029 「もう友達だもん」
綿矢紗雪は、昔から他人と話すのが得意ではなかった。
建前や嘘が苦手で、その場の雰囲気に合わせたり、空気を読むといったことができない。
頭がよく、極めて合理的で、口数も少ない。
おまけに本人もひとりが好きで、孤立を悲しいとも、つらいとも思わない。
そんな紗雪が円滑な人間関係を築くのは、簡単なことではなかった。
中学生になると、思春期で複雑化した周囲の感情が、紗雪からますます、他人との関わりを奪った。
クラスメイトたちの発言と行動の不一致や、不合理な言動に疑問を持つ。
それを指摘すると、怒りや反発を受け、関係が悪化する。
もともと人が悪いわけではなかったものの、時折極端に相性の悪い人間に出会い、目の敵にされる。
そんなことを繰り返すうちに、紗雪は自分と周囲に、見切りをつけるようになった。
自分は、他人とはうまくやれない人間だ。
そして、そうしたいとも思っていない。
なら、ひとりでもいい。困ることも、できないことも、ほとんどないのだから。
そんなことを思い、紗雪はいっそひとりで気楽に、好きなように過ごすことにした。
実際、それで困ることはなかった。
友達はできなかったが、代わりに周囲との衝突も目に見えて減った。
ただ、どこか漠然とした不安と、孤独感。そして、自分の欠点を正当化して、目を背けているような罪悪感、自己嫌悪。
そんなものをうっすらと感じながら、紗雪はひとりで生きていた。
ある日の、昼休みのことだった。
「わーたやさんっ」
本を読んでいた紗雪は、突然かけられた声に、ゆっくりと顔を上げた。
「なーにしてるのっ」
笑顔が眩しい女の子だった。
シルエットの丸いロングボブがよく似合って、かわいらしい。
同じクラスで、当然見覚えがある。
名前はたしか、佐野桜花。
ただ、なぜ今彼女が自分に話しかけてきたのかは、一切わからなかった。
それに、少し迷惑だ、とも思っていた。
「本を読んでる」
「そっか。いいね」
ふふっと笑って、桜花は紗雪の隣の席に腰を下ろした。
桜花は、いつも大勢に囲まれている。
元気で明るく、友人が多い。おまけにあまり、頭はよくなさそうに見える。
つまり、紗雪とは真逆の女の子だった。
「なにか用」
用がないなら、話しかけるな。
そういう意味を込めて、紗雪は言った。
それが伝わっていたのかどうかは、わからない。
ただ、桜花はニコニコした笑顔を崩さず、甘えたような声音で、言った。
「勉強、教えて!」
「……どうして」
私が。
紗雪がそう続けるよりも早く、桜花は口をへの字にして、紗雪の手をギュッと握る。
「私、こう見えてホントに勉強できなくてさー。それもかわいげがあっていいかなって、今までは思ってたんだけど、来年は受験でしょ? 高校はある程度いいとこ行きなさいって、ママがうるさいんだよねー」
「そ……そう」
それで、どうして助けを求める先が自分なのか。
この子なら、友達はいくらでもいるだろうに。
そう思ったけれど、紗雪は彼女の勢いに押され、ひとまずそう返事をしていた。
「綿矢さん、超頭いいでしょ? いつもテストの点数いいの、知ってるし。私、勉強嫌いなんだよね。だから綿矢さんに教えてもらって、近道したいってわけ。ナイスアイデアじゃない?」
「……そうね」
今度は、本心でそう言った。
自分にとって迷惑かどうかはともかく、目的のために最短経路を選ぼうとする考え方自体には、それなりに納得できた。
「えっ、じゃあいいの! オッケー?」
「……」
ズイッと身を乗り出して、桜花が顔を近づけてくる。
期待に満ちた笑顔で、じっと紗雪を見つめていた。
紗雪は、考える。
ほぼ間違いなく、この子と自分の相性がいいとは思えない。
