21話
《ソニア視点》
夜明け前の廊下は、冷たく静かだった。
わたくしは、呼ばれて向かったエドガー卿の部屋の扉を前にして、胸の鼓動が止まりそうになっていた。
侍女に合図し、部屋に入る。
薄明かりの中、まだ完全に目覚めぬ表情で、エドガー卿が私を見た。
「……呼びつけてしまいすまない、ソニア嬢」
「いいえ……。でも、こんな時間に……どうされたのですか」
エドガー卿は、しばし言葉を探すように沈黙した。
その沈黙が、すでに胸を痛めつけてくる。
「私は……妻を、ミリアンを、自由にしたい」
心臓が、きゅっと縮んだ。
わたくしの想いなど、決して口にするつもりはなかった。
彼には妻がいて、わたくしの恋など……ただの片想いで良かった。
「……ソニア嬢。頼みがある」
真剣で、そしてどこか壊れそうな声音だった。
「ミリアンのために……私がソニア嬢に心を寄せたと、そう信じさせたい」
「……え……?」
「私自身の言葉だけでは、彼女は嘘を見抜く。
だから……一芝居、手を貸してほしい。私に協力してほしい」
私は息を呑んだ。
彼は、わたくしの気持ちにどこまで気づいているのだろう。
それでも、利用するのではなく、協力をと。
「……ソニア嬢を巻き込みたくはない。だが……頼めるのは、あなただけなんだ」
エドガー卿は頭を下げた。
歩くことも叶わぬ身体で、痛みに耐えながら。
「彼女がこれから自由になれるように。私は……彼女の未来を奪いたくはない」
その声に、涙が落ちた。
「……わたくしで、お役に立てるのであれば。ミリアン様のため、そして……あなたのために」
こうして、わたくしたちは優しい嘘の共犯者となった。
わたくしは胸の内にある恋心に、そっと鍵をかけた。
《ミリアン視点》
エドガー様がもう一度、目を覚まされたのは、翌朝だった。
医師は静かに、しかし確実に残酷な宣告を下した。
『……もう歩くことは難しいでしょう』と。
わたくしは胸の奥で何かが崩れる音を聞いた。
彼がどれほど努力家かを知っている。
どれだけ誇り高く、わたくしに恥じぬ夫でありたいと願っていたかも。
『ミリアン。もう……ダンスも、エスコートも、してやれそうにない』
そんな言葉を口にするなんて、どれほど辛く悲しかったことか。
『そんなこと……! 出来なくてもいいのです。あなたが生きていてくだされば』
そう、わたくしは伝えたのに、貴方は苦しげに笑っていましたね。そして
『ミリアン。私は……貴女と未来を一緒に歩くことは出来ない』
冷たい言葉なのに何故か、温かく感じた。
わたくしはエドガー様との悲しいやり取りを思い出していた。
今、わたくしはエドガー様に呼ばれて彼のベッドの横にある椅子に座り、彼の言葉を待っていた。後ろにはレイモンドさんもいる。
その時、扉が開き、辺境伯家の娘ソニア様が入ってきた。
なぜか、彼女の顔には緊張と……覚悟のようなものが浮かんでいた。
「ミリアン様……お話があります」
胸がざわつく。
ソニア様はそっとエドガー様を見る。
彼は目を伏せ……頷いた。
「ミリアン。私は……ソニア嬢を愛してしまった」
「……え……?」
その瞬間、全身から血の気が引いた。
ソニア様は泣きながらも言う。
「わたくし……ただ、エドガー様のお側にいるだけでいいと思っていました。でも、それだけでは……。奥様がいらっしゃるのも聞いていました。でも自分の気持ちを止められなくて、愛してはいけないと分かっていても……ごめんなさい」
嘘……?
でも、わたくしには嘘だと断言できなかった。
二人の間の空気には、わたくしの知らない時間があったように思えたから。
(……ああ。わたくし、負けてしまったのかしら? 敗北とは今までわたくしが知らない感情だった)
胸にぽっかり穴があく。
エドガー様は静かに言った。
「ミリアン。婚姻無効を……受け入れてほしい」
一瞬、陛下にお願いした王命を後悔した。
でも、涙は出なかった。いいえ、堪えた。
代わりに、胸が締めつけられすぎて息ができなかった。
本当にこれで終わってしまうの? こんなにも別れとは簡単なものなの? 今までのわたくしの思いはなんだったのかしら。
自問自答した。
でも、最後くらい、貴族の娘らしく。
夫として過ごした方への意地として。
「……わかりました。ソニア様……どうか、エドガー様をよろしくお願いいたします」
そう口にした瞬間、ソニア様は肩を震わせた。
エドガー様は顔を背け、レイモンドさんは悔し涙をこらえていたように見えた。
「そうよね、レイモンドさんとわたくしは、今日までエドガー様の為に領地経営を、共に協力し合った家族のようでしたものね」
わたくしは心の中で、レイモンドさんに感謝を伝え、さようなら、どうぞエドガー様をこれからも宜しくお願いしますと呟いていた。
わたくしは、静かに礼をして部屋を出た。
《レイモンド視点》
奥様とソニア様の姿が消えると同時に、私はベッドの側に膝をついた。
「……ご主人様。これでよろしかったのですか」
「……ああ」
その声は、ただ、ただ、痛々しかった。
「ソニア様は……本当に、協力してくださっただけなのですね」
「彼女には……悪いことをした。私の勝手な願いや、弱さも、全部受け止めて……ミリアンのために嘘をついてくれた」
拳を握る。
「ご主人様……これでは、あまりに奥様が……」
「レイモンド」
ご主人様は笑おうとしたが、失敗し、ただ涙が一筋落ちた。
「私は……彼女を……愛している。だからこそ……手放すしかなかった」
その言葉が、胸に突き刺さった。
「……わたくしも、一緒にこの嘘を背負います。
ご主人様のためではなく、奥様のために」
ご主人様は小さく……ありがとう、と言った。
その背中があまりに小さく見えた。




