24話
ミリアンが去った翌朝、私はソニア嬢を呼び、静かに頭を下げた。
「……ソニア嬢。君には感謝しかない。私の身を案じ、励まし、支えてくれた。そして私の頼みとはいえ、ミリアンに嘘までついてくれた」
ソニア嬢は寂しげに微笑んだ。
「……やはり、あなたが見ているのはミリアン様だけなのですね」
「すまない。私はこれから先も、彼女の幸せを陰から見守ると決めている。
私のそばにいても、君を不幸にするだけだ。どうか、君には新たな道を歩んでほしい」
儚い沈黙の後、ソニア嬢は深く頭を下げ、涙をこぼした。
「今までありがとうございました。ほんの少し、夢を見ることが出来ました……どうか、お元気で、エドガー様」
「ありがとう。さようなら、ソニア嬢」
それが彼女との最後の会話になった。
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レイモンドと共に屋敷に戻ると、彼は着くなり、帳簿を私の目の前に置き、今までの報告を言葉を選びながら始めた。
「ご主人様、奥、いえミリアン様のことですが」
胸がざわついた。
「ミリアンが……何か?」
レイモンドは、ひとつ息を吸って言った。
「ご主人様が戦地におられた間、領地に何度も足を運ばれて……。特産物を薬草に切り替える説得や農地の視察も、ご自分の足で。
領民のため、商会にも掛け合い、高価な肥料を独自の伝手で手に入れてくださったのです」
「……ミリアンが?」
「彼女が労を惜しまず努力してくれたおかげで、収穫量は見違えるほど増えました。領民たちは口々に言っています。
『領主さまが奥様と結婚なさったおかげで冬を越せた』と」
胸が強く締めつけられた。
(そんなこと……一言も言わずに)
レイモンドの報告はそこで終わらなかった。
「ご主人様……申し上げにくいのですが、彼女は何度も倒れそうになりながら、領民のために働いていました。
それを知っていたのに……私もお止め出来なかった。あの方は誇り高く、弱みを見せない方だから」
その後訪れた村でも、領民たちは皆、同じことを口にした。
「奥様は、裸足で畑に入って、土について詳しく教えてくださった」
「足を痛めていらっしゃったのに、子供に薬まで届けてくださった」
「わしらの収入を倍にしてくれた」
聞けば聞くほど、胸が軋んだ。
(私が……知らぬ間に、どれほど支えられていた? どれほど彼女は、私を想ってくれていた?)
領地を救ったのは、彼女だった。
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屋敷に戻った途端、ミリアンの気配がどこにもないことが、息が詰まるほどに苦しかった。
書斎の棚には、彼女が直してくれた書類がそのまま積まれていた。
椅子に触れるだけで、思い出す。
彼女が笑った日も、怒った日も、ふと見せた照れ隠しの横顔も。
(どうしたって、忘れられるわけがない)
私は彼女の幸せを願って、手放したはずだった。
だが、領地の誰もが語るミリアンの姿は、どれも、彼女が笑顔で生き生きと輝く姿だった。
(もしかして君は幸せを感じてくれていたのか?)
知れば知るほど、胸を切り裂かれるようだ。
結局、私はそんな彼女を傷つけた。
彼女のプライドさえも。
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その痛みを抱えたまま、自分を変えるために始めたことがひとつある。
(歩く。必ず歩くようになってみせる)
医師に勧められた訓練を、私は毎朝欠かさず行った。
杖を握り、少し体を持ち上げるだけで汗が噴き出す。
足を一歩前へ出すたびに、神経が焼けるような痛みが走った。
「団長、今日は無理をなさらず……」
「黙って見ていてくれ。……これは、私の戦だ」
倒れても、痙攣が起きても、歯を食いしばって続けた。
壁に手をつきながら、ほんの半歩前へ進めた日だってある。
だが三ヶ月が過ぎたある日、医師は驚いたように言った。
「エドガー卿……自力で、三歩……歩かれましたぞ」
「……そう、だな」
誰よりも驚いたのは私自身だった。
できるはずのないことを、ゆっくり、確かに私は成し遂げていた。
(ミリアン……君が残してくれた領地を守るために。もう一度、私は歩く)
ミリアンを忘れることはできない。
だが、立ち止まることも、もう許されない。
彼女が守った領地を、
彼女が信じた未来を、
今度は私が背負うのだ。
誰のためでもない、ただミリアンが残してくれた過去への感謝のために。




