031 『口説いてないよね?』
その後、まだやることがあるという美湖と別れて、侑弦はひとりで学校を出た。
ただ、なんとなくそのまま帰宅する気にはなれず、本屋に寄ることにした。
通学に使っている電車を途中で降りて、ショッピングモールへ向かう。
エスカレーターで四階まで上がり、書店へ足を踏み入れた。
読書は、昔から好きだった。
ただ、美湖はそうでもないようで、本屋には大抵、ひとりで訪れる。
なんでも一緒に、という価値観は、侑弦にも美湖にもない。
恋人としてうまくやるためには、そういう姿勢も大切だろうと、侑弦は思っていた。
美湖の人助けにも、基本的には干渉しない。
美湖も、それを求めてこない。
だからこそ、侑弦が今回の綿矢紗雪の件にここまで関わっているのは、珍しいことだった。
まあ、関わっているというよりは、ただ気になって、話を聞いている、というだけかもしれないけれど。
「……ふむ」
新刊コーナーの平積みを眺めて、気になった本を手に取る。
価格の関係で、単行本を買うことはあまり多くない。
けれど装丁に力の入っているものを見つけると、つい惹かれてしまう。
やはり、自分は文学少年というにはミーハーすぎるだろうなと、侑弦は内心で苦笑した。
「……ん?」
と、視界の端を見慣れた制服が横切って、侑弦は顔を上げた。
背中まで伸びた長い髪とスカートが、踊るように揺れる。
「綿矢……」
さっき別れたばかりの、綿矢紗雪だった。
手に何冊かの本を抱えた彼女は、迷いのない足取りで学術書のコーナーへ向かっていく。
少し考えてから、侑弦は紗雪のあとを追った。
今日のことで、彼女のことが少し、心配になっていた。
――だから……天沢さんの言ってること、わかってなかったわ。たぶん、今も……。
――……ごめんなさい、碓氷くん。私の配慮が足りなかったわ。
紗雪は珍しく、落ち込んでいた。
いつも凛として、言葉と眼差しに迷いのない彼女が。
過干渉かもしれないと、そう思う。
相談を受けたのは、美湖であって、自分ではない。
ただ、さすがに今は、放っておけなかった。
スマホを取り出して、美湖にメッセージを送った。
『帰り道で、綿矢に会った。ちょっと話す』
既読は、すぐにはつかなかった。
きっと向こうも、いろいろと忙しくしているのだろう。
『愛してる』
もう一通メッセージを送信して、侑弦はスマホを仕舞った。
それから、学術書のコーナーに入って、棚を睨んでいる紗雪に声をかけた。
「綿矢」
「……朝霞くん」
紗雪の声には、やはりいつもの覇気がなかった。
心なしか表情も暗く、目に力がない。
だがそれでも、整いすぎた容姿のせいで、存在感があった。
「なにか買うのか」
そう尋ねながら、侑弦は彼女が抱えていた数冊の本に目をやった。
悪いなとは思いつつも、紗雪がどんな本を読むのか、興味があったから。
だが――。
「……恋愛小説?」
紗雪が持っていたのは、実写映画にもなった有名な恋愛ものだった。
他にも、今若者に人気な青春小説や、少女漫画が重ねられている。
無責任を承知で正直にいえば、これは。
「……意外なチョイスだな」
紗雪の趣味を、知っているわけではない。
だがやはり、彼女のイメージには合わない。
「……足りないものは、補わないと」
紗雪が言った。
呟くような、それでいて、切実な声音だった。
「ずっと、目をそらしてきた。いいえ、これでいいと思ってた。だけど、間違ってたわ。私は、学ばないといけない」
「……なにを?」
「人の気持ち」
紗雪の言葉には、少しのごまかしもなかった。
今日、紗雪に起こったこと。
司を困らせて、美湖に配慮のなさを指摘された事実が、紗雪にはやはり、相当にこたえているらしかった。
「……そうか」
「ええ。桜花とのことだって、もしかしたら、私が気づいていないだけで、あの子にとっていやなことを、私がしたのかもしれないわ。私には、その可能性を考える責任がある。でも、今のままじゃ、考えたってわからない」
「……だから、本で勉強しようって?」
「そうよ」
紗雪の声と表情は、真剣そのものだった。
コクンと頷いて、また本棚の方を向く。
