027 「大事なことなの」
「どう思う? 紗雪ちゃんのあの反応」
翌日の、また昼休み。
今日も侑弦の前の席で弁当を広げて、美湖が小声で言った。
美湖が教室にいるのにも徐々に慣れ始めたのか、この日は周囲からの注目度も、あまり高くないようだった。
美湖の言った『あの反応』とは、昨日生徒会室でふたりが目の当たりにした、例のあれのことだろう。
「なにか関係あるの、ってやつか」
「そう、それ」
短く返事をして、美湖が玉子焼きを口に運ぶ。
それに合わせて、侑弦も昨日の残りのひじきを食べた。
「さすがに、ちょっとビックリしたね」
「……まあな。あんまり人の機微に敏感なやつじゃないんだろうとは思ってたが」
そもそも、紗雪本人にしても、感情の発露は極めて少ない。
最初に桜花と口論していたときでさえ、少なくとも見かけ上は落ち着いていた。
「ホントに、キョトンとしてたもんねー。かわいかった」
半ば呆れたような苦笑いを浮かべて、美湖は横目で紗雪を見た。
当の紗雪は、やはりいつもの無表情で、昼食を進めている。
あの顔が、今ではこれまでと少し違う印象に感じられるから不思議だ。
「でも紗雪ちゃん、桜花ちゃんと一緒じゃないと、ホントにいつもひとりなんだね」
「……みたいだな。ただ、イメージには合ってる。綿矢って確実に、大勢で騒ぐタイプじゃないだろうし」
「そうだねー。そこは侑弦に似てるかも」
うんうん、と美湖が頷く。
「俺は……友達は、まあ、少ないか」
「少ないねー。って、自分でも言ってたじゃん。ちゃんとした友達は、結局今も松永くらい?」
「……だな」
今度はふたりで、少し離れた位置にいる玲逢を覗き見る。
まあその玲逢とも、それほど一緒にはいないのだけれど。
「でも案外、誰とでもある程度仲よくできるよね、侑弦は」
「まあ……それなりにはな」
侑弦も同じく、あまり大人数で行動するのは得意ではない。
もともとマイペースで、口数も多くはない。
それがグループでの行動と相性がよくないことは、十七年の人生でよく知っている。
それで困ったことはないので、侑弦自身は気にしていないのだが。
「そんな侑弦から見て、どう思う? 紗雪ちゃん」
「無茶振りだな……。まあ、やることは変わらないだろ。本人がそういうことに鈍感なのと、今回の佐野との確執は、本質的には関係ないわけだからな」
もともと、紗雪は碓氷司から自分への矢印の存在を、認識していなかった。
ならば、桜花との仲違いに、紗雪の鈍さが寄与しているとは考えにくい。
もちろん、これが恋愛感情の綾によるものだという、美湖の推測が正しければ、の話だが。
「うん、私も同じ意見。紗雪ちゃんの自覚してないところで、碓氷くんからのアピールがあって、それを桜花ちゃんが見ちゃった、みたいなことも、なさそうだしね」
「だな。会話したこと、ほとんどないって言ってたし」
まあ、これも昨日の紗雪の発言を信じれば、という前提にはなる。
が、今はそれが事実である想定でことを進めるのが、ひとまずは正着だろう。
それにしても、と侑弦は思う。
やはり美湖は、この手の相談事へのアプローチが、とことん論理的だ。
側から見れば、カリスマ性と行動力が主軸に思えるかもしれない。
けれどその裏で、美湖は誰よりも繊細で、慎重だ。
頭のいい美湖は、問題の難しさ、複雑さを、しっかりと見極めている。
そのうえで、最適な道と手段を選んで、人助けをする。
だからこそ、天沢美湖は強く人を惹きつけ、悩みの相談も絶えないのだろう。
「さて、じゃあ作戦会議かな、次は」
言って、美湖は華奢な腕を組み、うーんと唸った。
それが頼もしくて、かわいらしくて、侑弦は思わず頬を緩めた。
どれくらい時間がかかるか、どう進むのかは、わからないけれど。
美湖なら、きっとこの問題も解決できる。解決してしまう。
そう思えることが、侑弦には嬉しく、そして、誇らしかった。
と、そのとき。
「碓氷くん」
教室の真ん中から、声がした。
涼やかに澄んで、それでいて、氷柱のような鋭い響きを持った、そんな声だった。
そちらを向く前に、侑弦は直感する。
そしてきっと、美湖も同じだっただろう。
今のは、まず間違いなく。
「えっと……綿矢さん? どうしたの……?」
友人と談笑していたはずの、碓氷司。
彼の前に、いつの間にか、綿矢紗雪が立っていた。
クラスの注目が、今だけは美湖ではなく、紗雪と司に集まっていた。
「……ヤバいかも」
美湖がぼそりと言った。
弾かれたように立ち上がり、けれど、その場から動けずにいるようだった。
「……なにか、俺に――」
「あなた、私のことが好きなの?」
整いすぎた無表情のまま、紗雪が言った。
ふざけた調子も、照れた様子も、少しもなかった。
ざわつきがスッと引いて、教室に静寂が降りる。
美湖は額に手を当て、司は目を大きく見開いている。
そして、佐野桜花は――。
「……っ」
桜花の顔は、ひどく歪んでいた。
耳まで赤く、目尻には涙を溜めているように見えた。
だが、みんな彼女のそんな様子には気づかず、ただ、教室の真ん中で向き合う紗雪と司を、興味や驚きの混じった表情で見つめていた。
「……」
司は、しばらくなにも答えなかった。
そのあいだも、紗雪はじっと、司を見据え続ける。
今の自分の行いに、後ろめたさなど少しも感じていないようだった。
“ガタンッ”
不意に、そんな音がした。
見ると、佐野桜花が早足で、教室を出ていった。
ずっとまっすぐ立っていた紗雪が、そのときだけは一瞬、桜花の方へ視線を向けたようだった。
「答えて。大事なことなの」
また、紗雪が言った。
音を取り戻しそうになっていた周囲に、再び静寂が戻る。
けれど、今度はすぐに、司が答えた。
「……噂のことかな? だったら、嘘だよ」
「……」
「こう言っちゃ悪いけど……いや、悪くもないのかな。とにかく、俺は綿矢さんのこと、好きじゃない」
うっすらとした笑みを浮かべて、司が言った。
噂は、嘘だと。
紗雪への好意は、ないのだと。
けれど、今のは――。
「そう、わかった。ありがとう」
紗雪がコクンと、小さく頷く。
そして、そのまま自分の席に戻って、残っていたパンの袋を静かに開けた。
小さな口でパンをかじる紗雪から、侑弦もほかのクラスメイトたちも、しばらく目が離せずにいるのだった。
「……忙しくなりそう」
正面で、美湖がぼやくようにそう言った。




