37話
アンにたしなめられたあと、わたくしは笑いを飲み込みながら大人しく刺繍を刺していた。
その時だった。
「ご主人様、奥様。お客様がいらしております」
屋敷の入口に通されたのはソニア様の父、マイセン辺境伯その人であった。
黒い外套を纏って姿を現した大柄な紳士は、鋭い眼光で室内を一瞥すると、エドガー様とわたくしに丁寧に礼をする。
「エドガー卿、ミリアン嬢。久しぶりですな。お元気そうで何よりです。この度は、娘が世話になっていると聞き、挨拶に伺った」
「こちらこそ、お越しくださり光栄です。その節は大変お世話になり感謝しております」
するといつの間に帰って来たのかしら、ソニア様は急いで後ろから現れ、父の袖をそっと引いた。
「お父様、急に来られるなんて……」
「王都での用が片付いたゆえな。それより」
辺境伯様の視線が、ある一点で止まった。
そこに立っていたのはロイドお兄様。
昨日と違い、少し緊張した面持ちで礼を取る。
「ロイド・クロフォードと申します。ソニア嬢には昨日、王都市場を案内させていただきました」
「……案内、とな。娘を?」
低く、よく響く声。
わたくしの背筋までしゃんと伸びるほどの威圧感。
ソニア様は慌てて言葉をかけた。
「お父様、ロイド様はとても紳士的で、道中も」
「ソニア、黙っていなさい」
一喝。
だがそれは娘を責めるというより、男の評価は、自分の目で見極めるという辺境伯の信念のようだった。
(あら……これは、ロイドお兄様にとって試練だわ)
わたくしはエドガー様と目を合わせる。
彼は小さく肩をすくめ、
『まあ、頑張れと言うしかないね』
という顔をした。
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「ロイド殿。娘を市場に連れて歩いたと聞いたが」
「はい。王都を是非、知りたいとおっしゃったので、案内させていただきました」
「ふむ。何か買い与えたりはしたか?」
「少々、ですが」
「……少々とはどれほどだ」
「花を一輪。それから……柑橘をひとつ」
辺境伯様はわずかに眉を上げた。
豪奢な贈り物ではなく、必要以上に媚びてもいない。
誠実さがにじむ品の選び方だ。
「なるほど。娘の好みを聞いて選んだのか?」
「いえ。彼女が迷っていたものを、ただ、似合うと思ったので」
静寂。
(お兄様……頑張って)
わたくしが息を呑む中、辺境伯様は低く唸り、そして
「……悪くない」
その一言に、室内の空気が一気に和らいだ。
ソニア様はほっと胸を押さえ、
ロイドお兄様は姿勢を崩さぬまま小さく息をついた。
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そんな中、辺境伯様は突然わたくしの横へ歩み寄り、声を潜めて言った。
「ミリアン嬢。娘は……あの男の傍らで幸せになれると思うか?」
その問いは真剣で、どこか父親としての不器用な愛が滲んでいた。
わたくしは迷わず答える。
「はい。あの二人は……とてもお似合いですわ。
ロイドお兄様は誠実で、ソニア様のことを大切にしてくださいます」
辺境伯様はしばらく黙り、
次いで苦笑を浮かべた。
「娘があそこまでの笑顔を見せたのは、いつぶりだったかな。どうにも、親の方がついていけん」
その言葉に、わたくしの胸が温かくなった。
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その時だった。
「おう、マイセン辺境伯! 娘さんのことで話があると聞いたぞ!」
廊下の奥から豪快な笑い声と共に現れたのは、伯父様(ロイド父)。
……案の定、だ。
「うちのロイドが世話をしたんだって? 市場案内くらい朝飯前よ! あいつは気は優しいし腕っぷしも悪くないし、女の扱いも……いや、これは余計か」
「伯父様……!」
わたくしは思わず制止した。
ロイドお兄様も顔を赤くして制するも、伯父様は全く気にしない。
「婿養子でも問題ないぞ! うちは長男が跡を継ぐからな!」
ソニア様
「えっ、あ、あの、そんな急に……!」
ロイド
「父上、失礼ではないですか、早まらないでください!」
辺境伯様
「……ほう?」
ミリアン
(まあ大変!……大人たちが勝手に話を進めているわ)
エドガー様
「にぎやかだね」
アン
「奥様、口元がはしたないです」
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結局、その日の夕方まで、伯父様と辺境伯様はロイドお兄様の人柄や将来について語り合い、
とりあえず『交友を続けることを互いに許可する』という形で落ち着いた。
帰り際、ソニア様はそっとロイドお兄様に近寄り、かすかに微笑む。
「……迷惑をかけてしまいましたわね」
「いや。僕はその……君が嫌でないなら嬉しいのだが……」
その言葉に、ソニア様の頬はゆっくりと薔薇色に染まる。
「嫌なわけ、ありませんわ」
するとロイドお兄様の耳も赤く、二人はいつの間にか見つめ合っていた。
(あらあら……これは本当に近いうちに……)
と、わたくしは胸の内でそっと呟く。
恋がまたひとつ芽吹いた音が、静かに聞こえた気がした。しかしこの恋はまだ始まったばかりです。




