7話
次の日の午後、わたくしは窓辺のソファでくつろぎながら再び彼のことを考えていた。
暖炉の火が、静かに燃えている。突然、パチリとその炎が爆ぜた瞬間、昨日の父との会話を思い出し、静かに目を閉じた。
そう言えばエドガー卿、彼は何故わたくしと会わせて欲しいと陛下にまで願い出たのかしら? わたくしったら肝心なことをまだ一度も聞いていなかったわ。
ただ、社交界で見かけただけ? そんなことくらいで陛下に願い出るような軽い方ではないはずだわ。
わたくしがいつも社交界で纏っている、高飛車で近寄りがたい侯爵令嬢の仮面、そんなわたくしに好意を抱くはずはない。わたくしは彼と何度か接していて何となくそれは理解できる。
では何故?
『あー駄目。気になり出したら止まらないわ。やはり自分の耳で確かめなければ』
わたくしはその後、先触れを出してからアンを伴い、エドガー卿のお屋敷を訪ねた。
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屋敷の前で馬車が止まり、わたくしはアンに手を取ってもらいながら外へ降り立った。
わたくしたちが玄関へ向かうと、すぐに身なりの整った隙のない厳格そうな使用人が出てきて、恭しくお辞儀をした。この方は家令の方かしら?
「エクセター侯爵令嬢様、ようこそおいでくださいました。先触れを頂戴し、ご主人様は至急戻るとおっしゃっておりますが、あいにくと、現在は公務で外出中でございます」
やはりそうよね。彼が忙しいのは聞いていたのに無理を言ってしまったわ。
「戻られるまでこちらでお待ち下さい」
通された応接間は広く、それでいて不思議なほど落ち着いた雰囲気に満ちていた。
壁には季節ごとに描かれた風景画が並び、磨かれた床には深い緑色の敷物。
平民出身の彼が整えた屋敷、そんな偏見を持つつもりはないけれど、思わず目を見張ってしまうくらい、隅々にまで気が配られている。
「まあ、とても素敵なお屋敷だこと」
「お嬢様、きっとエドガー卿のお人柄が表れているのでしょうね」
「……そう、かもしれないわね」
アンが微笑む。その表情を見て、胸の奥がくすぐったくなる。
ほどなくして、温かい紅茶とお菓子が運ばれてきた。
しかし、カップに口をつけても味が入ってこない。
どうして陛下にまで願い出たのか。
どうして、私なのか。
その問いが、さざ波のように胸の内を揺らし続けていた。
落ち着かないわたくしとは対照的に、アンは窓際から庭を眺めて言う。
「お嬢様、夕暮れのお庭、とても綺麗ですよ。エドガー卿も、きっと急いで戻られるのではないでしょうか」
「……だったらいいのだけれど」
しかし、いざ会ってしまえば、彼に問いかける勇気が少しだけ足りない気もした。
そんなふうに胸の内で迷っていたそのときだった。
玄関のほうから、低く落ち着いた声が響いた。
すぐに使用人が足早に通り抜け、扉の向こうで短く報告が交わされる。
「ご主人様、ご帰宅です」
アンがはっとしてこちらを見る。
わたくしは思わず背筋を伸ばした。
次の瞬間
扉が静かに開き、エドガー卿が姿を現した。
外出先から急いで戻ってきたのだろう、肩で息をしてはいないものの、マントには道の埃が少しだけついている。
けれど彼は、それらを気にする様子もなく、真っ直ぐこちらへ歩み寄った。
「お嬢様、お待たせしてしまい、誠に申し訳ございません」
その声は、いつもよりわずかに低く響いていた。
「いえ。こちらこそ突然伺ってしまい、ご迷惑だったでしょう?」
「いいえ、とんでもありません。貴女がお越しくださるなど、むしろ光栄です」
そう言って深く頭を下げた彼の仕草に、わたくしの心臓が跳ねた。
わたくしが息を呑んだその瞬間、彼は問いかけた。
「……本日、お越しいただいた理由を伺ってもよろしいでしょうか」
さあ、ここからが本題。
わたくしがずっと胸に抱えていた、あの問いを、彼自身の口から聞くために来たのだもの。
