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未商業作品

メリアの魔法レシピ ~魔力なしの公爵令嬢はインク工房に就職しました~

 メリア・ロスコープが人生に絶望したのは、十歳のときだった。

 公爵令嬢あるまじき姿で、ベッドの中に自身の栗色の髪の毛をうずめて、ぐずぐずと鼻をすすって泣いた。はちみつみたいな琥珀色の瞳は、泣き続けているからか、もう溶けてしまったかもしれない。


 この国の貴族は、誰しも魔力を持っている。貴族の子どもは十歳になると、自身がどれほどの魔力を保有しているのかを教会で調べる。公爵家の令嬢であれば、その魔力量はいかほどのものかと周囲が期待する中、メリアが触った水晶玉は、ぴかりと光りもしなかった。つまり、メリアには一欠片の魔力もない。


「う、う、うううう……」


 辛くて辛くて、涙ばかりがこぼれてしまう。

 メリアは子どもだけれど、これがどれほどあり得ないことかわからないほど幼くはなかった。少なくとも、どこにも嫁入りはできないだろう。それほどまでに魔力がないということは貴族としては許されないことだった。


「ひ、う、う、ひっ……」


 声を抑えようとすると、さらに嗚咽がこぼれてしまう。

 魔力判定の結果を終えたまではよかった。自身に魔力がないことを知った衝撃は凄まじいほどだったが、なんとか動揺を見せずに、ロスコープの長女らしく澄ました顔を作ることができたのに。付き添ってくれた両親に申し訳ないことをしたと思う度に、ぎゅっと胸が痛くなる。屋敷に着いて心配する両親や侍女を振り切り、メリアは今、自室のベッドにこもっている。これから先の自身の将来を嘆いて。


(恋愛結婚なんて、望んでなかった……。でも、お父様たちみたいな、仲睦まじい家族を作りたかった。公爵令嬢としての責任だって果たしたかった)


 でも、もうそんな願いは打ち砕かれてしまった。

 魔力がない。ただそれだけで、この先、メリアの人生が真っ暗であることは決まってしまった。


(みんな心配している。せめてお父様や、お母様たちに大丈夫と伝えなきゃいけないのに)


 全然、身体が動かない。

 そのとき、キィ……と、控えめに扉があく音がした。主人が入るなと言っているのに、勝手に入ってくるような侍女はロスコープ家にはいない。お母様だろうか、とメリアは毛布に頭まで被って考えた。なんて情けない姿なんだろう、と自分自身について考えながら。


「おねえさま!」


 可愛らしく聞こえた声は、母がメリアを呼ぶ声ではなかった。

 びっくりして、メリアは毛布から顔を出した。「……シオン?」メリアの四つ下の可愛らしい弟だ。シオンはくちゃくちゃになったメリアの栗色の髪をびっくりしたような顔で見上げた後で、にこっと笑った。小さな両手に、何かを掲げて。


「おねえさまが、とっても悲しくなるようなことがあったと、父様たちから、聞きました。だから僕はおねえさまをおなぐさめに参りました」


 僕はとってもかわいいおねえさまの弟なのです、と自分で言って、むふんと胸を張る。とってもかわいい弟、というのはメリアが常日頃からシオンに伝えている言葉だ。


「おねえさまは絵をかくのが、とってもお好きです。絵をかけば、きっと元気になるでしょう。なので僕は、特別なインクを父様の書斎からとって参りました」


『とって参りました』というのは、『盗って参りました』という意味である。

 シオンは柔らかな手のひらの中に、複数のインク瓶を握りしめていた。魔法陣を描くために使われる特別なインク。一つの瓶には絵本で見た、海を閉じ込めたような複雑な青の色が幾層にも重なり、きらきらと星の光が散っていた。もう一つの瓶は、若草と空を詰め込んだように、二つの色が不思議に混じりくるくると螺旋を描いている。

 鮮やかな、素敵な色。ごくん、とメリアは唾を呑む。


「……たしかに、絵は好きだけど、でも、それは……」


 メリアにはたくさんの家庭教師がついていた。その中の一人に、絵を習っていた。花嫁修業の一つだ。言い淀んでしまったのは、もうそれも意味がないから。メリアはもう、どこにも行くことはできない。

 でも、きらきらと期待に輝くシオンの可愛らしい瞳と美しいインク瓶の魅力に抗うことができず、メリアはゆっくりと手を伸ばした。その瞬間、「こら」と低い声が聞こえて、メリアとシオンはびょんっと跳ねた。落ちそうになったインク瓶は、なんとかメリアが抱きかかえた。


「二人とも、それがどれだけ高価なのかわかっているのか? 少なくとも、子どもの絵を描くための道具ではないぞ」

「ホーリックお兄様……」


 メリアによく似た髪色の少年が、じろりとメリアとシオンを見下ろす。ロスコープ家の長男である。十五歳の少年だったが、彼がいれば安泰だと他家に噂されるほどの秀才だ。きっとシオンの怪しい動きをいち早く察知して、こうしてメリアの部屋にやってきたのだろう。


「ご、ごめんなさ……」


 ぶるっとシオンは震えたが、ホーリックはすぐににこりと微笑む。


「だから、ちゃんと持ってきたぞ。子どものおもちゃにするための道具をな。お前たち、何にインクをつけるつもりだったんだ?」


 ホーリックが背に隠していた手を持ち上げると、ぴかぴかの筆や、色とりどりのインク、そして真っ白い紙が出てきた。きゃあ! と子どもたちは優秀な兄へと黄色い悲鳴を上げて称賛した。「おいおい、そんなに褒めてくれるな」とホーリックはまんざらでもない口調で片手をこちらに向けて振る。


