31話
《ミリアン視点》
エドガー様の言葉が胸に染み込むように響き、立っているだけで涙が落ちそうだった。
けれど、わたくしは泣かない。
泣いてしまえば、話すべきことが言えなくなってしまうから。
「エドガー様。わたくし……あの日、とても辛かったのです」
彼の肩がわずかに揺れた。
「貴方の言葉が、貴方の瞳が」
喉が詰まる。
けれど逃げなかった。
「わたくしは……あの日、何もかもあなたに置いていかれたと思いました」
その瞬間、エドガー様は息を呑むと、苦悩を押し殺すように顔を歪めた。
「……すまない、ミリアン。本当に……すまない……」
彼はゆっくりと杖をつきながら、近くの椅子に腰を下ろした。
痛みを堪えているのが、見て分かった。
わたくしは彼の前に座り、彼の手の甲をぎゅっと握りしめた。
「どうして……どうして、一人で抱え込んでしまったのですか」
問いかけると、彼のまつげが震えた。
「私は……戦で足を負い、まともに立つことさえ出来ない。未来がどうなるかも分からない。そんな身体で……君を……幸せにできるはずがないと……」
「そんなこと……!」
言葉が思わず鋭くなる。
「幸せを決めるのは、あなたではありません。
わたくし自身ですわ……!」
エドガー様は、唇を噛んだ。
「……君を不幸にするのだけは……耐えられなかった」
「なら、貴方がわたくしの心を置いていった時……わたくしがどれほど不幸になったか、想像してくださいませ」
沈黙が降りた。
その沈黙は、痛いほど深かった。
《エドガー視点》
ミリアンの涙を堪えた瞳が、まっすぐに自分を捉えていた。
逃げる場所など、どこにもなかった。
「……ミリアン。私は……君を選びたかった。どれほど傷ついても、君の側にいたかった」
声が震えた。
「だが、私は弱かった。怪我を理由に……未来を恐れて……君を遠ざけた。
君を想っていたからこそと……自分に言い訳をしてしまった」
私は顔を伏せた。
「私には……君に釣り合う未来がないと思った。君の大好きなダンスさえ一生踊ってやれない。練習することさえ叶わない」
「釣り合う、釣り合わない……そんなこと……それにダンスなんてそんなもの必要ありません。わたくしに必要なのは……エドガー様だけです」
彼女はひざまずいたまま私の掌を握り直した。
そして、その手を取り、自分の頬に当てた。
温かい。
震えていたはずの手のひらが、彼女の体温で少しずつ落ち着いていく。
「釣り合う未来なんて……最初から考えたことなどありません。わたくしの望みはただ一つ、あなたと同じ時間を歩んでいくことだけですわ」
「……ミリアン……」
彼女の瞳は、本当にまっすぐだった。
その真っ直ぐさが、痛いほど愛しく、怖かった。
「そして……わたくしだけが歩くのではありません。あなたも一緒に……少しずつ前に進んでくださるなら……それで、良いのです」
(一緒に少しずつ、前へ……)
その言葉が胸に刺さる。
できなくなったことを数えるのではなく。
できることを、彼女と共に積み重ねる未来。
そんな未来を期待しても……。
恐る恐る口を開く。
「……私は……君の隣を歩いても良いのだろうか」
「もちろんです」
迷いなく返ってきた。
その一言で、世界の色が変わったように感じた。
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《ミリアン視点》
しばらくして、エドガー様はゆっくりと手を伸ばし、わたくしの頬を両方の掌で優しく包んだ。
その仕草があまりに優しくて、つい目を閉じてしまう。
「ミリアン……ありがとう。君の言葉で……私はようやく、自分の殻を破れそうだ」
「……エドガー様……」
「だが……それでも、私はまだ迷っている。恐ろしくもある。もう一度君を傷つけることが……何より怖い」
彼の本音だった。
わたくしは頬を包んでいる彼の両方の掌の上に静かに自分の掌を重ねた。
「では、一緒に迷いましょう。一緒に怖がりましょう。お互いに寄りかかって、生きていけば良いのですわ」
エドガー様は瞳を見開いた。
そして、ゆっくりと、深く息をついた。
その顔には、ほんの少しだけ迷いが晴れたような色があった。
「ミリアン……私は……君を……」
彼はそっと顔を近づけてきた。
わたくしは瞳を閉じた。
彼の唇がそっとわたくしの唇と重なった。
次の瞬間、ふいに遠くで雷のような音が響いた。
わたくしたちは思わず瞳を開けた。
「……何の音?」
「分からん……だが、ただの風ではなさそうだ」
静かだったこのお屋敷に、不穏な空気が流れた。