紗雪の前には、心理学や恋愛学についての本が、ずらりと並んでいた。
「それに、碓氷くんは、私のことを好きだって言った。もし、桜花がそれが原因で怒ってるなら、私はそのうえで、あの子に許してもらわなきゃいけない。その方法だって、考えなきゃ。今は、とにかくヒントがほしいの。バカな手段だとしても」
紗雪の瞳が、背表紙の文字をなぞるように、細かく動く。
その様子が痛々しくて、気の毒で、思わず顔を伏せてしまいそうになる。
けれど、今自分がそうするのは、あまりにも愚かすぎる、と侑弦は思った。
少なくとも、美湖なら絶対に、そんなことはしないだろう。
「……なら、手伝うよ」
「えっ……」
侑弦が言うと、紗雪は目を丸くして、少しのあいだ固まっていた。
そんな彼女の横に立って、侑弦は棚差しされた本の背表紙を眺めていく。
彼女のやり方が、正しいかどうかはわからない。いや、どちらかといえば、かなり怪しい。
創作物は創作物だし、学術書の内容を個別の事例に当てはめるのだって、リスキーだろう。
けれど、変わろうとしている紗雪を、進もうとしている彼女を、止めたくはない。
進む勇気を持った人間の背中は、押してやりたい。
「……朝霞くん」
「ん?」
「嬉しいけれど、本は自分で選ぶわ」
「あ、はい」
と、侑弦のサポートはあっさり終了した。
紗雪の手から選んだ本を受け取り、おとなしく荷物持ちに徹することにする。
それから、紗雪は棚の端から端まで、一冊ずつ本を睨んでいった。
気になる本を見つけると、抜き取って侑弦に渡す。
『恋と青春のすべて』。
『なぜ人は恋をするのか 秘密のカギは目にあった』。
『悪用厳禁! 彼を虜にする五〇のマル秘テク』。
「……」
やっぱり、自分も一緒に選んだ方がいいのでは。
紗雪の選んだ本のタイトルを見ながら、侑弦はそんなことを思った。
特に最後の本は、絶対に不要じゃないだろうか。
「ありがとう、朝霞くん」
レジで一〇冊以上の会計を終えたあと、紗雪は侑弦に向けてそう言った。
結局、侑弦は本選びには口を出さなかったため、ラインナップはなかなか個性的になっている。
が、今の紗雪にとっては、なにが学びになるかはわからない。
なにより、本人が選んだという事実が大切なのだろう。
「いや、荷物持ってただけだしな、俺」
今も、ずっしりと重い紙袋は侑弦が持っていた。
駅までは運ぶつもりだが、そこから家まで紗雪が持つことを想像すると、少し心配になる。
とはいえ、さすがに家までついていくわけにはいかない。
「ひと通り、読んでみるわ。わからないことがあったら、聞いてもいい?」
「えっ……」
紗雪の問いかけに、侑弦はすぐに返事ができなかった。
そして、少し考えてから、首を横に振った。
「聞くなら、美湖の方がいい。俺の出る幕じゃないよ」
「そう。わかったわ」
特に残念ということもなさそうに、紗雪は頷いた。
きっと、藁にもすがる思いなのだろう。
けれど、すがる相手を選べるならば、藁よりも丸太の方がいい。
「そうだ、これ」
不意に、紗雪が声を上げた。
カバンを開けて、中に手を入れる。
取り出したのは、小さなソフビのフィギュアだった。
これは――。
「あ……コック帽のカラス」
いつか、バイト先のガチャガチャで、紗雪と話した鳥の置物。
シルクハットのオウムを、カラスと交換することになっていた。
いろいろあって、すっかり忘れてしまっていた。
「ほら、オウム」
「……ありがとうっ」
いつになく声を弾ませて、紗雪は侑弦の手から、オウムを受け取った。
指がかすかに触れ合って、滑らかさと熱を感じた気がした。
「かわいがってやってくれ」
「ええ、もちろん。部屋には、仲間もたくさんいるから、きっと大丈夫」
「そうだな。そりゃよかった」
紗雪は満足そうに、うっすら笑っていた。
冗談に付き合ってくれたのか、本気で言っているのか。
どちらかはわからないけれど、どっちであったとしても、嬉しいなと思う。
「なあ、綿矢」
「……なに?」
「変わろうとするのは、いいことだと思う。けど、今のお前が自分らしいなら、それも大事にしろよ」