しかしそれは、あくまで友人として見たときの話だ。
教師と生徒なら、また結果は違うかもしれない。
基本的には、紗雪は人からの頼みを無碍にするタイプではなかった。
ただ、普段はそういう機会が、滅多にないというだけで。
「……ひとつ、条件があるわ」
「えっ……なに?」
桜花は子どものように、コテンと首を傾げた。
けれど、断られるとは微塵も思っていなさそうなその目が、どうにもおかしかった。
「真面目にやって。私、たぶん厳しいから」
次の日から、放課後の教室を使った勉強会は始まった。
桜花の学力は、たしかに酷いものだった。
基本的な思考方法も、知識も、なにもかもが足りていない。
問題を解く前に、とことん基礎固めをしなければどうにもならないだろうと、紗雪は早々に判断した。
ただ、飲み込み自体は悪くない、とも感じていた。
わからないことはすぐに質問するし、わかったふりをしない。
おかげで、どれくらい理解しているのか、しっかり把握することができる。
教師である紗雪にとっては、それはありがたいことだった。
それから、休憩時間や帰り道で、桜花は紗雪にたくさんの世間話をした。
最初は反応に困ったし、元気で賑やかな桜花についていくのがつらかった
それに、桜花の考え方や価値観は、紗雪には共感できないものがほとんどだった。
特に、友達が髪を切ったら似合ってなくても褒めなきゃ、とか。
先生とは仲よくしといた方が、成績で有利でしょ、とか。
男の子に告白されたけど、どう断れば逆恨みされないかが難しい、とか。
そういうコミュニケーションや人間関係の機微に関するものは、完全に紗雪の理解の外にあった。
「佐野さんは、どうして嘘をつくの」
あるとき、勉強会が終わってすぐ、紗雪は桜花に尋ねてみた。
言い方が悪かったかもしれないと、少しだけ思った。
けれど、より正確な方が重要だろうと考えていたのも事実だった。
桜花は意味がわからないというように、目を丸くした。
けれど怒る様子は見せず、すぐにニコッと笑って、こう言った。
「嘘じゃなくて、気遣いね。紗雪くん、よーく覚えておくように」
「気遣い……嘘でしょ」
「まあ、嘘はついてるけどさー。でも、騙したいわけじゃなくて、相手にいい気分になってほしいとか、その人と仲よくしたいとか、自分のことをよく思ってほしいとか、そういう目的だもん。だからこれは、気遣いです」
「……」
詭弁だ、と思った。
けれど同時に、桜花が人付き合いに長けて、友人も多くいるのは、きっと彼女の明るさだけでなく、こういう考え方ができるからなのだろうと、紗雪は思った。
他人と前向きに関わろうという意志があって、そのために努力ができる。
そして、それとは全く逆のことが、自分自身には当てはまって。
ますます、彼女と自分は正反対なのだと、紗雪は悲しむでも喜ぶでもなく、そう感じていた。
「デート、行こっ」
それは、定期テストを三日後に控えた、金曜日のことだった。
授業が終わるなり、桜花は飛ぶように駆けてきて、紗雪の前でそう言った。
「デート……?」
「うんっ。今日は勉強会はなーし! 一緒に遊びにいこ!」
「……どうして」
週明けには、もうテスト本番だ。
それにそもそも、桜花と自分はふたりで出かけるような仲では――。
だが、紗雪のそんな考えを読み取ったかのようにニヤリと笑って、桜花は言った。
「だって、もう友達だもん、私たち」
「……」
「勉強教えてもらうようになって、もうすぐ一ヶ月だよ? こんなに一緒にいたら、もう友達でしょ」
きっと、自分は困惑の表情を浮かべていただろうと思う。
けれど桜花は、そんなことはお構いなしというように、迷いなく言い放った。
友達。
心の中で、その言葉を繰り返す。
そうなのだろうか?
