019 「お楽しみはあとでね」
休日、土曜日の昼下がり。
「お邪魔しまーす!」
天沢美湖は明るい声を上げて、慣れた様子で朝霞家のドアを潜った。
玄関に上がり、脱いだ靴を綺麗に揃える。
出迎えた侑弦に笑顔を向けると、目を閉じて軽くハグをしてきた。
「おはよう、美湖」
「おはよー。あー、侑弦だぁ」
スリスリと肩に頬擦りをして、美湖がフニャッとした声で言う。
侑弦は美湖の頭を軽く叩いて、そのまま荷物を受け取った。
「あっ、ソラ! おいでー!」
と、今度はリビングから駆け寄ってきたポメラニアンのソラを、美湖がしゃがんで腕に迎え入れた。
ソラは白い毛をふさふさと揺らしながら、跳ねるように美湖にじゃれている。
「おわーーー。相変わらず、あんたはかわいいねぇ」
「美湖が来ると元気だな、ソラは」
今日は気温が高いせいか、ソラも朝から省エネモードだった。
けれど、美湖に会うといつもこうだ。もう二年以上の付き合いになるからか、最初はあった警戒心も、今では完全に消えている。
「ツキはお昼寝?」
「いや、起きてても、来ないんだろ」
「ありゃ。さすがお嬢様」
美湖はあははと笑い、ソラの小さな身体を抱え上げる。
ツキというのは、朝霞家のペット二号、メス猫のラガマフィンのことだ。
人懐っこいソラとは対照的に、マイペースでツンデレ。美湖が訪ねてきても、大抵はいつも通りにしている。
それでいて、気が向くとやたら構ってほしがるところを指して、美湖は『お嬢様』と呼んでいる。
「おじさまとおばさまは?」
「奥にいるよ。声かけるか?」
「うん。ちょっとぶりだしねー」
そう言うと、美湖はソラを抱いたまま、リビングへ入っていった。
追いかけようか、とも思ったけれど、やめておく。
親の前で美湖と一緒にいるのが、普通に恥ずかしいというのがひとつ。
それと、もうひとつは。
「お、ツキ」
んなー、と細い鳴き声を上げて、ツキがのそのそと歩いてきた。
そのまま侑弦の足に体をくっつけ、ゴロンと廊下に転がる。
どうやら、ちょうど気が向いたらしい。
「今日はお嬢様がふたりか」
ツキの白い毛を撫でながら、侑弦は言った。
リビングの方から、三人分の笑い声が響いてきていた。
「ほっ!」
侑弦の部屋に移動すると、美湖はすぐさまベッドに飛び込んだ。
ボフッ、と音を立てて、華奢な身体がマットレスに沈む。
少しスカートが捲れそうになっていて、侑弦はタオルケットを美湖の足にかけた。
その傍らで、ついてきていたソラが尻尾を振っている。
「はぁー、歩き疲れた。微妙に遠いよねー、侑弦の家」
「布団、毛だらけだぞ」
「大丈夫な服で来たもーん」
気の抜けた声でそう言って、美湖はゴロンと仰向けになった。
そのまま両手を上に伸ばして、侑弦の方を見る。
「……なんだ」
「おいで」
「行かないって……下に親いるんだぞ」
「大丈夫だもん。おばさまもたちも、もう察してるだろうし」
「そういう問題じゃない……。あと、ソラも見てるだろ」
「えー。じゃあソラ、ごめんだけど、ちょっと向こう行ってて」
「わんっ」
「こら、行くなあほ」
と、部屋を出ていこうとするソラの身体を、今度は侑弦が抱え上げる。
普段は人懐っこいくせに、こういうときだけ妙に素直だ。
「せっかくイチャイチャしにきたのにーっ」
「課題と映画だろ、今日の目的は」
「ふふふ、それは建前ですよ。きみも純粋だね、侑弦くん」
「お前は誰なんだ……」
美湖の冗談を受け流しながら、侑弦はテーブルにふたり分のお茶と、お菓子を並べた。
ソラが身を乗り出して覗き込んでくるが、手を出したりはしない。
「仕方ない。お楽しみはあとでね、あとで」
「早くノート出せ」
「うわ、ツンデレだ。どうせちゅーするくせに!」
「……」
否定することもできず、侑弦は黙ったまま教材の準備をした。
数週間に一度ある、どちらかの部屋での家デート。
もちろん、恋人らしいこともするのだろうし、事実、これまでもそうなってきた。
今日だって、そういうことがなにもないとなると、寂しいというのが本音だ。
だが、美湖のようにオープンにするには、侑弦は少々シャイなのである。
まあ、美湖もそれを知っているからこそ、こうしてからかってくるのだろうけれど。
「あ、私あれ買い置きしてたよね? いつものクッキー!」
「ん、ああ、棚にあったな。あと、ミルクティベースも残ってるぞ」
「あーー、それね。じゃ、ふたり分用意してくるー」
美湖はぴょんっとベッドから起き上がり、そのまま軽い足取りで部屋を出ていった。
