028 「まだフラないで」
教室で事件が起きた、その日の放課後。
「紗雪ちゃん。ちょっとここに座って」
美湖は当事者、もとい主犯である綿矢紗雪を、生徒会室に呼び出した。
侑弦も同席に、向かい合うふたりを少し離れた席から見守る。
例によって、ほかの生徒会役員たちの姿はなく、貸切状態だった。
「私、思ってることをまっすぐ言える人は好きだよ。言葉にしなきゃ、伝わらないもんね。それに、言わずにまごまごしてたら、大抵はよくない方向に進んじゃうし」
うんうん、と頷きながら、美湖は語った。
対する紗雪は、いつものように静かに背筋を伸ばし、無表情で美湖を見ている。
「でも、今日のあれはさすがに、だめだよ」
一転、美湖はジト目になって紗雪を睨んだ。
が、やはり紗雪は微動だにせず、むしろ少し不思議そうに、わずかに首を傾げた。
「ちゃんと、相手の気持ちとか状況とか、考えないと。あれじゃ、碓氷くんに迷惑だし、かわいそうでしょ?」
美湖が諭すように言った。
昼休みの、例の一件。
紗雪が教室の真ん中で、自分のことが好きなのか、と碓氷司に尋ねた、あの行動。
あのあと、美湖は侑弦の前で昼食の残りをかき込みながら、頭を抱えていた。
自分の危機管理が甘かった。でもこんなことするなんて。これじゃあますます、拗れる。
そんなふうに嘆く美湖を宥めていると、いつの間にか昼休みは終わっていた。
そして、今。
見かねた美湖は、こうして直接紗雪に、注意をしているのだった。
「……そもそも、どうしてあんなことしたの?」
はぁ、と息を吐いてから、美湖が尋ねた。
紗雪は手元の紅茶を口に運んでから、表情を変えずに言った。
「彼が私のことを好きでさえなければ、問題は解決するでしょう」
「……」
「碓氷くんが私に、好意を持ってる。それが桜花が怒った原因だと言ったのは、天沢さんよ」
「……みんなの前で秘密を暴かれる、碓氷くんの気持ちは?」
「いやなら、そう言ってくれればいい。それに、碓氷くんは答えてくれたわ」
紗雪の答えには、迷いがなかった。
美湖の言いたいことは、どうやら伝わっていないらしい。
少し迷ってから、美湖はまた続けた。
「普通はいやだし、そうじゃなかったとしても、いやがる可能性があるなら、リスクを負うべきじゃないでしょ」
「どうして」
「どうしてって……聞かれても答えなかったら、その質問に答えたくないっていう気持ちが、みんなに知られちゃう。隠してるものを、無理やり引き出される。それは、いやなことだよ」
「……そう……なのかしら」
「……」
紗雪は、本当に理解できていない様子だった。
段々と表情が暗くなり、視線が下がる。
その反応に、美湖も毒気を抜かれたように見えた。
はぁ、と肩をすくめて、侑弦の方に一瞥をくれる。
珍しく、参っている。
まあ、無理もないとは思うけれど。
「ごめんなさい……私、秘密とか隠したいこととか……ないの」
紗雪が言った。
セリフの内容は、到底信じ難い。
けれど、表情も声音も、嘘をついているようには思えなかった。
「だから……天沢さんの言ってること、わかってなかったわ。たぶん、今も……」
「……紗雪ちゃん」
紗雪は目に見えて、落ち込んでいた。
おそらく、美湖の言葉を咀嚼し、飲み込んでいる最中なのだろう。
「まあ……ちょっと変わってるもんね、紗雪ちゃんって」
「……よく言われるわ。浮いてる自覚もある。でも、私にとっては……」
紗雪の声は、さっきまでとはうって変わって、迷いに満ちていた。
いや、正確には、自分の言葉にひどく、自信がないように聞こえる。
初めてここへ来たときも、ガチャガチャをしていたときも、こんなに不安そうではなかったのに。
「変わってるのは、悪いことじゃない。私だって、みんなと仲よくやれてるだけで、みんなと同じなわけじゃないしね。ただ、相手の気持ちや状況を想像して、理解しようとするのは、大切なことだと思うし」
