2話
伯父様が嵐のように去って行った後、わたくしは力なくソファに沈み込んだ。
『陛下からのお願いだなんて、そんな大層な…』
カップに残った紅茶を飲み干しても、やはり味がわからない。心臓が落ち着かないせいで、舌まで麻痺してしまったようだわ。《理想の王子様》とのロマンスを夢見てきたわたくしに、まさかこんな現実的な、しかも政略めいた話が降ってかかってくるなんて。
『エドガー・ウィルソン卿……』
もう一度、その名前を口にする。北方戦線の英雄。王宮騎士団長。平民出身の男爵。
『まったく、陛下も伯父様も余計なお世話だわ』
わたくしはプイと顔を横に向けた。
「縁談だなんて、わたくしが望んでいるのは、もっとこう……劇的な出会いからの、情熱的な恋なのに。顔も知らない、しかも平民出の方と、形式的に会うなんて、時間の無駄だわ」
そう、わたくしは従わない。絶対にごめんだわ。
「お嬢様、よろしいのですか」
戸口に立っていたアンが、心配そうな声で尋ねてきた。
「でも公爵様は『誠実な青年』だと、心から信頼されているようでしたよ」
「ふん。伯父様にとっては息子の命の恩人だもの。それに元々武骨な男性が好きだからそう言うだけよ。どうせ、騎士道一筋の、面白みのない方に決まっているわ。わたくしの心を動かせるような、ロマンスとはかけ離れた方に違いないわ」
わたくしは、自分の理想の高さと、侯爵家の令嬢としての義務の間で揺れる心を隠すように、強く言い切った。
「とにかく、明日よ。明日、会ってみて、彼のことをきっちり見極めてあげる。わたくしの理想の相手ではないと分かったら、容赦なくお断りしてやるんだから。アン、明日はわたくしを完璧な淑女にしてちょうだい」
「かしこまりました。では、明日『近寄りがたい完璧な侯爵令嬢』を演出いたしましょう。
そのためのドレスを今から選ばなくてはいけませんね。エドガー卿に、侯爵家の娘の気高さとお嬢様の美しさを思い知らせて差し上げましょう」
アンが悪戯っぽく笑った。
「なっ! 別に、彼のために美しくなるわけではないわ! ただ、侯爵家の娘としての体面を保つだけよ!」
そんなわたくしに今度はわざとらしい無邪気な笑みを向ける。この顔だ。わたくしが反論すればするほど楽しそうにする、この笑顔。
こうなるわたくしはいつも勝てない。
わたくしは必死で抗議したが、アンは満面の笑みで答えた。
「承知しました。どうぞお任せください」
「ちょっ、アン、その顔は何? ほどほどよ、ほどほどでいいのだからね」
(まったく、明日会うのはわたくしなのに、どうしてアンはこうも、楽しそうなのかしら)
ーーーー
翌日。
わたくしは、完璧な表情を鏡の前で作った。アンが選んだアイボリーのドレスは、冷たい美しさを演出している。
その上メイクは上品なではあるが、冷ややかなまでに端麗な仕上げだった。
(絶対に動揺を見せないこと。彼は北方戦線の英雄かもしれないけど、ここはわたくしのお屋敷である侯爵家。ここではわたくしの方が立場が上よ)
アンが応接間にエドガー卿が到着したことを告げた後、わたくしはわざと五分待たせてから、応接間の扉を開けた。
わたくしが入室すると、エドガー卿は立ち上がり、深く頭を下げている。彼は噂通り、誠実そうな方に見えた。それに驚くほど美形で紳士然としている。
この方が本当に元平民だったなんて誰も信じないでしょう。
わたくしは部屋の中央で一旦止まり、まるで彼の存在に今気づいたかのように、上から下へ一瞥した。
(冷ややかに)
「エドガー・ウィルソン卿、ようこそ我が屋敷にお越しいただきました。けれども、わたくし、このような形式上のお見合いみたいなまね、気が進みませんの」
彼は真摯な眼差しで、まっすぐわたくしを見つめ返す。
「承知しております、お嬢様。しかし、私はこの機会を、心から願っておりました。陛下へのお願いも、他ならぬ、私の個人的な望みゆえでございます」
(この男、初対面の挨拶で『個人的な望み』だなんて口にして! こんなに正面から来られると、わたくしの高飛車な態度が崩されそうだわ!)
わたくしは、ソファに腰かけず、立ったまま彼を見下ろすように続けた。
「個人的な望み、ですか。では、伺いますが。辺境の戦場で戦いばかりの貴方様と、わたくしのような社交界の人間とで、一体どんな会話が成立するとお思いですの?」
彼は少しも怯まず
「その通り、私はお嬢様のような華やかな世界を知りませんし、苦手ですが、お嬢様の知性と教養を、心から尊敬しております。私は、辺境で命がけで守り抜いたこの国の未来について語りたい。そして、その未来を支える芸術や文学について、お嬢様から教えていただきたいと願っております」
《芸術や文学》という予想外の言葉に、わたくしの心が微かに揺れた。しかし、すぐに高慢な態度を敢えて取った。
(鼻で笑うように)
「まあ。文学ですか。わたくし、恋愛小説を好みましてよ。騎士道物語など、野蛮で退屈なものには、興味がございません。貴方様は、『理想の王子様』の類では、決してないでしょう?」
わたくしは、言ってやったわ! と、心でガッツポーズを取った。これで彼は、わたくしの理想が高いことを理解したはず。……でも、彼の瞳は、どうしてこんなにまっすぐなのよ。
(一瞬、口元に笑みを浮かべ)
「お言葉、しかと承知いたしました。私が『理想の王子様』ではないことは、重々承知しております。ですが、私は、『理想の殿方』になれるよう、努力する覚悟がございます」
(彼の『殿方』という言葉の響きに、顔が一気に熱くなる)
「な、何を! そのように一方的に宣言されても、わたくしは困りますわ。わたくしは、貴方様を試しているのですから」
わたくしは、顔の熱を隠すように、すぐにテーブルの上の冷めた紅茶に手を伸ばした。
「取り敢えず、お茶でも召し上がりましょうか。わたくしも少し喉が渇きましたわ」
エドガー卿は、わたくしから投げかけられた『試している』という言葉に対し、どのように反応をするのかしら?
「ありがとうございます。お心遣いに感謝いたします。では、遠慮なく頂きます。お嬢様が私を『試してくださる』というのなら、チャンスを頂けたと思い、努力いたします」
彼はそこで少しだけ微笑み、続けた。
「私は、戦場では決して逃げませんでした。なので一度決めたことからは、決して退きません。お嬢様がご満足くださるまで、どんな課題でも、誠心誠意お受けいたします」
彼の言葉と真摯な態度に、わたくしはさらに動揺した。
冷めた紅茶を一口飲み、咳払いをする。
「な、なんですのその自信は! 課題ですって? で、では、この次までに考えておきますわ」
「ありがとうございます。次と言うお言葉をお聞きできて、嬉しく思います。では次にお会いできること、楽しみにしております」
彼はゆっくりと立ち上がり、涼しい顔で去って行った。残ったわたくしは大きな溜息をついていた。
そんなわたくしにアンは、驚くほど好意的な表情で言う。
「お嬢様、エドガー卿は公爵様がおっしゃっていた通りの誠実そうな方でしたね。それにお嬢様の言葉にもまったく怯まず、堂々としていました」
わたくしは思わず同意しそうになるが、それを隠すように呟いた。
「あーこれほど疲れたのはいつぶりかしら? まったく思い出せないわ」と。




