9話
その頃、王宮では。
広い執務室に陛下が一人お座りになり、書状を読み終えると、静かにため息をついた。
「あれほどの功績を立てておきながら、あの若者は遠慮深すぎるのだな。わしが一肌脱ぐしかないな」
そこへ侍従が控えめに告げる。
「エドガー卿をお連れいたしました」
「入れ」
扉が開き、エドガー卿が姿を見せた。
背筋は伸びているが、その態度には深い慎ましさが滲んでいる。
「陛下、お呼びとのことで参上いたしました」
陛下はしばらく彼を見つめ、それからゆっくりと切り出された。
「そなたが会いたいと申した令嬢とは中々話が進んでないようだな。よって、わしからエクセター侯爵家にそなたへ嫁ぐよう王命を出しておいたぞ」
「え、王命ですか?」
「遠慮するな」
陛下は少しだけ苦笑される。
「そなたが戦場で示した献身と実力は、誰の目にも明らかだ。だが領地の再建にはもう一つの力が必要だろう」
エドガー卿は息を呑んだ。
「そうだ。あの家は兄弟仲が良いからな。兄の公爵殿に頼めば、弟の侯爵も動いてくれる。心配はいらぬ。そなたには立派な伴侶がつく。エクセター家の令嬢は、貴族の作法にも領地の仕組みにも明るい」
エドガー卿は深く頭を垂れた。
「ありがたき幸せ。ですが……」
「ん?」
「その……。お嬢様にとって、私は……」
彼は言葉に詰まった。
王命ゆえに断れなかっただけなのでは? その不安が、表情にありありと浮かんでいる。
陛下は優しく笑みを浮かべた。
「心配しすぎだ、エドガー。そなたは少しばかり慎ましすぎる。夫となる者は胸を張れ。努力を惜しまぬ姿勢こそ、妻の心を動かすものだ」
エドガー卿は静かに頷いた。
「……はい。必ずや、恥じぬ夫になってみせます」
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王宮を後にした彼は、しばらく馬車の中で腕を組んで目を閉じていた。
(お嬢様は、きっとお困りになっているだろう。
王命であれば、断ることも叶わぬ。だがせめて……)
彼はゆっくり息を吐いた。
(お嬢様が心から私を選んでくださるまで、夫婦の関係は求めない。それがせめてもの誠意というものだ)
ーーーー
わたくしは応接室でお父様と並び、エドガー卿を出迎えた。
「本日はようこそお越し下さいました。エドガー卿」
彼はいつも通り、少し硬い表情で深く頭を下げる。
「お嬢様、本日は、私からお伝えしたいことがあって参りました」
お嬢様と呼ばれるたび、まだ距離を置かれているのだわと感じて胸がちくりとする。
「実は、陛下より、直接お言葉を賜りました。今回の縁談は王命である、と」
わたくしは一瞬、お父様を見る。
お父様は静かに頷くだけだった。
「そして私は、お嬢様が本心からこの結婚を望まれたわけではないと、そう受け取りました」
「……まあ」
違う、と言えないのが苦しい。
本当はわたくし自身が王命の形にしてくださいと父に頼んだのに。
彼は続けた。
「ですから私は、結婚してもしばらく……夫婦の関係を持つことはいたしません。お嬢様が、いつか心の底から私を望んでくださるその日まで」
真摯で心底、正直な宣言に、わたくしは胸が熱くなる。
「身分も作法も領地経営もすべてにおいて努力いたします。いつか、お嬢様にふさわしい男と胸を張って言えるようになるまで」
その誠実さが、ひどく愛おしく思えた。
「エドガー卿」
わたくしはそっと言葉を返した。
「でしたらわたくしも、その努力の道に寄り添わせてください。あなたの成長を、わたくしなりに支えますわ」
それでも彼はやはりお嬢様と呼ぶ。
距離はまだある。
でも、わたくしの心はほんの少しだけ近づいていた。