「……ええ。そうね」
「失敗は、繰り返さなければいい。みんな通る道だし、紗雪ちゃんは、初回がちょっと遅かっただけ。まあつまり、私が言いたいのは」
美湖はポンと、紗雪の頭に手を置いた。
ゆっくりと撫でて、柔らかく笑う。
天真爛漫で人懐っこい美湖は、たまにこうして、お姉さんモードになることがある。
まあ見た目に限っていえば、明らかに美湖の方が妹っぽいのだけれど。
「今回は、ドンマイ。碓氷くんには謝って、反省しよ。それに、私もごめんね」
「……ありがとう」
紗雪が、弱々しくそう言った。
美湖は満足げに、うんうんと頷く。さすがに、器が大きい。
とはいえ、紗雪のこの性質は、この先も危なっかしい。
また同じようなことがあると、佐野桜花との確執の解消が、遠ざかってしまうかもしれない。
侑弦がそんなことを思っていると、美湖がこちらを向いて、一度小さく頷いた。
まあ、きっと侑弦が懸念することは、美湖にもわかっているのだろう。
「とりあえず、これからはあんまり、ひとりで行動しないで。特に、桜花ちゃんと碓氷くんに用があるときは、私に相談すること。いい?」
「……ええ、わかったわ」
「うん。素直でよろしい。さっきも言ったけど、私は紗雪ちゃんのこと、好きだし。助けてあげたいから、協力して、ね」
そう言って、美湖は座ったままの紗雪を緩く抱きしめた。
紗雪の感情にも寄り添って、自分の気持ちをまっすぐ伝える。
こうしたコミュニケーションには、他人の相談を解決してきた経験値と、美湖の人間性が表れているのだろうと思う。
実際、侑弦はここに来てから、ほとんど言葉を発していない。
この件に関して、侑弦がサポートするべきことなど、滅多にないのだ。
少なくとも、美湖に対しては。
「ただ……碓氷くんは私への恋愛感情を否定した。つまり、もう桜花は、私を敵視する必要はない。そうよね?」
「……まあ、碓氷くんがホントのことを言ってくれてたら、ね。あの状況じゃ、正直に答えてるとは限らないから」
「そんな……」
紗雪は珍しく、ガクッと肩を落とした。
その反応があまりに素直で、不憫で。侑弦は少し、ほほ笑ましい気持ちにさせられた。
秘密や隠しごとがない、というのは、きっと本当なのだろう。
ともあれ、実質今回の一件では、収穫はゼロだ。それどころか、むしろマイナスに働いたことの方が大きい。
今の紗雪には、かなりこたえたのだろう。
実際侑弦から見ても、あのときの司は――。
“コンコンコン”
そのとき、生徒会室のドアが、軽い音を立てた。
部屋にいた三人の視線が、一斉にそちらに集まる。
いつかの記憶が、侑弦の脳裏に蘇る。
が、そのときと比べれば、突然の訪問者も、今はそこまで問題ではない。
「どうぞ」
一度紗雪に目配せをしてから、美湖が答えた。
引き戸が動き、相手の姿が露わになる。
そこに、立っていたのは。
「こんにちは……おっと、これは……マズかった?」
部屋の中の顔ぶれを見るなり、訪問者――碓氷司は苦笑いを浮かべた。
片手をひらりと動かして、了解を求めるように美湖の方を見る。
そんな仕草もやたらと様になっていて、侑弦は人知れず感心した。
「碓氷くん……いらっしゃい。マズくないよー。むしろ、ちょうどよかったくらい」
同じく苦笑して、美湖が言う。
天沢美湖と、男子版天沢美湖と呼ばれた司。
こうして対面すると、さすがに絵になる。
自分の中に生まれかけた妬みをさっさと振り払って、侑弦は司の分の紅茶を淹れに食器棚に立った。
横目で、紗雪が気まずそうに、顔を伏せているのが見えた。
「ちょうどよかった……っていうと、そっちも話題は、さっきのあれ?」
「うん、そのあれ。私と、侑弦も噛んでるの。まあ、紗雪ちゃんの行動は想定外だったけど」
