3話
エドガー卿、彼の去った応接間は何故か妙に広く感じられた。
彼のあの真摯な眼差し、揺るぎない自信、そして予想もしなかった《芸術や文学》への言及。
くっ、顔が熱いわ。あの男、平民のくせに、どうしてあんなに堂々としているのよ! それに、『理想の殿方になれるよう努力する覚悟がある』だなんて。
初めて、わたくしの心に微かな火が灯された。それはロマンスの炎というよりも、苛立ちと好奇心が混ざった、小さな焚き火のようなものだった。
彼の言葉は、わたくしがこれまで求めてきた『劇的なロマンス』とは違ったが、彼自身の存在が、何よりも『劇的』だった。
「お嬢様、見事に予想を覆されましたね」
開け放してある扉からアンが、入って来た。
「別に」
「エドガー卿は、お嬢様の言う『面白みのない方』ではなかった、ということです。彼が去った後の、このお嬢様の表情が、すべてを物語っています」
「そんなことはないわ! あれは、規格外の人間を前にした、ただの好奇心よ! わたくしは、あの男を試すための『課題』を考えなくてはならないのよ。彼は『どんな課題でも受ける』と言ったわ。ならば、彼が最も苦手そうな場所で、彼の本性を見極めてやるわ」
わたくしは、一瞬の沈黙の後、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「わたくしの理想の殿方は、わたくしを社交界で最も輝かせられる人であるべきだわ。社交界で戦場育ちの平民が、どれだけ醜態を晒すのか。楽しみだわ」
「と、いうことは、次のお誘いは、社交の場、ということですか?」
アンはすぐに察し、わたくしが頷くと呆れたように溜息をつきながら
「お嬢様、それは少し意地悪が過ぎるのではありませんか?」
「そんなことはないは、彼は課題を待っているのだもの」
わたくしはアンにそう言ってニンマリと笑った。
「お嬢様、そのお顔とても淑女のお顔ではありませんよ」
そう言って、アンはまた溜息をついていた。
それから数日後。
エドガー卿から、次の面会を求める手紙が届いた。簡潔で丁寧な文面は、彼の真面目さを表していたが、最後の一文には『お嬢様からお預かりした課題を心待ちにしております』とあり、わたくしは思わず頬を緩ませた。
そしてわたくしはその手紙をアンに見せ
「ほらね、あちらはわたくしからの課題を待っているのよ」
と、したり顔で言った。
そしてその後、わたくしは彼に一通の舞踏会への招待状を送った。
『是非、エスコート宜しくお願いします』と書いて。
「これを受け取った彼はどんなお顔をなさるのかしら? 楽しみね、アン」
それを聞いたアンは今までで一番長い溜息をついていた。
ーーーー
エドガー卿のお屋敷にて
舞踏会への招待状を受け取った私は、同じ屋敷で暮らす団員を呼び止めた。
「誰か、ダンスの講師を引き受けてくれそうな者を知らないか?」
「ダ、ダンスですか? 団長、熱でもあるんじゃないですか?」
「失敬な。俺、じゃなくて、私は本気だ」
「なんか最近の団長、変わりましたよね。言葉づかいといい、見た目といい……まるでお貴族様みたいですよ」
「そ、それはだな。陛下から爵位を賜った際、これからは貴族としての嗜みを身につけよと仰せつかったからだ」
「本当にそれだけですか?」
「他に何がある。それより、誰か講師はいないのか?」
「講師じゃなくても、ルイスに頼めばいいんじゃないですか? あいつ、騎士爵とはいえ元々は伯爵家の次男ですし。ダンスくらいはお手の物ですよ」
「おお、そうか! ではすぐ呼んでくれ」
「はいはい、只今!」
団員は苦笑いを浮かべながら、鍛錬場へと駆けていった。
ーーーー
しばらくして、ルイスが訓練用の上着姿のまま現れた。
「団長、ダンスを教えてほしいと聞きましたが……冗談ではありませんよね?」
「冗談ではない。舞踏会に招かれたのだ。無様な真似はできん」
「はあ、なるほど。ようやく貴族としての自覚が芽生えたというわけですね」
ルイスは口の端を上げ、わざとらしく手を差し出した。
「では、まずは私が女性役を務めましょう。さあ、団長、どうぞお手を」
