40話(番外編)1
デビュタントの翌朝、屋敷の食堂には、どことなく眠たげな空気が漂っていた。
「マーガレット、もっと背筋を伸ばしなさい。淑女の朝は姿勢からよ」
母、ミリアンが笑顔を向けながら注意すると、向かい側の娘はスプーンを持ったまま目を細めた。
「だって……昨日は、沢山踊り過ぎて疲れました」
「あの程度で疲れるなんて、兄はまったく平気だぞ」
そう言って食事を口に運んだのは、兄のマーク。
涼しい顔をしているが、やはり目の下にはほんのり疲労の色があった。
「お兄様だって姿勢が悪いですわ!」
「そんなことはないさ。僕は紳士だからね」
「むっ……! 今、背筋を伸ばしたくせに」
二人のやりとりを見ながら、父、エドガーは喉の奥で笑った。
「仲が良いことは、良いことだ」
「仲が良い? どこがですの?」
即座に反論する娘。
しかし、兄は余裕の微笑みを崩さない。
「それにしても、マーガレットは本当にダンスが好きなんだな。曲が終わっても手を離さなかったな」
「違いますわ、離そうとしたら、お兄様が握ってきましたのよ!」
「いや、お前がまだ踊りたそうだったからだ。エスコートだよ、マナーだ」
「嘘ですわ!」
ミリアンはくすりと笑い、エドガーは肩を揺らした。
「あら、マーガレット。嫌がっている割には顔が笑っているわよ?」
「も、もう! お母様まで!」
娘はぷいっと横を向き、兄は勝ち誇ったように咳払いをした。
「それにしても……」
マークは父をちらりと見る。
「父さんこそ、すごかったよ」
「何がだ?」
「昨日の夫婦のダンス。あれは、ちょっと……反則だ」
マーガレットもうんうんと強く頷く。
「会場の人たち、みんな見惚れてましたわ! わたくしが主役だったはずなのに!」
「それが悔しいんだろう?」
「悔しいですわ!」
ミリアンは優しく微笑み、エドガーの手にそっと触れた。
「だってあれは、二十年越しのダンスですもの。誰も勝てるはずはないわ」
マークとマーガレットは目を丸くし、同時に声を揃える。
「二十年越し?」
その驚きを、エドガーはどこか誇らしげに受け止めた。
「大人には、大人の物語があるのだよ」
兄妹は顔を見合わせ、ため息をついた。
「ずるいですわね、お父様とお母様は」
「まったくだよ」
けれど次の瞬間、二人は同時に笑った。
「でも、ちょっと憧れるかも」
「……そうだな。ああいう夫婦になれたら、悪くない」
ミリアンとエドガーは視線を交わし静かに微笑みあう。
家族という物語は、まだ続いていく。
《エドガー視点》
朝の執務室には心地よい静けさがあった。
机の上には領地から届いた報告書、整えられた書類、そして妻が焼いたお菓子と香りの良い紅茶。
二十年という歳月は、確かに流れた。
だが、不思議なものだ。
ミリアンが微笑みかけた瞬間、あの頃の胸の高鳴りが今でも蘇る。本当に二十年も経ったのだろうか。たまにそんな錯覚に包まれる。
扉が軽く叩かれ、ノックの音が響いた。
「父さん、入っていいですか?」
現れたのは息子のマーク。
落ち着いた視線、穏やかな声。
だが、その所作はまだどこか幼さを残している。
「昨日のダンス……本当に、すごかったです。あれが夫婦というものなのでしょうか」
「そうだな。だが、最初からできたわけではない。努力が必要だな」
「努力……ですか?」
「うむ。努力だけでは足りないのかもしれないな、覚悟も必要だ」
「覚悟……」
マークは考え込み、やがて小さく頷いた。
「僕も、いつか。あんなふうになれますか」
「なれるとも。君は私の息子だ」
その瞬間、マークの顔がほころんだ。
その表情を見守りながら、胸に静かに灯るものがある。
父となった喜びは、こうして積み重なってゆくのだな。