「ええ、もちろん。ずっと気になっていました。エドガー卿、あなたに、どうしてもお聞きしたいことがございますの」
そう告げた瞬間、エドガー卿のまつ毛がぴくりと揺れた。
その反応に、ますますわたくしの胸が騒いでしまう。
「エドガー卿。どうしてわたくしと会わせて欲しいと、陛下にまで願い出られたのですか?」
聞いた瞬間、エドガー卿の肩がわずかに固まった。
「……それは」
彼は一度目を伏せ、浅く息を吸った。
言い訳を探しているのではなく、正しい言葉を選び取ろうとしているような沈黙。
そして、静かに顔を上げる。
「おそらく、あの日……貴女はお気づきではなかったと思います」
彼の視線がわずかに遠くへ向けられ、記憶を辿っているようだった。
わたくしは息を呑み、そっと彼の言葉を待った。
そして、彼は静かに語り始めた。
あれは、まだ冬が来る前の涼しい季節。
王宮で開かれた夜会のことだった、とエドガー卿は語った。
「私は任務で招集を待っておりました」
彼は遠くを見ながら続けた。
「その時、庭園の陰で、見覚えのあるご令嬢が泣いているのを見たのです。しかも、複数の令嬢たちに囲まれて」
わたくしの眉が自然と寄る。
そんな光景、社交界では珍しくもない、だからこそ腹立たしい。
「泣いていたのは、カーライル男爵家のご令嬢。大人しく、社交界になじむのが少し苦手な方です。彼女の兄上は昔、同じ騎士仲間でした。」
エドガー卿は一瞬、目を細めた。
「そして彼女を責め立てていたのは、公爵家の娘と、その取り巻きたちでした」
胸の奥がきゅっと冷たくなる。
わたくしも噂を聞いたことがある。
地位を盾に、弱い者を嬲ることで自尊心を満たす、そういう手合い。
「私はすぐに駆け寄ろうとしました。しかし、その少し前に」
エドガー卿はわたくしを見た。
その瞳に宿るのは、確かな敬意だった。
「彼女を助けに入った方がいました。まるでその場の空気に切り込む剣のように」
「剣?」
「ええ」
彼は迷わず頷く。
「エクセター侯爵令嬢。貴女でした」
息が止まりそうになった。
そんなこと、あったかしら?
……いえ、いじめを見つければ言い返すのは、わたくしの悪い癖だわ。
相手がどれほど高位だろうと、そんなこと知ったことではないわ。
でも、まさか彼に見られていたなんて。
「貴女は泣いていた令嬢の前にすっと立ち、微笑んで言ったのです」
エドガー卿の声が、どこか誇らしげに響く。
『まあ、ずいぶん退屈な遊びをされているのね
けれど馬鹿にするのが趣味なら、どうぞわたくしを相手になさいな、公爵家のご令嬢ともあろう方が、こんな真似、お家の名折れですわ』
「そして、相手の令嬢たちは顔色を変えて退散しました」
ああ……言いそうだわ、わたくし。
「貴女はあの時、泣いていた令嬢にハンカチを渡して、こうおっしゃった」
『泣き顔は似合いませんわ。きっと貴女は、笑顔の方が魅力的でしてよ』
胸が、じんと熱くなる。
そんなことも……あったわね。
「私は、あの光景を遠くから見て、強く心を打たれました」
エドガー卿はまっすぐにわたくしを見つめた。
「立場など関係なく、弱い者の涙を迷いなく拭える人だと。その強さと、優しさを私は忘れられなかったのです」
彼は深く息を吸い、そして言った。
「だから私は、陛下に願い出ました。一度で良いから、エクセター侯爵令嬢、貴女とお会いして、話す機会を頂きたい、と」
わたくしは一瞬、彼を見る。
「……そんな理由が、あったのね」
でも確か伯父様は陛下からの縁談だと……。
でも彼は一度で良いから会って話したいと……。
そういえばお父様も無理強いはしないと……。
伯父様、やはり話を盛ったわね。わたくしは溜息をひとつついた。
そして、彼がようやく絞り出した声は、驚くほど小さかった。
「はい。あの日から、ずっと、貴女をお慕いしておりました」
静かな応接間に、その言葉が落ちた。
まるで、雪の降り始めの音のように。
静かで、けれど確かに心を震わせる響きだった。




