29話
《父侯爵視点》
ロイドが去った後、部屋には静寂だけが残った。
机の引き出しに触れた指先が、わずかに震える。
そこには、ずっと隠してきた一通の手紙がしまわれていた。
数か月前、ミリアンが屋敷に戻ってきてから数日後、エドガー卿から届いた手紙。
『私はミリアンには、別の女性を愛してしまったと伝えました。その女性とは、戦地で一時期世話になっていた辺境伯の娘でございます。しかし、それは嘘でございます。ミリアンの性格をよくご存じの閣下であれば、きっとお察しくださるでしょう。
彼女は夫だからという理由で、自らの人生を投げ捨てる人です。それを避けるためには、彼女に憎まれ、見限られる以外に、道がありませんでした』
そういう内容の手紙だった。
(私は、父としてではなく、侯爵として判断してしまったのかもしれんな)
戦地から戻り、足が不自由になったエドガー卿。
未来の保証が見えない男より、娘には別の幸福があるのではないか。そう思ってしまった。
情ではなく、理で選んでしまったのかもしれない。
その結果が、今のミリアンの苦しみだ。
(なんと浅はかな……)
私はそっと立ち上がり、手紙を手にした。
扉の向こうには、娘がいる。
悩み、迷い、そして、本当はまだ、あの男を想っている娘が。
もう、逃げる訳にはいかない。
私は静かに応接室の扉を開けた。
⸻
《ミリアン視点》
紅茶はすっかり冷めていた。
けれど手放せなかった。何かを握っていないと、心まで崩れてしまいそうで。
「ミリアン」
父の声に顔を上げる。
その手には、一通の手紙が握られていた。
「お父様……?」
父はわたくしの隣に座り、深く息を吸った。
「ミリアン。まず最初に……謝りたい、すまなかった」
「え……?」
父が、わたくしに謝るなんて。
「お前がエドガー卿から聞かされたあの言葉……」
胸が痛む。あの日の記憶が、鮮明に蘇る。
『ミリアン。私は……貴女と未来を一緒に歩くことは出来ない。私はソニアを愛してしまった』
そう告げられた瞬間の痛みは、今も残っている。
けれど父は静かに首を振った。
「ミリアン。あれは……嘘だった」
「…………え……?」
世界が、一瞬止まった。
父は震える手で手紙を差し出した。
「戦地から戻った彼は、不自由な自分の体ではお前を幸せにできぬと、そう思い込んだのだ。お前を自由にするために、わざと嘘をついたと……この手紙に書いてある」
手が震える。
文字が滲む。
「わたくしを……自由に……? わたくしのために……そんな……」
わたくしは愚かだ。
彼の冷たい言葉をそのまま信じて、傷ついて、逃げ帰ってきた。本来の彼を知るならそんなこと言うはずはないのに。
でも……。
「どうして……お父様、今まで……?」
問いかける声が震える。
父はわたくしの手を取った。
その掌は、とても温かかった。
「私は……父として、お前の幸せを願った。
だが同時に、足が不自由になった彼と共に歩む未来を、恐れたのだ。そして……その恐れゆえに、この手紙を、お前に見せなかった」
父は苦しげに眉を寄せた。
「ミリアン。許してくれとは言わん。だが……真実を知らぬまま、お前が他の誰かを選ぶことだけは……どうしても耐えられなかった」
わたくしの目から、ぽろりと涙がこぼれた。
父が悪いわけではない。
そう、誰も悪くはない。
ただ、皆がわたくしを思い、心配してくれただけ……。
それにわたくし自身も彼を信じきれなかったから、あの冷たい言葉を受け入れてしまった。
父は苦しげな顔で続けた。
「エドガー卿は、同じ趣旨の手紙を陛下にも送られたそうだ。陛下はその手紙をお読みになり、静かに涙を流されたと兄上から聞かされた」
「陛下まで……。お父様、わたくし、もう一度だけ……」
涙を拭い、ゆっくりと顔を上げた。
「……彼に会いに行っても、よろしいでしょうか」
父は驚いたように目を見開き、すぐに優しく微笑んだ。
「もちろんだ。ミリアン。お前の心のままに進みなさい。父は、どこまでも味方だ」
その言葉に、胸の奥がふっと明るくなった気がした。
今度こそ彼の元へ……。