「なるほどね……やっぱりそういうことか。朝霞はともかく、天沢さんは関わってそうだと思ってたよ。さすがに、昼休みのはびっくりしたけどね」
と、司はなんとも理解が早かった。
表情や声音からは、どちらかといえば、怒りよりも同情の色が窺える。
それにどうやら、彼がここへ来たのも、美湖の関与に気づいていたかららしい。
「じゃあ、さっそくだけど、理由が知りたいな。綿矢さんが、教室で俺に、あの質問をした理由」
言って、司はそばにあったイスに腰掛けた。
紅茶を渡すと、「ありがとう、朝霞」と笑顔を返す。
相変わらず、どこまでも爽やかだ。
「教室で、のところは、単純に紗雪ちゃんのミス。反省してるから、できれば許してあげて」
「……ごめんなさい、碓氷くん。私の配慮が足りなかったわ」
美湖に続いて、紗雪が頭を下げた。
それを見て、司は眉尻の下がった笑顔を作る。
「質問の理由の方は……それが紗雪ちゃんにとって、大事なことだったから。ただ、こっちは詳しくは話せないの。悪いんだけど、見逃してほしい」
「……見逃す、か」
美湖の主張は、はたから見ればあまりにも、身勝手だ。
被害者の司にしてみれば、納得できるわけもない。
だが、司は顎に手を当てて、悩む様子を見せた。
「まあ……なんとなく、わからないこともないよ。なにかを解決するために、俺の恋愛感情を確認したい。そんなシチュエーションは限られてるしね。たとえば、痴情のもつれ、とか?」
「うん。肯定も否定もできないけど、察してくれたら嬉しいな。私に免じて」
「ははっ、天沢さんに免じて、ね。それを言われると、弱いな」
また、苦笑い。
司の人の好さは、侑弦も知っている。
それが表向きに繕ったものであったとしても、少なくともクラスでの善人ぶりは完璧だ。
だがこの反応を見るに、きっと司は、根っからのお人好しなのだろう。
「わかった。なら、これ以上の追及はしないでおくよ。だから、これからは俺のことも、放っておいてくれると助かるかな。協力だったら、いくらでもするけどね」
「ありがとう。頼りにしてる。迷惑はかけないよ、私の責任で」
「今度は天沢さんの責任、か。じゃあ、ぜひそれで頼むね」
語尾に笑いを混ぜて言って、司は紅茶のカップをグイッとあおった。
それからスッと立ち上がり、侑弦たちの顔を一度、順番に見る。
「そうだ、退散する前に、ひとつだけ」
「ん、なに?」
美湖が笑顔のまま、促すように首を傾ける。
司はどこかイタズラっぽい笑みを浮かべながら、あっさりした口調で、言った。
「俺、ホントは綿矢さんのこと、好きだから」
「えっ」
声を出したのは、紗雪だった。
口を緩く開けて、綺麗な形の目を丸くする。
司はまたニヤリと口元を引っ張り上げて、続けた。
「好きじゃないって言ったのは、あの場を収めるための嘘。ごめんね綿矢さん。でも、好意がないんだってきみに思われるのはいやだから、訂正しとく」
「……」
「あ、でも、これは告白じゃないから。まだフラないで。そのときは、ちゃんとあらためて言うからさ」
司はおどけたように、そう締め括った。
苦笑いを浮かべる美湖と、黙ったままの紗雪。
一方で、侑弦は人知れず思った。
こいつ、いいな。
恋にまっすぐで、気取らない人間は、やっぱりいい。
「それと、ついでにもうひとつ」
「……なんでしょう」
「ことの全体像は、俺には全然わからないけど。ただ、ホントに痴情のもつれだけかな?」
「……どういうこと?」
「まあ、どこまでが痴情なのか、ってことは置いといてさ。俺は原因じゃなく、ただのきっかけかもしれない。あくまで、可能性の話だけどね」
司が、今度はそれまでよりも真剣な声音で、そう言った。
言葉の真偽や信憑性は、ともかく。
この男はどこまでも律儀で、そして、やっぱりお人好しだ。
そんなことを思いながら、侑弦は美湖の方を見た。
「ありがと。参考にするね」
「ああ。じゃあ、またね。幸運を」