階段を降りる音が、徐々に遠ざかる。
まるで、自分の家にいるような振る舞いだ。
天沢家にお邪魔しているときの侑弦は、あそこまで我が物顔ではないのだが。
とはいえ、彼女がうちでリラックスしてくれているのは、侑弦にとっても嬉しい。
付き合いたての頃は、今と比べればふたりとも、もっとずっと気を使っていた。
「……」
――きみのこと、好きになった。彼氏にしてほしい。
あの日、中学三年生の、ゴールデンウィーク明け。
美湖に告白したときのことが、ふと脳裏に蘇った。
緊張していたし、不安もあった。
なにせ、どう考えても、早すぎる告白だった。
話したこともない、名前を覚えてもらえている自信さえもない。
けれど、今しかないと思った。
この子を放っておいたら、いつ誰に取られてもおかしくない。
むしろ、もう誰かのものなのかもしれない。
そんなことを確認もせずに特攻したのは、今思えば無謀すぎたのだけれど。
――わかった。じゃあ、ちょっと考えさせて。
好きになった理由を説明した侑弦に、美湖はそう言った。
あれから、もう二年と少し。
今こうして、自分の家に彼女が好物を買い置きしているなんて、あの頃の自分は想像もしていなかった。
よかった、と思う。
これからも、こうであってくれたら。
そして、もっと仲を深められたら。
そうなれば、いいと思う。そうしたいと思う。
それにもちろん、美湖にも同じように思ってもらえるように、努力しなければ。
美湖の戻ってくる足音を聞きながら、侑弦は人知れず、そんなことを考えた。
「……ソラも、助けてくれよな。お前も好きだろ、美湖」
「わんっ」
『買い物行くから、ほしい物あったら送っといて』
『美湖ちゃんも、なんでも言ってねー』
ふたりでおおよそ課題を進めて、ひと段落した頃。
母親から、そんなメッセージが来た。
ググッと伸びをしている美湖に、その画面を見せる。
「だそうです」
「わっ、おばさまさすが、美人!」
美湖はすかさず自分のスマホを取り出し、母に何事かメッセージを送っていた。
当然、美湖は侑弦の両親、ふたりの連絡先を知っている。
おまけに、こういうときもあまり遠慮をしない。
お言葉には甘える。恩は受けないのではなく、別でお返しをする。
美湖は出会ったときから、ずっとそういう生き方だ。
「へっへっへ。さっきちょうどなくなったし、ミルクティベース頼んじゃお。あ、あとアイスも」
「たしか、ツキの餌が減ってたな。それと、テキトーに勉強用のグミでも頼もう」
と、ふたりでリクエストを伝え、スマホを置く。
そのままノート類を片付けて、飲み物でひと息ついた。
窓の外から、低い音が響いてくる。おそらく、両親が車で出かけたのだろう。
「……ゆーづる」
「ん……なんだよ」
「ちゅーして」
甘えるように、美湖がこちらに両手を伸ばす。
ふたりきりになると、すぐこれだ。
が、今となっては拒む理由もない。
それに、ずっとそばにいたせいで、侑弦の方も少し、そういう欲が出てきてしまっていた。
「ソラが見てるぞ」
照れ隠しに、そう言った。
当のソラは、いつの間にかクッションの上で寝息を立てている。
「けっこう我慢したもん。早く」
「……」
膝で歩いて、美湖の前に移動する。
それから、ハグするように美湖を引き寄せて、触れるだけのキスをした。
「ん」と美湖が声を漏らす。
それがどうしようもなく愛しくて、侑弦はもう一度くちびるをくっつけた。
「……えへへ、やった。でも……うーん、物足りず」
「ばか……今日は“なし”だろ」
「“なし”かぁ」
不満そうに言って、美湖は今度は、自分からキスをしてきた。
なし、とは言ったものの、こうしているとその意志が揺らいできてしまう。
それはきっと美湖も同じで、あまり続けるべきではない。
名残惜しくないといえば、嘘になる。
けれど、今日のところはこのあたりで、引き返しておくべきだろう。
「ほら、終わり。映画見るんだろ?」
「んー……うん。見る」
テレビの電源をつけて動画配信サービスの画面を開く。
あらかじめ決めていた作品をマイリストから探していると、美湖が後ろから抱きついてきて、言った。
「侑弦。愛してる」
「……俺も、愛してるよ」
いや、俺の方がもっと、ずっと。
そう言いかけて、やめた。
相手の気持ちの大きさを決めつけるのは、よくない。
それに、自分を卑下したくはない。
同じくらいの気持ちでありたい、あってほしいとも思う。
選んでくれた美湖のために。そして、美湖を選んだ自分のために。
「えへへ、そーですか。いい心がけですね」