《ミリアン視点》
庭に面した部屋は光に満ちていた。
レース越しの風が頬を撫でる。
「お母様、聞いてくださいまし!」
マーガレットが勢いよくソファに腰を下ろす。
彼女のその表情にはまだ幼さが残っている。
「マークお兄様ったら、また、妹を守るのは兄の務めだなんて言うんですの! せっかく素敵な殿方が声をかけてくださったのに」
「あら、心配をしているだけですよ」
「でも、その言い方が腹が立つんですわ!」
わたくしはくすりと笑う。
彼女はわたくしに似て感情が顔に出やすい。
「お母様とお父様みたいな夫婦って……素敵ですわ。その……悔しいけれど」
その言葉に、胸の奥がじんと温かくなる。
「マーガレット。わたくしたちも最初から上手くいっていたわけではありませんのよ」
「そうなのですか?」
「ええ。泣いたり、拗ねたり、意地を張ったり……でも心は離さなかった。それがすべてです」
娘は少しだけ目を丸くし、そしてふわりと微笑んだ。
「……わたくしも、そうなれたらいいですわね」
「なれるわ。だって貴女はわたくしの娘ですもの」
髪を撫でると、柔らかな瞳が向けられる。
その瞬間、気づくのです。
母となった幸せは、こうして息づいていくのだと。
ーーーー
その日の夕刻、廊下ですれ違ったわたくしたちは、何も言わず、ただ微笑見合った。
父として、母として、同じものを見つめているという確かな実感とともに。
ーーーー
いつもの夕食の風景。
わたくしたちはいつものように賑やかに会話をしながら食事を取る。
今日の昼間、友達の所へ遊びに行っていたマークがなんだか少し元気がない。
「マーク、どうしたのかしら? あまりお食事、進んでないわね」
彼は、意を決してような面持ちで父に向き直る。
「父さん、どうしてうちの領地はこんなにも広いのに父さんの爵位は男爵なのですか?」
どうやら昼間、友達から何か言われたようだ。
「マーク、爵位と領地の広さはあまり関係はないのよ。それにね、ほとんどの場合、世襲貴族、つまりはたまたま、その家に生まれたからその家の爵位を継ぐのだけれど、お父様はね、自分の身一つで今の爵位を賜ったのよ。」
そう言って、わたくしは二人に説明をした。
お父様はかつてこの国を救った英雄として陛下から厚い信頼と共に爵位とこの領地を賜ったこと。
そして、騎士としてかなりの戦果を挙げても普通は一代限りの騎士爵という称号を与えられるだけなの。それは準貴族ということよ。
だけどお父様はそれ以上の称号、男爵位を与えられた。こちらは歴とした貴族。これがどういう意味か、分かるわね。そう、二人に説いた。
そしてこの領地の場所はこの国の要でもある。だからそれ自体、誇れることなのだと。
それを聞き終えたマークは感動した表情をしていた。
「父さん、ごめんなさい。こんなにも凄い人が父親で僕は誇らしいです」
マークはすっきりとした表情に変わっていた。
エドガー様はとても照れたようなお顔で静かに、それでも自分からは何も言わずに微笑んでいらした。
食事が終わると二人はまたいつものように賑やかに焼き菓子をつまみながら会話を続けていた。
そんな二人の後ろでは、かつて陛下から剛腕と言われた家令のレイモンドが今では笑顔が似合う、初老の紳士になっていた。
「マーク様は、本当に真っ直ぐにお育ちになられましたねご主人様」
そのすぐ横でわたくしの侍女、アンも微笑んでいる。
「マーガレット様も美しく、優しい女性になられました」
四人は顔を見合わせて笑い合った。
「いつか、この子たちも誰かを愛し、成長していくのね」
「我々はそれを見届けなくてはいけないな」
「はい。そうですね」
そしてまた、わたくしたちは並んで歩き出す。
夫婦として、家族として。