今まで、ちゃんとそう呼べる相手は紗雪にはいなかった。
それで困ることもなければ、そういう存在が欲しいとも思わなかった。
だからこそ、これが友達というものなのかどうか、紗雪には判断がつかない。
「それに、私もっと紗雪ちゃんと仲よくなりたいんだよねー。勉強できることと、素直でかわいいってことしか、まだ知らないし」
「……私が、素直」
それは、自覚する自分とはずいぶん違う。
「素直じゃーん。嘘がつけない感じ? 私も、釣られてつい本音が出ちゃうし。まあ、反感は買いやすいかもだけど、私は好きだよ、紗雪ちゃんのそういうとこ」
えへへ、と人懐っこく笑って、桜花はいつかと同じように、紗雪の手を握った。
釣られて、本音が出る。
そういうものだろうか。
では、今自分がうっすらと笑っているのも、釣られた、というものなのだろうか。
紗雪には、わからない。
けれど、今はそれでもいいような気がした。
考えるべきなのは、もっと大事な別のこと、なのではないか、と。
そう、たとえば、自分の意志や、気持ちについて。
桜花の言葉を聞いて、誘いに対して、自分はどうしたいのか。そういうことについて。
「ってことで、遊びにいこっ! 駅前に、新しいカフェ出来たの! プリも撮りたかったやつ入ったし! あ、私欲しい服ある! あと、紗雪ちゃんに似合いそうなのも探そー!」
桜花はひとりで盛り上がり、机の上にある筆記用具や教科書を、勝手に紗雪のカバンに詰めていった。
それが終わると、自分の席に戻って、荷物をまとめ始める。
「……ひとつ、聞きたいのだけど」
「えっ、なに?」
カバンを肩にかけながら、桜花がこちらを向いた。
コテンと首を傾げて、不思議そうに目をぱちくりさせている。
今日これからどうするか、紗雪の中では、もう結論は出ていた。
そんな日があってもいい。この好奇心と勢いに、従ってみてもいい。
自分と一緒に過ごして、桜花がどう感じるかは、わからない。
けれどこの子なら、大丈夫なんじゃないか。
自分のことを、受け入れてくれるんじゃないか。
自分がそう思っていることがおかしくて、ますます心がふわふわと、妙な浮遊感に包まれている。
ただ――本当にひとつだけ、気になることが残っていた。
「……遊びにいくにしても、テストのあとの方がいいんじゃない?」
紗雪は言った。
自分はともかく、桜花はまだ、週明けのテストの勉強が万全だとは、到底いえない。
仲よくなるのも、そのために出かけるのも、いいだろう。
けれど、それはなにも今でなくとも――。
「ダメです」
「……」
「だって、今日は勉強、したくない気分だもーん」
桜花は言った。
それからペロッと小さく舌を出して、紗雪に背を向けて歩き出す。
紗雪は、また笑った。
今度はさっきよりも、はっきりと。
肩を震わすようにして、しばらく笑った。
いい点を取るのは、別に今回のテストでなくてもいいかもしれない。
そう、思った。
だってきっと、また次のテストまでの期間も、勉強会は続くだろうから。
少なくとも紗雪の方では、続けたいと、思っているから。
「実はさー」
テストが終わってしばらくした、ある休日の夕方。
カフェでケーキを食べていると、桜花がこちらを見ずに、突然そう切り出した。
紗雪が普段来ないような、学生にしては少し高い、今風な店だった。
「最初に私が紗雪に声かけたの、勉強教えてほしかったからじゃないんだよねー」
「……え」
チーズケーキを切っていた紗雪の手が、ピタリと止まった。
思いもよらない言葉だった。
勉強を教わりたかったわけじゃない。
なら、どうして。
すぐにそんな疑問が湧いて、紗雪は自分の体温が、スッと下がっていくのを感じていた。
だが、次の桜花のセリフは、またしても紗雪の想像からは大きく外れていた。
「ホントは、気になったから」
「……気になった?」
「うん。紗雪、ずっとひとりなんだもん。私、そういうの気になっちゃうんだよね。焦れったいっていうか、やきもきしちゃうっていうか」
「……」
「だから、どういう子なのか、知りたくて。知って、いい子だったら、もっとみんなの輪に入ればいいのに、って。余計なお世話かもだけど、その方が楽しいじゃん。ね?」
桜花の声音と表情には、申し訳なさが滲んでいた。
けれど、それと同じくらい、達成感のようなものも感じられて。
自分のやったことが、正しかったのだと、そう信じているようだった。
「ごめんね、嘘ついて。でも、ママに成績で怒られたのはホントだし、勉強も頑張ってるつもり。テストも、紗雪のおかげでちょっと点数よかったしねー」
最後はおどけたように、桜花が言った。
テーブルに置いていた紗雪の手に触れて、ゆっくりと撫でる。
どうして嘘をつくのか。以前、桜花に聞いたことがあった。
つまり、こういうことなのだろう。
他人との関係をよくするために、方便や建前を使う。
それが、桜花やほかのみんながやっている、いわば工夫なのだ。
自分は、それに救われたのだ。
「あれ……もしかして、怒った?」
「……いいえ。怒ってない。ありがとう、桜花」
紗雪は、初めて桜花に礼を言った。
自分がそうできたことにホッとして、深い息が漏れた。
不安げだった桜花の表情が、パッと笑顔になった。
それが嬉しくて、紗雪も少しだけ笑った。
「紗雪は、私がいないとホント、だめだよねー」
そう言って、桜花は紗雪の頭に触れた。
そして、子どもをあやすように、ぽんぽんと軽く叩いた。
「これからもよろしくね、紗雪」
「……ええ。こちらこそ、桜花」




