その1 彼の過去
「えーと、つまりこの方程式を使うってことは……こうか?」
「そう、そこを二乗して」
「ああ! なるほどな! すっげえな」
「あ。気抜くから計算ミスしてる」
「げっ」
あれから週に一日一時間だけ、戸津を自分の部屋に呼んで勉強を教えている。教えているといっても私がお兄さんから教えてもらった日の翌日に戸津を呼んで、同じ内容を復習がてら教えているのでどちらかというと私の勉強にもなっている。
そういえば自分自身の変化に気付いたことがある。戸津に対して嫌悪感を全く感じない、ということだ。正直引き受けた後少しだけ不安だったがこれならやっていけそうだ。時間の経過による慣れってすごいな……。
ところで戸津は飲み込みが早い。高校に入ってから今まで勉強して来なかったか、勉強の仕方がわからなかっただけじゃないかと思うほどだ。これじゃあきっといつか追い越されるのではないだろうかなんてことが頭を過ぎるも、私は戸津と受験で戦うわけじゃないしそこは安心した。
それと他にも気付いたことが二、三ある。戸津はすごく真面目だ。茶化してきたりするかと思っていたが少なくとも勉強に対しては真剣に話を聞いてくれる。ここまで彼を医者の道に進ませようとする何かがある。そこまではわかった。私が知っている限りでは彼の家系は別に医療系でもなんでもなかったはずだ。小学生の時だって、医者を目指してるなんて話を聞いたことはない。何かあったのだとすれば、彼が中学の時だろうか。
もう一つは、戸津がなぜここまで私のダイエットに付き合ってくれるのか。ただ罪滅ぼしだけとか、交換条件とかそれだけではない気がしている。普通ならもう面倒くさくなってる頃だろうし。ここまで私のダイエットに付き合う義理もないだろう。
これらについて尋ねようかどうか、個人的に勉強を教えて三回目の今日、終始悩みながら、一時間が終わる。
「よっし。このあたりの範囲は大分わかるようになってきたな!」
戸津は何を思ってそんなに頑張っているのだろう。何を思ってそんなに私に協力しようとするのか。
「ん? なんだよ?」
「え? あ、ごめん」
私がぼぅっと戸津を見ていたせいで彼が怪訝な目をして言った。
「じっと見つめちゃって、まさか俺に惚れた?!」
「そんなわけないでしょ」
真顔で返事をする。
すると戸津は笑う。
このやり取りたまに行われるので正直鬱陶しい(うっとうしい)。
笑ってる戸津の横で私は小さなため息を吐き、思い切って聞いてみることにした。
「あのさ、戸津」
「ん? なんだ?」
「聞きたいことがあるんだけど」
「おう、答えられることならなんでもどうぞ」
聞いていいのかなと一瞬過ぎるも、戸津もなんでもどうぞと言ったのだから、と口を開く。
「二つ聞きたいことがあるの。一つはなんでそんなに医者になりたいの? ってことと、私のダイエットになんでそんなに執着するの?」
「……言いたくねえ」
「そう……なら聞かない」
私は彼の一言で了解する。彼が解せないような顔をしていたので言ってみた。
「だって、怒らせたらまた何言われるかわからないもん。戸津は」
「なんだよそれ」
戸津が睨んでくる。そうこれだ。嫌悪感こそなくなったものの戸津は不機嫌になると怖い。それから小学生の時の戸津はこう言うんだ。
『お前なんかデブのくせに』
忘れることなんてできるのだろうか。
私が黙っていると戸津は大きく一つため息をついた。
「言うよ。全部さ」
「え?」
「ついでに今回の経緯も話すけど、細川にとっちゃいい話でもなんでもないぞ。覚悟あるのか?」
「いいよ」
傷つくことには慣れてるから、とは付け足さずそう返事をする。
戸津は語り始めた。
きっかけは文化祭の準備で追われ始めていたころだそうだ。
戸津は水泳部の出し物『なんちゃって男子シンクロ』以外にクラスの出し物の『ホットドック店』の両方を両立するため行ったり来たりしていたそうだ。
