15話
エドガー様が出立して数日。屋敷から兵士たちの喧騒が消えた後の静けさは、わたくしの心をとても寂しくさせた。しかし、立ち止まっている暇はない。
「さあ、レイモンドさん、わたくしたちの戦いはこれからですわ」
わたくしは、家令のレイモンドさんと向かい合い、朝一番で執務を再開した。
アンの淹れてくれた紅茶の湯気が、冷たい空気をわずかに温める。
「お嬢、いえ奥様、あまり無理はなさらないで下くださいね」
「大丈夫よ、アン。今頃エドガー様もわたくしたちの為に頑張ってくださっているのだから、この程度何でもないわ」
黙々と作業をしているレイモンドさんが話しかける。
「奥様。ご主人様からの指示書と、奥様が新たに作成された経営計画書、照らし合わせる限り完璧でございます」
レイモンドさんは、書類の束を前に、いつもの冷静な声で言った。
「あとは、計画を実行に移すだけですが……」
レイモンドさんは言葉を区切った。彼の視線が、わたくしの背後にある、エドガー様の空席へと向けられる。
「奥様には、ご主人様がお戻りになるまでの間、領主代行として指揮を執っていただくことになります。領民は、奥様が元侯爵家のご令嬢であることを知っておりますが、平民出身のご主人様を慕う者も多い。特に、特産品にする為の薬草への転換に不安を持つ者たちを、どのようにまとめられるかが課題となります」
「ご心配には及びませんわ、レイモンドさん。前回の視察の際に、エドガー様は領民たちに薬草栽培への転換を熱く語っていましたわ」
わたくしは、毅然とした笑顔を浮かべた。
「それにわたくしは、机上の知識だけで動く人間ではありません。この領地を守るためでしたらわたくしのあらゆる人脈を駆使してでも必ず目的を達成して見せますわ」
わたくしは固い決意を胸に抱く。
最初に着手するのは、特産品にする薬草栽培への切り替えだ。これは利益は大きいが、栽培に手間がかかり、領民の理解を得るのが難しい事業だった。しかしある程度の根回しは前回エドガー様がしてくれた。だったら後はわたくしが頑張って納得させるしかないわ。
わたくしは、ドレスを脱ぎ、動きやすい普段使いの服に着替えると、レイモンドさんと共に村々を回った。
「奥様がいらして、何をされるのかと思っていたが……まさか、泥だらけになって畑にいるとは」
村長の一人は戸惑いを隠せない。
「ご覧になって? この土壌を」
わたくしは、屈託なく畑の泥を手に取り、その感触を確かめた。
「ここの土は、水捌けが良すぎるせいで、普通の里芋を作っても収穫量が頭打ちになってしまいます。ですが、この土壌はある条件を満たせば、特定の薬草にとって最高の土となりますのよ。ただ、それなりの肥料は必要てす。その肥料は責任を持って用意し、財源もわたくしが確保することお約束致します」
わたくしは、専門知識を、論理的かつ情熱的に、分かりやすい言葉で説いた。そして最後に、一番重要なことを伝えた。
「この事業が成功すれば、エドガー様は戦場からお戻りになった時、領民が豊かに暮らすこの土地を何より、誇りとして感じ取ることができます。わたくしたちは今、夫のために、そして領民の未来のために戦っているのです」
【侯爵家の高貴な元ご令嬢が、夫のため、領民の生活のために、泥にまみれて奮闘する姿は、領民たちの心を動かした】
《夫のために》
その言葉は、平民出身の領主様を心から慕う彼らに、最も響いた。
レイモンドさんは、わたくしの後ろで静かに頷きながら、必要な手配を完璧に進めた。
そして、エドガー様の妻であるわたくしを領主代行として支える家令の姿は、領民に安心感を与えた。
その後、わたくしはお父様と伯父様に手紙を認めた。その内容は薬草栽培の為の肥料の調達だった。
『必ずや、聞き届けてくれるはず。この結婚を勧めた二人なのだから』
わたくしはアンに向かって、ニンマリとした笑顔を作った。
「お嬢、奥様、その笑顔怖いです」
「アン、いい加減呼び間違えないでちょうだい」
今度は柔らかく微笑んだ。
昼間は領地を駆け回り、夜はエドガー様の執務室で報告書を作成する。毎日が戦いだった。
ある晩、仕事を終え、ふと窓の外を見た。空には満月が煌々と輝いている。
アンはいつものように紅茶を淹れながら、ひとりごとのように呟く。
「旦那様はいつお戻りになられるのでしょか」
わたくしは、エドガー様がいつも座っていた大きな椅子に、そっと腰を下ろした。革張りの冷たい椅子には、もう彼の温もりは残っていない。
机の上には、彼が戦線へ向かう直前に走り書きした、わたくしへの手紙が置かれていた。
〈ミリアン。君になら、この領地を任せられる。君の言う通り、二人でなら無敵だ。必ず無事に帰る〉
短い言葉だったが、その力強さに胸が熱くなる。
『わたくしは、決して弱音を吐きませんわ、エドガー様』
わたくしは、戦場へ向かう夫と同じように、一人静かに誓いを立てた。
『あなたが、ここに帰って来た時に、この領地を、誰にも文句のつけようのない、豊かな土地にして見せしますわ』
その誓いの言葉は、窓から差し込む月の光に包まれ、夜の帳の中へと静かに溶けていった。
わたくしは、遠い戦場にいる夫の無事を祈りながら、明日からの戦いに備えた。




