りとHUDが次々に点灯し、まるでクリスマスツリーのようだ。
そして――ミニマップの隅に表示が現れる。
赤い靄が、周囲を囲んでいた。
……いや、靄じゃない。
点だ。
無数の赤い点。
多すぎて、輪郭がぼやけていた。
【デレク】「武装、出力最大。」
カチン、と重い音。
プラズマキャノンが展開される。
【イザベル】「何が起きてるの!?」
彼女はすでに剣を抜いていた。
デレクは唾を飲み込み、呟く。
【デレク】「……ちょっと目を離した隙に、囲まれてたらしい。
エボンシェイド全体が、俺たちのために「レッドカーペット」を用意してくれたってよ。」
信じることは、時に武器よりも重い。
デレクの選択が、彼自身をも変えていく――
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