戻るもの、戻らないもの
失ったものは、
必ずしも戻らない。
だが――
戻らなくても、
人は前に進める。
朝だった。
目を覚ますと、
いつもより静かだった。
街の音も、
宿の軋みも、
なぜか遠い。
俺は、
無意識にルーペを手に取る。
(……やめよう)
一度、机に置く。
昨日までの自分なら、
祈るように覗いていた。
今日は、
しなかった。
依頼書が、届く。
王都でも、
領内でもない。
「……私人間調停?」
アリアが、首を傾げる。
「契約ですら、
まだないわね」
「だから、
俺に来た」
それだけで、
分かる。
依頼主は、
小さな工房の主人だった。
「弟子が、
辞めると言っている」
よくある話だ。
だが――
声が、切実だった。
「契約違反ではない。
だが、このままでは
工房が潰れる」
俺は、
話を聞いた。
ただ、
聞いた。
弟子は、
別の場所へ行きたいだけだった。
工房主は、
裏切られたと感じている。
どちらも、
間違っていない。
(……読む必要は、ない)
そう思った。
「条件を書きましょう」
俺は、
紙を出す。
「違反は、しません」
二人が、
顔を上げる。
「ですが、
終わり方を決めます」
終わり方。
それは、
契約にあまり書かれない。
「引き継ぎ期間を、
明文化する」
「技術の範囲を、
明確にする」
「感情的な非難を、
契約違反としない」
地味だ。
派手さは、
一切ない。
だが――
空気が、緩んだ。
弟子が、
ぽつりと言う。
「……逃げても、
いいんですね」
「はい」
即答した。
「逃げ方だけ、
整えます」
工房主は、
目を伏せた。
やがて、
小さく頷く。
契約は、
静かに結ばれた。
誰も、
勝っていない。
誰も、
負けていない。
それで、
いい。
帰り道。
アリアが、
言った。
「……今日は、
使わなかったわね」
「はい」
「怖くなかった?」
少し考えてから答える。
「怖かったです」
正直に。
「でも、
今日は
必要なかった」
アリアは、
微笑んだ。
夜。
机の上。
ルーペが、
そこにある。
俺は、
ゆっくり手に取った。
(……一度だけ)
覗く。
「……しんけいどっかい」
世界が、
わずかに沈んだ。
完全ではない。
だが――
戻っている。
少しだけ。
俺は、
すぐにルーペを伏せた。
嬉しさより、
静けさが勝った。
(……戻らなくても、
やれる)
戻ったとしても、
頼らない。
それが、
今の俺だ。
灯りを落とす。
契約は、
世界を縛る。
だが――
終わらせ方を決めるのは、
人だ。
明日も、
条件を書く。
能力があっても、
なくても。