「女性役だと? それに此処でやるのか?」
「ええ。善は急げです。それに相手がいなければ踊れませんから」
そう言いながらルイスは軽やかに一歩前へ出た。まるで本物の令嬢のような所作に、私は思わず一歩退いた。
「おい、からかうな。私は真剣だぞ」
「ええ、存じておりますとも。だからこそ、真剣に楽しみながらお教えいたします」
「なんだその理屈は!」
「理屈ではなく、これは学びです」
ルイスは私の手を取り、姿勢を正させた。
肩を落とし、背を伸ばし、顎を引く。まるで剣術の構えを直されているような気分だった。
「団長、ダンスは戦と同じです。呼吸を合わせ、相手の動きを読む。そして、決して足を踏まない」
「なるほど……いや待て、最後のだけやけに現実的だな」
「経験則です」
そうして、ぎこちないながらも一曲分のステップを終えた頃には、私はすでに額に汗を滲ませていた。
ルイスは相変わらず涼しい顔で、手袋を外しながら
「剣の腕は一流でも、足さばきはまだまだですね、団長」
「くっ……次は踏まん。次こそは完璧に踊ってみせる」
「その意気です。ああ、そうだ。舞踏会当日、相手役はどなたに?」
「……い、いや、それはまだ決まっていない」
「ほう? では、練習の成果を披露する相手は未定と」
彼のからかい混じりの笑みに、私は肩をすくめるしかなかった。
数日後、夜の鍛錬場に蝋燭の灯が揺れていた。
ルイスと私は相も変わらずダンスの特訓を続けていたが、いくら足を運んでも、どうにも形にならない。
「団長、リズムはだいぶ良くなりました。ですが表情が堅すぎます」
「笑えと言うのか?」
「ええ、貴族の舞踏会でしかめっ面はご法度ですよ。お相手が逃げ出します」
「む……」
言われて無理に口角を上げてみるが、ルイスが肩を震わせて笑う。
「やめろ。笑うなら出て行け」
「いえいえ、これは失礼しました」
そう言いながらも彼は笑ったままだ。
踊り終えた後、私は深く息をつき、窓の外の月を見上げた。
月明かりが敷石を照らし、まるで冷たい舞台のように見える。
「このぶんだと、来週の舞踏会には間に合いそうもないな」
「おや、珍しく弱気なお言葉ですね」
「事実を言ったまでだ。あれではミリアン嬢、いやお嬢様の足を踏んでしまう未来しか見えん」
その名を出した途端、ルイスの目が面白そうに細まった。
「なるほど、ようやく核心に触れましたね」
「何がだ」
「ダンスを習う理由です。てっきり陛下の命令かと思っていましたが、違いましたか」
「馬鹿を言うな。あの方は知り合いの娘さんだ。人として礼儀をもって接したいだけだ」
「それを好意と言うんですよ、団長」
「うるさい」
短く言い捨てて、私は椅子に腰を下ろした。
剣なら簡単なんだがな、ダンスとはどうしてこうも難しいのか。
「ルイス、頼みがある」
「何なりと」
「今回の舞踏会、私の代わりに彼女の相手をしてくれないか」
「か、代わりですか?」
「ああ。彼女からの招待を無下にするわけにはいかんが、下手なダンスであの方の面目を潰すわけにもいかない。お前なら、堂々と務めを果たせるだろう」
ルイスはしばし黙し、やがて小さく息を吐いた。
「いいでしょう。ですが団長、私が踊るのは代役としてではありません」
「どういう意味だ」
「団長が、次こそは自ら踊るための布石としてです。舞踏会は一度きりではありませんからね」
彼は微笑みながら軽く頭を下げた。
「だけど団長、ダンスはまだまだですがその他の所作は完璧です! まるで元から貴族の生まれのようですよ」
「まあ、それは陛下にお願いして称号を賜った時に講師をつけてもらい特訓したからな」
「あー、道理で」
「では、舞踏会当日は宜しく頼む」
「お任せください」
「恩に着る。」
「お気になさらず。どうせ私も退屈していましたから」
そう言ってルイスは踵を返し、扉へと向かった。
その背を見送りながら、私は小さく呟いた。
「次こそは、この手で」
月明かりが窓辺を照らし、床に淡い影を落としていた。
踊ることは叶わずとも、心の中ではもう彼女の手を取っていた。