「え……」
紗雪は小さく口を開けて、不思議そうな目で侑弦を見た。
それでも、まだ手にはオウムを載せていて、その様子がかわいらしかった。
「俺も、人付き合いも空気を読むのも、得意な方じゃない。でも美湖の言ってた通り、周りと違うのと、周りとうまくやれないのは、必ずしも一致しない。ありのままの自分も大切にして、そのうえで、他人とどう関わるか、決めればいいと思う」
きっと、頭のいい紗雪なら大丈夫だろう。
けれど、もし彼女が今回の件で、自分を否定し過ぎてしまったら。
変わる必要のないところまで変わってしまったら、それは悲しいことだと、侑弦はそう思っていた。
「お節介かもしれないけど、ちょっとだけ覚えといてほしい。そういうのも、美湖なら相談に乗ってくれるだろうし。人の悩みに、本人以上に本気になれるのが、あいつのすごいところだから……まあ、つまり、なんていうか……」
「朝霞くん……?」
「……うん。全部、うまくいくように願ってる。頑張れよ」
そう言い終えてから、少しの恥ずかしさで、侑弦は頬をかいた。
けれど、今自分が伝えるべきことは、伝えられたはずだ。
それに、美湖なら一部を除いて、同じようなことを言うだろう。
「……」
「えっと……綿矢?」
紗雪は侑弦を見つめて、しばらく黙っていた。
輝きの深い彼女の瞳に映った自分の顔が、妙に頼りなく見えた。
「どうして天沢さんが、朝霞くんを好きなのか、わかったわ」
「えっ……」
「ありがとう。覚えておく」
言って、紗雪はまた笑った。
さっきよりも柔らかく、それに、はっきりとした笑顔だった。
透き通るように肌の白い頬が、今は少し、ほんの少しだけ、赤いように見えた。
結局、まだ用がある、という紗雪とショッピングモール内で別れて、侑弦はひとりで駅に戻った。
再び電車に乗って、自宅を目指す。
暗い道をひとりで歩いていると、自然、さっきの紗雪の笑顔が思い出された。
「……」
侑弦はコツンと、自分の頭に拳をぶつけた。
それから、すぐに美湖に電話をかけた。
『もしもーし、侑弦? どうしたの?』
幸いにも、美湖はすぐに電話に出てくれた。
ホッとしてしまって、返事をするのに少し、時間が必要だった。
「……いや。ただ、ちょっと声が聞きたかった」
『ありゃ。ふふっ、そうかそうか。いいよー、いくらでも聞かせてあげる』
「……ありがとよ」
元気な美湖に釣られて、自然と頬が緩んだ。
相変わらず、底なしに優しい子だ。
『それで、どうだったの? 綿矢さんは』
「ん、ああ……。まあ、ちょっとだけ、応援してきた」
『ふーん……たしかに、今はそういうのも必要かもね。……まさか、口説いてないよね?』
「なっ……そんなわけないだろ……」
『ふむ。まあ今回は、信じてあげましょう』
「……はぁ」
思わず、呆れた声が出る。
もちろん、美湖も本気で言っているわけではないのだろうけれど。
ただ、罪悪感が全くないといえば、嘘になるのもまた事実で。
「美湖……愛してる」
『ん……うん、私も。でも、会いたくなっちゃうから、会えないときに言われると困る』
「……そうだな。悪い」
『んーん、嬉しい。でも、寂しいなー』
冗談半分、もう半分は、きっと本当に。
美湖はしょんぼりした声で、少し泣き真似をした。
会いたいのは侑弦も同じで、けれどそれ以上に、声を聞けたのが嬉しかった。
『一緒に住めたらいいのにね』
「……そりゃ、賑やかそうだな」
『こら、いいでしょ? ね!』
一転、美湖は声のトーンを変えて、怒った調子で言った。
角を曲がると、もう自分の家が、少し遠くに見えていた。
たしかに、いいな、と思う。
あそこで美湖が待っていてくれたら、どれだけ幸せだろう。
そして、現実はそうではないことが、今は無性に切なくて。
会えないときに言われると、困る。
さっき、そう聞いたばかりだけれど。
「愛してる」
そうせずにはいられなくて、侑弦はもう一度、気持ちを伝えた。
早く、大人になりたい。
そうして、美湖との人生を、もっと自分で創りたい。
胸に手を当てて、身体の奥で鳴る寂しさを鎮めながら、そう思った。




