30話
《ミリアン視点》
父に背中を押されたわたくしは、自室へ戻るとすぐに身支度を整えた。
外出用の服に着替えてから、外套を羽織る。
鏡に映る自分の顔は、緊張で少し強張っていた。
(わたくし……本当にエドガー様に会いに行くのね)
胸がどくどくと鳴っている。
けれど、その音はあの日の絶望とは違う。
これは、未来に対する希望の証しだ。
「お嬢様、馬車の準備が整っております」
「ありがとう。では、行きます」
深く息を吸い、屋敷を出た。
向かうのは、あの懐かしい、レイモンドさんや兵士のみなさんもいる、エドガー様のお屋敷。
馬車の中、何度も手を握っては開き、落ち着かない。
(どんな顔を……して会えば良いのかしら)
優しい嘘でわたくしを突き放したあの日。
今も心に影を落としている。
けれど……。
(彼だって、苦しかったはず……)
そう思うと胸が締め付けられる。
涙をこらえ、窓の外に目を向けた。
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《エドガー視点》
杖をついた足が、わずかに震えた。
離れの窓辺、冷たい風がカーテンを揺らす。
医師に言われた通り、毎朝の歩行練習をしていたところだった。
「……はあ……」
数歩歩いただけで汗がにじむ。
戦前の自分なら考えられなかった情けなさ。
(彼女が……ミリアンが、幸せになれるなら……)
そう思い、嘘をついた。
その代償は、自分が思っていた以上に重かった。
昨夜、ロイドが訪ねてきて告げた言葉。
『ミリアン嬢は今も……あなたを想っています』
胸を抉られた。
喜びではなく、痛みだった。
(私は……彼女を傷つけた)
優しい嘘は、ただの臆病だったのかもしれない。
足が不自由な自分には、彼女の未来を背負えないと決めつけて逃げただけなのかもしれない。
だが。
「……ミリアン……」
その名を呼ぶだけで、胸が熱くなる。
そこへレイモンドが軽く扉を叩いた。
「ご主人様。お客様です」
「今は誰にも……」
拒絶の言葉を口にしようとした瞬間。
「ミリアン様でございます」
杖が手から落ちた。
乾いた音が床に響く。
ーーーー
《ミリアン視点》
お屋敷に到着すると、緊張で心臓が痛かった。
レイモンドさんに案内され、懐かしい廊下を進む。
彼は何も言わない。ただ優しい笑顔を向けてくれる。
今のわたくしにはそれだけで充分だった。
(わたくし……逃げないわ)
扉の前で、レイモンドさんが静かに告げた。
「ご主人様、ミリアン様がお見えです」
内側で何かが倒れる音がした。
返事はない。
けれど、わたくしはそっと扉に手をかけた。
そして、扉を開けた。
そこには、驚愕したまま固まるエドガー様がいた。
以前より少し痩せて、けれど瞳の色はあの日のまま。
「……ミリアン……?」
その声を聞いた瞬間、胸がときめいた。
「エドガー様……」
言葉にできない想いが、熱となってこみ上げる。
彼は動けないまま、ただわたくしを見つめていた。
「どうして……ここに……?」
震える声。
わたくしは一歩、彼へ歩み寄った。
「貴方に会いに来ました」
その一言で、彼の表情が、痛いほど揺れた。
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《エドガー視点》
彼女は、来てしまった。
自分が避けたかった真実を確かめるため。
「ミリアン……私は……君を傷つけた。君の未来を……」
声が掠れた。
けれどミリアンは、首を横に振った。
「未来をわたくしが勝手に……失ったと思い込んだだけです」
「……ミリアン……」
「エドガー様。わたくしは、あなたに……会いたかったのです」
その瞳には、迷いが一つもなかった。
拾いあげた杖を握り直した。そして震える足に力を入れる。
(逃げるな……もう二度と)
そう自分に言い聞かせ、私は一歩、彼女の方へと踏み出した。
たった一歩。
それだけなのに、涙が溢れそうになった。
「ミリアン……君に……君に……ずっと会いたかった……」
その言葉は、これまで押し殺してきた全ての想いだった。