その頃私と話さなくなっていた戸津は元カノのマネージャーからまた言い寄られていたそうだ。だけど戸津としてはもう終わったことにしたかったらしい。
元カノは何度も言い寄ったが戸津はそれを断り続けてしまいには私の悪口になっていたそうだ。
『あんなデブな子といるから戸津がおかしくなった!』
と部内でも散々騒いでいたらしい。
そこに便乗したのが水泳部の橋本大樹だった。
『戸津がデブ専になった』
と言いまわっていたそうだ。
そこまでは戸津も何もアクションはせず「やめろよ」とだけ言い放ってたらしい。
しかしある日、春ちゃんが戸津の元を訪ねた。尋ねた理由は二つ。
一つは私の様子がおかしかったため、その理由を知っているのではないかということ。そしてもう一つは、橋本大樹が春ちゃんに対して『戸津の彼女の友達じゃん』とからかって来たことだ。ようするに私の知らないところで被害は拡大していた。
「そんな……春ちゃんにまで?」
「お前が落ち込んでるときまあまあ大変だったんだからな」
「それからどうしたの?」
「あーーそれからな……」
戸津は言いずらそうにするも頭を掻くと話を続けた。
春ちゃんの被害報告から数日後それはプールで練習の休憩中に起きた。
彼らが相も変わらず戸津をからかい続けていた時だったそうだ。
「そこまではいつも通りだったんだけど、あいつらが言ったんだ」
『デブだから早死にしてもおかしくねえよな! 予言するよ! 早死にするって!』
◆
「いい加減、そういうのやめろって言ってんだろ!」
――ドン!!
屋内プールで、俺が大樹を突き飛ばした音が響いた。
大樹がこっちを睨んでいる。
「やったな」
大樹がそう言い放つと今度は俺の頬にグーパンが飛んできた。
くっそ、いってえ! なんでグーパンの本気なんだよ、あほなんじゃねえのこいつ!
そこからはもう何が何だか覚えてない。相手をプールに突き落として、相手も落ちるときに俺の腕を掴んでプールへ道ずれにした。髪を引っ張り、殴って、蹴って……と言っても、水圧があるのでそこまで衝撃はなかったが、水は鼻に入るわ口に入るわで苦しかった。塩素の臭いが鼻いっぱいに広がっていた。
他の部員に呼ばれて先生が二、三人やってくるまではそれは続いた。
無理やり先生に引きはがされるとお互い肩で息をする。
「俺じゃねえ! 戸津だ! こいつが先に手を出した!」
俺はそれを言われてまた頭に血が上る。確かに手を出したのは俺だ。だけどな……!
「ずっと、言葉の刃を振りかざしてたのはそっちじゃねえのか! お前は誰も傷つけてないっていうのか! マネージャーと一緒になって! そんなに外見がいいことが大事なのか! お前みたいに中身が悪いやつに、努力してるあいつがとやかく言われる筋合いはねえだろ!」
馬鹿みてぇだ。これで内申に響いたら俺の推薦もなくなるかもしれないのに。
でも許せなかった。
こいつらだけは許せなかった。
知ってんのかよ! あいつがどんだけ頑張ってるのか! あいつが変わろうとしてるのか!
――お前が言うことじゃないだろ。
うるせえ、わかってる! あいつがあんな風になったのは俺のせいなんだ。
――罪滅ぼしなんて言って手伝って、断られて、お前にはもうできることなんかないじゃねえか。
そうだ、今は何もしてやれることはねえ! だからって大樹達の悪口を続けさせていいわけがねえ。
――あいつらは昔のお前だぞ。お前が自分に向かって何を言ってる?
だから、だ。俺はもう昔の俺には戻らねえ。
――ふん、結局自分が許されたいだけの人間か。
なんとでも……なんとでも言え。
先生に止められた状態で、感情が込み上げてくる。
大樹は俺を睨みつけたままぼそりと呟く。
「偽善者が」
その一言を放って、先生に「こら!」と叱られる大樹。
俺は、と言うと、泣いてしまっていた。




