023 「あくまで噂だけどね」
翌日の昼休みには、再び美湖が教室にやって来た。
歓迎の声にざっと対応してから、また侑弦の前の席に座る。
弁当を広げると、開口一番、こう言った。
「また、聞き込みしてきました」
「……聞き込み、ね」
要するに、綿矢紗雪と佐野桜花の不和について、前回当たった『同じ中学だった子』以外からも、情報を集めてきたということだろう。
なにもわからない、という紗雪と、なにも答えようとしない桜花。
ふたりに聞くだけでは、埒が明かないと判断したらしい。
「やっぱり綿矢さんと桜花ちゃん、最近急に喋らなくなったんだって」
少しヒソヒソ声になって、美湖が言った。
控えめに教室中を見回して、ふたりを探している。
桜花は先日と同じく、友人たちと昼食。
対して、紗雪は今日は教室におり、ひとりでサンドイッチを食べながら、本を読んでいた。
「いつもは、ふたりでいることもよくあったのに。ちょっと前から、それが全然なくなったって、何人かが言ってた」
「そうか……」
たしか、紗雪と桜花は、ふたりでどこかのグループに混ざったりはしない、ということだった。
一緒にいるときは、いつもふたりきり。
それ自体はやはり珍しいが、たしかに紗雪のイメージには合っている気がする。
「ただ、原因は誰も知らないみたい。周りから見てもわからないなにかがあったんだと思うけど、問題は……」
「綿矢にも心当たりがないってところだな」
「そう、それ」
侑弦の方をピンと指差して、美湖は言った。
難しそうに眉をひそめ、はぁっとため息をつく。
「つまり、なにもわからないってことか?」
確認するように、侑弦が尋ねる。
が、美湖の反応は、侑弦の予想したものとは少し違っていた。
「……仮説があるんだよね、実は」
「仮説?」
「うん。聞き込みで、ふたりの関係のことだけじゃなく、綿矢さんと桜花ちゃん、それぞれのことについても、聞いてみたんだけど」
「……」
「桜花ちゃんには今、好きな人がいる」
それまでよりも一段小さな声で、美湖が言った。
やけに神妙で、慎重そうな表情だった。
「佐野に好きな人……それで?」
恋をしている、ということ自体は、珍しいことでもない。
それどころか、高校生に恋はつきものだろう。
にもかかわらず、なぜ美湖は、こんな顔をするのか。
「桜花ちゃんが好きなのは、碓氷くん。あくまで噂だけどね。知ってるでしょ?」
「碓氷って……あの碓氷か」
言いながら、侑弦はチラと、横目で教室の中央を見た。
碓氷司。侑弦や桜花と同じクラスの男子で、ひと言でいえば『爽やかイケメン』。
穏やかで人当たりがよく、それでいて気配りもできるという人格者。
おまけに運動神経も成績もよく、目立った欠点がない。
男子からはある程度妬まれているものの、おおむね誰からも好かれる人気者だ。
いつか玲逢が司のことを『男子版天沢美湖』と称していたのを、侑弦は思い出した。
司は今も、数名の男女グループに混ざり、楽しげに雑談をしていた。
「まあ、納得の人選ではあるな。碓氷、いいやつだし」
「ね。桜花ちゃんも、数多いる碓氷くんファンのひとりってこと」
「そういわれると、佐野は怒りそうだけどな。で、それが?」
佐野桜花の、碓氷司への恋。
それが、今回の紗雪との確執にどういう関係があるのか。
だが、美湖に尋ねてすぐに、侑弦の頭にはなにか、不吉な予感のようなものが浮かんできていた。
「もうひとつ、ほかにも噂を聞いたの」
「……」
「碓氷くんは、綿矢さんが好き」
「……ほぉ」
思わず、苦笑いが出た。
――女の子の大きな喧嘩の原因って、やっぱりあれが多いかも。
脳裏に、昨日の佳音との会話が蘇る。
――あれ、っていうと?
――うん、恋愛系。
「本当かどうかは、まだわからないけどね。ただ、もしこの噂を、桜花ちゃんがどこかで聞いたとしたら」
「……綿矢にマイナスの感情を持っても、おかしくないってことか」
「まあね。綿矢さん、かわいそうだけど」
なるほど、つまりは本当に、痴情のもつれというわけか。
もちろん、まだ真偽は不明ではあるけれど。
「噂の出どころは?」
「桜花ちゃんの方は、噂っていうより、見てればわかる、って感じみたい。碓氷くんに、好き好きオーラ出てるんだって」
「そういうことか……好き好きオーラね」
まあ、好意を向けている相手にアプローチできるというのは、かなりいいことだろう。
こうして噂になるリスクこそあれど、恋の重要さに比べれば些事だとも思える。
少なくとも、侑弦にとっては。
「もうひとつの方は?」
「そっちは、発信源はわかんない。でも、バスケ部の人から聞いたって子がいた」
「……碓氷の部活は?」
「バスケ。部活で、恋バナでもしたのかもね」
そして、それが噂として漏れている、と。
人の口に戸は立てられぬ、というやつだろうか。
気の毒に、と侑弦は首を振る。
「それで……これからどうするんだ?」
「まあ、まずは確かめなきゃね。それぞれ、嘘かホントか」
美湖は間髪入れずに、そう答えた。
たしかに、それが先決か。
「侑弦って、碓氷くんと友達?」
「いや……残念ながら違う。それでも、わりと親しく話してくれる、いいやつだけど」
「ふぅん。さすが博愛主義者」
感心したように、美湖が言う。
おかしな表現だが、意外としっくりくる気がするのが不思議だ。
「碓氷って、あれだよな。去年、生徒会副会長選挙で、美湖に負けた」
「ああ、うん。ちょっと申し訳なかったけどね」
ちょうど、去年の今頃だったか。
当時一年生だった美湖と司は、生徒会副会長に立候補した。
周囲からの人気、人望。それらを踏まえても、接戦になるだろうと、侑弦は予想した。
が、結果は美湖の圧勝。同学年票ではそれなりに競ったものの、上級生からの得票率では、美湖が大差をつけていた。
選挙期間中に、美湖がすっかり他学年の心も掌握してしまったことが、勝敗を分けたと思われた。
美湖は未だに罪悪感を抱いているようだが、侑弦にしてみれば、人気という基準で美湖と戦ったというだけで、司に対しては尊敬の念を禁じ得ない。
しかし、そうか。そんな司が、紗雪のことを。
「ところで、どうやって確かめるんだ? 噂の真偽」
気になっていたことを、侑弦は美湖に尋ねた。
噂とは、あくまで噂だ。他人が好き勝手に尾鰭をつけたり、そもそも根も葉もなかったりする。
特に桜花のそれについては、そもそもが周囲の人間の憶測が元になっている。
つまり、真実を知っているのは、本人だけだ。
いや、美湖だってそれは、重々承知しているはず。
となると――。
「そりゃ、本人に聞くでしょ」
「……やっぱりな」
迷いのない返答に、思わずため息が出た。
天沢美湖にとっては、よっぽどのことがない限り、回り道は単なるタイムロスなのだろう。
「けど、佐野は教えてくれないんじゃないか。前回の反応からして」
「まあ、そうかもねー」
「策はあるのか?」
「もちろん。っていうか、侑弦もわかってるでしょ?」
美湖はふふんと笑って、侑弦を見据えた。
彼女の考えと一致しているかどうかは、わからない。
けれどたしかに、侑弦にはひとつ、案があった。
とはいえ、ほかに方法もないだろうという、いわば消去法ではあるのだけれど。




