038 「ぶつかるしかないよ」
次の日も、美湖は放課後に侑弦を呼び出した。
生徒会室のドアをノックするのも、もう慣れてしまった気がする。
美湖の返事を確認してからドアを開けると、すでに綿矢紗雪が座っていた。
「いらっしゃーい、侑弦」
「朝霞くん……」
紗雪は少しだけこちらを見て、すぐにまた美湖に向き直った。
だが、彼女にしては珍しく、逃げるような目のそらし方だったように見えた。
気のせい、なのだろうけれど。
「今日は、大事なお話です」
侑弦が入れた紅茶を受け取ってから、美湖が言った。
もちろん、侑弦にではなく、正面に座る紗雪に向かって。
紗雪の前にも紅茶を置いて、侑弦は自分のイスに座った。
お茶汲みが、すっかり板についてきた。
呑気に、そんなことを思った。
「昨日、桜花ちゃんに会ってきた」
「……そう」
紗雪が、短い返事をした。
複雑そうな表情で少し目を伏せて、ひとつ吐息をついた。
それから、美湖は昨日の出来事を、紗雪に話した。
美湖の推理と、それを聞いた桜花の反応まで、すべて。
紗雪は、黙って美湖の話を聞いていた。
ただ、ときどきかすかに口元を歪めて、その度に紅茶に口をつけていた。
そばに置かれたカバンの口から、先週本屋で買っていた学術書の背表紙が覗いていた。
「――で、最後は桜花ちゃん、走っていっちゃった。なにか、ちょっとでも感じてくれてたらいいんだけど」
「……そう。ありがとう、天沢さん」
「ううん。結局、なにもできてない。むしろ、ごめんね」
眉を下げて、美湖が笑う。
紗雪は笑わずに、なにかを考えるように、しばらく虚空を見つめていた。
「あの子が……桜花が、私に劣等感があるというのは、本当?」
「……うん、たぶんね。桜花ちゃん、否定はしなかったし」
「……どうして、そんなこと」
「まあ、桜花ちゃんと紗雪ちゃんって、真逆のタイプだしね。自分にできないことができる人は、輝いて見えるものなのかも」
「……そんなの、私だって」
紗雪が悔しそうな声で、そう漏らした。
桜花が紗雪に憧れるなら、逆もまた然り。
頭のいい紗雪は、自然とそう考えたのだろう。
「そんな紗雪ちゃんを、自分が助けた。それは桜花ちゃんにとっては、誇らしくて、心地いい関係だったんだと思う。対等になれた、って思ってたのかも。けど、碓氷くんが……好きな人が、紗雪ちゃんのことを好きだって聞いちゃって」
「……」
「結局、自分は紗雪ちゃんより劣ってる。そう突きつけられたみたいで、ショックだったんじゃないかな。ただでさえ、好きな人の気持ちが他の人に向いてるのは、悲しいもんね」
美湖はそう締めくくって、紅茶のカップを口に運んだ。
紗雪は目を伏せたまま、また少しのあいだ黙っている。
いつの間にか、外では雨が降り始めていた。
パタパタと雨粒が窓を叩き、沈黙を不規則に埋めていた。
「……こうなる前に、私に、なにかできたのかしら」
紗雪が言った。
疲れが滲んだような、重く湿った声だった。
「言い逃れしたい訳じゃないわ。ただ、天沢さんの言ってることが正しいなら……客観的に見て、私にはどうしようもなかったように思える。桜花の感情も、碓氷くんの気持ちも……私には、関与できない」
紗雪は慎重に、ひとつずつ確かめるような口調で言った。
チラリと侑弦を見る目が、心細そうに揺れていた。
「正直、私もそう思う」
「……」
「今回の件で、ううん、ずっと前から、紗雪ちゃんは実質、なにもしてない。これは桜花ちゃんの問題で、あの子が解決するべきことだよ」
「……だったら、やっぱり私には」
なにもできない。
きっと紗雪は、そう続けようとしていた。
それが自然だと、たしかに侑弦も思う。
けれど同時に、美湖がこれからなんと言うのかも、侑弦にはわかっている気がした。
「ぶつかるしかないよ」
ああ、美湖。
やっぱり、お前は。
「えっ……」
「原因が、問題が、どこにあるのか。そんなのは、関係ない。桜花ちゃんにどうしてほしいのか。これから桜花ちゃんと、どうなりたいのか。それが、紗雪ちゃんにとってのすべてだよ」
「……」
「仲直りしたいなら、桜花ちゃんにそう言うしかない。あの子が変わるのを待ってるだけじゃ、ずっとなにも、進まないかもしれない。それでもいいなら、もうなにも言わない。でも、そうじゃないなら、伝えるしかない。
自分の気持ちを、自分の言葉で」
なんの捻りもない、けれどどこまでも実際的な、そのセリフ。
自分が望む結果のために、どうするべきか。常にそれを考えて、相手に提示する。
昨日、佐野桜花に対してやったのと同じように。
そしてきっと、美湖自身が今まで、そうして生きてきたように。
「……桜花がいやがったら?」
「何度でも、言うしかないね」
「……それで、あの子が変わると思う?」
「それはわからない。でも、ほかにもっといい方法はないもん。根本を解決しないと、またいつか同じことが起こる」
美湖の返答には、少しの淀みも迷いもなかった。
彼女の中では、もうこれが、揺るがない結論なのだろう。
紗雪はまた、しばらくなにも言わなかった。
ただその表情は、さっきまでのそれとは少し違っているように、侑弦には見えた。
時間が過ぎる。
雨が激しさを増して、窓から見える木々が身を震わせていた。
「少し、考えさせて」
紗雪の声が、雨音をすり抜けて聞こえてきた。
それから、美湖の返答を待たず、紗雪が立ち上がる。
カバンを肩にかけ、ドアのそばに置いていた傘を持って、部屋を出ていった。
バン、と引き戸が閉まる音が止むと、美湖が長く息を吐いた。
昨日と同じく、ひどく疲れた顔をしていた。
「大丈夫か」
声をかけると、美湖はこちらを向いて、力なく頷いた。
さっきまでの毅然とした表情は、もうすっかり引っ込んでしまっていた。
「頑張りすぎだぞ、昨日から」
「うん……でも、引き受けたからねー」
あははと笑って、美湖が手招きをする。
イスから立って近くへ行くと、美湖はもたれかかるように侑弦にくっついて、ギュッと両腕で抱きしめた。
「佐野にも綿矢にも、手厳しいな」
「だって……避けて通れないもん。痛いのも、苦しいのも」
「……」
「私がいろいろ根回しして、こねくり回して、穏便に解決することだってできるかもしれない。でも、それじゃだめ。本人が強くならないと、その場凌ぎにしかならない」
「……ああ、そうだな」
それは、きっとそうだ。
美湖はそうやって生きてきて、そうやって、人を助けてきた。
ただ、美湖にできることが、みんなにできるとは限らない。
強くなろうとするための強さが、持てない人間もいるだろう。
紗雪と桜花が、どうなのか。
それが、美湖にはわかっているのだろうか。
「だいじょーぶ。今回は、ふたりだし。それに、桜花ちゃんも紗雪ちゃんも、気が強そうだしね」
「……そうか」
「うん。はぁ~……とりあえず、きゅーけー」
力が抜けたような声を漏らして、美湖が侑弦の脇腹に顔を埋めた。
どうやら、さすがの美湖もエネルギー切れらしい。
頭を撫でてやると、美湖は黙ったまま身体を揺らした。
今日は、家まで送っていこう。
子どもみたいにくっついている美湖を見て、そう思った。




