13話
夕陽が畑の端を黄金色に照らし始めた頃、視察も終盤に差し掛かっていた。
エドガー様は、農夫たちが遠くからわたくしたちに手を振るのを見て、どこか安心したように息を吐いた。
「……正直に言うと、ミリアンが来てくれるまで不安だったんだ」
「不安、ですの?」
わたくしが問い返すと、エドガー様は少しだけ目を伏せた。
「知っての通り、私は元々、ただの平民だった。戦場で功績を挙げたとはいえ、領地経営を本格的に学んだことなんてない。王から賜ったこの土地を守るために必死だったが……どこまで出来るのか、自信はなかった」
ああ、なるほど。お気持ちはわかりますわ。
だからこの方は、誰より努力しているのよね。それでも『妻に迷惑をかけたくない』と控えめな方だからこそ遠慮なさるのだわ。
「でも、今日ミリアンと歩いて……心が軽くなった。君は領地を見る目がある。私には思いつかないことを、いくつも即座に見抜いてくれた」
エドガー様は照れたように笑った。
「まるで、君は生まれた時から領地を背負う令嬢みたいだ」
「まあ、実際そうですもの」
わたくしはくすりと微笑んだ。
「ですから、足りないところはわたくしが補えばいいだけですわ。あなたが戦場で皆を守ったように、わたくしは領地を守る方法を知っております。お互い助け合えばよろしいのです」
その瞬間。
エドガー様の表情が、ぱっと明るくなった。
「……ミリアン、ありがとう。本当に」
横から、家令のレイモンドさんが静かに口を挟んだ。
「ご主人様。奥様の存在は、当家にとって千人力でございます」
「それは、さすがに言いすぎでは?」
「いえ、事実でございます」
即答だわ、この家令。
すると近くの兵士たちもひそひそ声で盛り上がる。
「団長、今日ずっと誇らしそうだったな……!」
「わかる。奥様が褒められるたびに耳が赤くなるの、可愛かった」
「おい、命が惜しければ黙っとけ」
エドガー様は耳まで真っ赤にしながら兵士たちを睨んだ。
平民出身の領主だからこそ、兵士たちとの距離も近いのでしょうね。
それがまた、この領地の温かさを生んでいるのだわ。
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帰路につく途中、わたくしはそっと馬車の窓から領地を振り返った。
「とても素敵な土地ですわね」
つぶやくと、エドガー様は静かに頷いた。
「ええ。陛下から賜った時は、あまりに大きすぎて……正直『務まるのか』と何度も不安になったよ」
彼は少し苦笑を浮かべる。
「けれど、今日ようやく自信が持てた。君となら、この土地を本当に領民のための領地にできると」
「まあ」
わたくしは思わずエドガー様を見つめ、そっと微笑んだ。
「では、これからは二人でここを素敵な土地にしてまいりましょう。あなたの努力と実行力、そしてわたくしの領地の知識を合わせれば、無敵ですわ」
その言葉に、エドガー様の目が柔らかく細められた。
「……ああ、確かに無敵だ」
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領地視察を終えて屋敷に戻った頃には、もう空には星が瞬き始めていた。
「ミリアン、今日は本当に助かったよ。ありがとう」
夕食後、廊下を歩きながらふいにエドガー様が足を止め、こちらを向いた。
その声音はいつもより少しだけ近くて
わたくしの胸は、ほんのわずかに高鳴った。
「この領地を守る責務は、私一人のものだと気負っていた。けれど、君が横にいると……すべてが軽くなる。それに前よりも、未来がはっきり見える気がするんだ」
「まあ、それは嬉しいお言葉ですわ」
わたくしも自然と、笑顔になっていた。
距離が、近い。
今日一日で、確かに何かが変わった。
そんな実感が静かに満ちていく。
その時だった。
ふっと、エドガー様のまなざしに影が差した。
「……でも」
「?」
「私の生まれは……やはり、こうして時々、気になってしまう」
わたくしは思わず瞬きをした。
「今日、君が土の状態を見ただけで問題を見抜いた時……領地育ちの令嬢は、こんなにも自然に領主の目を持って育つのかと、少し……圧倒された」
彼は自嘲するように小さく笑った。
「私は、叩き上げの兵士だ。ただ剣を振るってきただけだ。土の見方も、作物の知識も、すべて後付けだよ。……君に教えられることばかりで、情けないと思ってしまった」
「エドガー様……」
その横顔には、戦場では決して見られないだろうそんな種類の弱さがあった。
ああ、この方は。
強くて誠実なのに、どこまでも謙虚なお方。
だからこそ、ふとした瞬間に自分を低く見過ぎてしまうのね。
わたくしはそっと歩み寄り、ほんの少しだけ距離を詰めた。
「エドガー様。あなたは誤解をなさっていますわ」
「誤解……?」
「ええ。わたくしが領地のことを知っているのは、家庭の教育によるものです。でも、あなたが領地を得たのは、努力と実力によって得た戦功ですわ。どちらが欠けていても、領主にはなれません」
わたくしは静かに言葉を紡ぐ。
「わたくしは知識を持っています。けれど、あなたには領民の心を掴む力がありますわ。今日、あれほど皆があなたを慕っていたではありませんか」
エドガー様は少しだけ目を見開いた。
「……慕われていた、だろうか」
「もちろんですわ。あなたが平民出身であることは、むしろ領民にとって誇りでなのです。あの領主様は、わたしたちの側に立ってくれる方だと、皆が分かっているのです」
その言葉に、エドガー様の肩の力が、そっと抜けた。
「……ミリアン」
「はい?」
「君は、本当に……すごい人だな」
「まあ。誉め言葉として受け取っておきますわ」
ふたりの距離が、また少しだけ近づいた。
その時、廊下の陰から気配が。
「……あの、団長、奥様。そろそろ、その……仲良さげなの、直視がつらいので部屋に戻っていいですか?」
「黙りなさい!」
レイモンドさんに連行される若い兵士の影がスッと消えた。
「あら、いつからいたのかしら?」
わたくしとエドガー様は顔を見合わせ、同時にくすりと笑った。
彼の青い瞳は、先ほどの不安の色を完全に消し、夜空の星のように穏やかに輝いていた。
「……おやすみ、ミリアン」
彼がそっとわたくしの名を呼んだ。それだけで、わたくしの胸が再び熱くなる。
「おやすみなさいませ、エドガー様」
わたくしがそう返すと、彼は、ごく自然な動作で、わたくしの頬にそっと唇を落とした。
結婚してから、そして今この瞬間まで、これほど彼自身の感情を感じたことはなかったかもしれない。
その温かい感触が、わたくしの胸へと広がっていく。
わたくしたちの距離は確かに少し縮まった。
でも、彼の心に巣くう平民ゆえの不安だけはまだ完全には消えていない。
ならば。
これからゆっくり、手を取り合って消していけばよいのだわ。わたくしは一人心に決めた。
その頃、窓の外にはゆっくりと夜の帳が下りていた。




