23話
馬車の揺れは、まるでわたくしの空洞になった心を嘲笑うようだった。
あの屋敷を出る時、ソニア様は泣きながら、わたくしの手を取って言った。
「ミリアン様……本当に、ごめんなさい」
「……謝らないで。あなたは悪くはないわ」
わたくしも笑った。
嘘くさい笑顔で。
でも、それしか出来なかった。
エドガー様への憎しみはなく、ただ愛が残ったまま。
そうだわ、わたくしはずっと前から彼のことを愛していたのだわ。今更遅すぎる。責めて、もう少し早く素直に告げていれば……。何か変わっていたのかも知れない。
だけど今、彼が選んだ未来に、わたくしは居なかった。
『……さようなら、エドガー様』
小さく呟いた声は、馬車の音にあっけなく掻き消された。
馬車が領地の山道を越え、懐かしい門が見えてきた頃には、わたくしの心はすでに冷たく凍りついていた。
怒りや、悲しみ、喜びすら、なにも湧かない。
感情というものが、すっかり消えてしまったみたいだわ。
ただ、心のどこかがぽっかりと穴の空いたまま。
門番はわたくしの姿を見るなり目を丸くして叫ぶ。
「お、お嬢様……! 突然お戻りとは……」
「ただいま戻りました。お父様はいらして?」
「旦那様は執務室に……すぐにお知らせいたします」
メイド長が慌てて駆けつけ、わたくしの荷を受け取る。
アンにはエドガー様のお屋敷に手紙を送っておいたのできっと今日中にはこちらに戻って来るはずだわ。
廊下を歩くと、懐かしい絨毯が靴音を吸い込む。
(ここに帰ってくるのは……結婚式以来ね)
ーーーー
執務室の扉をノックすると、すぐに父の低い声が返ってきた。
「入りなさい」
扉を開けた瞬間、お父様は、書類を放り出し、驚いたように立ち上がった。
「ミリアン……? 本当にミリアンなのか」
「ただいま戻りました、お父様」
わたくしが礼をすると、父はすぐにわたくしの腕を取り、その顔を覗き込んだ。
「どうしたのだ。やつれて……何があった、ミリアン」
心配を向けられた途端、胸の奥がぎゅっと疼く。
けれど、泣くことはできなかった。
「……婚姻は、無効となりましたの」
父の顔が一瞬凍りついた。
「……あのエドガー卿と、か?」
「はい。お互いのため、と……そういうことになりました」
わたくしは嘘をついた。
本当は、お互いのためなんてきれいな理由ではない。
エドガー様には新しい、想い人が出来ただけ。
父はしばらく黙り込んでから、静かに問いかけた。
「……ミリアン。本当は何があったのだ?」
心臓が痛く跳ねた。
でも、わたくしはすぐに答えられなかった。
(本当は……?
いいえ、言えないわ。だって……)
ここで事実を言えば、わたくしは崩れ落ちてしまう。
「……いえ。わたくしは……ここで暮らします」
父は深く息を吐き、わたくしをそっと抱きしめた。
「帰ってきてくれてよかった。お前が傷ついたのなら、それを癒すのは家族の役目だ」
初めて、その温かさで少しだけ胸が締めつけられ、涙がにじんだ。その日、お父様はそれ以上尋ねてはこなかった。
ーーーー
それからの日々は、穏やかではあるが、どこか色を失っていた。
朝はアンに起こされ、食堂へ行く。
以前は窓から差し込む光を楽しみながら、大好きな恋愛小説を読んではアンと笑い合っていた。だけど今はアンもわたくしに対して腫れ物を触るように接している。
庭の散歩も、花の香りも、どれも心に届かない。
「お嬢様、お加減はいかがですか」
アンが心配そうに声をかける。
「問題ないわ」
本当に問題はなかった。
ただ、心が動かない、感じないだけ。
夜になれば一人で灯りを落とし、静寂の中で目を閉じる。
そうすると、どうしても、彼の最後の横顔が浮かび上がる。
わたくしの前で、痛みに堪えながら必死に微笑んだあの顔。
ソニア様の後ろで、わたくしの目を見ずに呟いたあの声。
『婚姻無効を……受け入れてほしい』
あの時の言葉が、何度も胸をえぐる。
でも、それでも、わたくしは泣けなかった。
涙をこぼしたら、本当に終わってしまう気がして。
ーーーー
《父の迷い》
ミリアンが実家に戻って三ヶ月。
彼女は美しさも気高さも変わらぬままだった。しかし、笑顔だけが戻らなかった。
ミリアンが帰ってから程なくして届いたエドガー卿からの手紙。
彼もまた苦しんでいるのだろう。
二人とも相手をこれほど想い合っているのだから素直になればいいのにと、本当に不器用な似た者同士だと思った。
ただ、彼の気持ちは同じ男として理解は出来る。確かにミリアンを想えば、手放すことがミリアンのためなのだろう。
しかし、笑顔を忘れた彼女を見ても彼は同じように思えるのだろうか。
では私は父として何を望む? 一生歩くこともできない男と……。
父として或いは男として、いいや、ミリアンの本当の幸せは?
私自身もまだ、答えが出せないままだ。
私は医師を呼び寄せた。
「娘は……心が疲れている」
医師はうなずき、静養が必要だと診断を下した。
私は娘の前に座り、優しく言った。
「ミリアン。好きなように過ごしなさい。
読書でも、乗馬でも、散歩でも。
ここはお前の家だ。誰にも遠慮する必要はない」
「……ありがとう、お父様」
娘はそう答えたが、心はまだ動かない。このまま時が過ぎれば元に戻るのだろうか? いつかまた前のように笑顔を取り戻す日は訪れるのだろうか。
ただ不安な日々だけが過ぎて行く。