 そこから先は、大変な状況だった。

 シオンが持ってきたインクはメリアが今まで使ったどのインクとも違っていて、ほんの少しのインク量で、どこまでも紙の上を滑った。紙に描いたその瞬間は、ぷっくりと水滴のように膨らみ、光を帯びると水面のように輝いた。それもすぐに紙に溶けて、一筆ごとにわずかに違う色合いに変化する。まるで生きているかのようだ。


 驚くことはそれだけではなかった。ホーリックが描くと、絵が動いた。花を描けば花が生まれ、匂いまで漂うようだ。


「このインクは、魔法のインクだ。魔力を通せば、望んだものが出てくるのさ」


 それは触ることもできない幻だけど、と兄はいたずらっ子のように笑う。だがたとえ偽物だとしても、幼いメリアとシオンには大変な感動をもたらした。次第に紙だけでは物足りず、子どもたちは壁に絵を描いてしまった。カーペットは草原に。カーテンは草原を揺らす爽やかな風に変化した。兄妹三人は両手をつないでかき分けるように景色の中に飛び込んだ。なんという大冒険。


 こうしてたくさん、たくさん楽しんで、絵本の中のような大冒険を繰り広げた彼女たちに待ち受けていたものは、両親からの叱責だった。

 魔力で作った絵は、もうとっくに消えてしまって、ぐちゃぐちゃになった部屋だけが取り残されていた。高価な魔法のインクをたっぷり使ってしまったということも相まって、一番怒られていたのは長男のホーリックだ。メリアとシオンは、ホーリックのちょっと後ろで、しゅーんとした顔を作っていた。


 でも、もうメリアの心の中に、あの薄暗い闇はどこにもない。楽しい思い出だけでいっぱいだ。ホーリックは、ひっそり見つめるメリアの視線に気づいたのか、ちらと振り返った後でこっそりと身体の後ろで親指を立てた。

 小さなシオンは、一端の騎士のようにメリアの手をぎゅっと握る。


 嬉しくて、嬉しくて、どうにかなってしまいそうで、うふふと笑うとさらに両親から怒られた。でもきっと、父と母もメリアの心が救われたこと知っている。

 公爵令嬢のメリアは死んだ。自身に魔力がないと知ったこの日、彼女は生まれ変わったのだ。



 だから十六歳となったメリアは、「今まで本当にありがとう! そしてごめんなさい」と力いっぱい家族に頭を下げる。


「私、無事に大人になりましたので、旅立ちますね!」


 公爵令嬢あるまじき元気さで、旅の衣装を着て、むん、と腕に力こぶを作るメリアに、「おやめなさい、おやめなさいったら」と母がおろおろと扇子を動かす。


「ああもう……どうしてこんなお転婆になってしまったんでしょう。お茶会に行って、他のご令嬢たちをコテンパンにしたと聞いたときにめまいがしたことを思い出します……。わたくしはそのとき初めて『コテンパン』という言葉を知りましたよ」

「まあお母様、コテンパンだけでは足りませんよ。わたしはコテンパンに彼女たちを叩きのめしたのです」

「詳しく説明しないでちょうだい!」

「メリア、本当に行ってしまうのかい? お前一人、うちはいくらでも面倒を見ることができるというのに。貴族に嫁ぐことができなくても、一生この家にいればいいじゃないか」


 父の言葉に、少しだけメリアの心は揺れた。

 でもすぐに、メリアの肩に温かで、固い手のひらがのせられたから、ぴん、と背筋を伸ばす。


「父上、母上。メリアが決めたことです。望む通りにさせてやってください。もうこの子は大人です。自分で道を決めることができます」


 兄のホーリックならきっとそう言ってくれると思っていた。

 ぐしゃぐしゃになって泣いていた幼いメリアに、インクとペンを持ってきてくれたときのように。可愛かった弟も、今ではすっかりこまっしゃくれた子どもになってしまった。シオンは兄に同意するようにうんうんと頷いている。


 いやだわ、とメリアの母が美しい顔をくしゃっとさせる。「親の私たちよりも、ホーリック、兄のあなたの方がメリアとシオンの親のように思うわ」彼女の瞳には、じんわりと涙が浮かんでいる。その涙を見た瞬間、メリアだって、全部を忘れて、母に抱きつきたかった。でも、その気持ちをこらえるだけの想いは、きちんとメリアの中に積もっていた。


 メリアの足元には小さなカバンが置かれている。その中に、メリアの全てが詰め込まれている。


 ——この家を、出るときに持っていくための全てが。


 魔力がない自分が、これ以上この家にいるわけはいかない。

 貴族として成人する以上、誰かの妻になるか、それとも仕事を得るのか、きちんと示しをつけなければならないから。


「だからって、インク工房に就職するだなんて……」


 メリアの心を読んだかのように、母は呟く。これ以上悲しませたくなくて、メリアは口元を笑わせるだけで返事をした。

 幼い頃に部屋いっぱいに描いたあの絵は、メリアの心を鮮やかに染めた。いつか自身の手で、あのインクを作りたいと願うほどに。

 インクの瓶には『ブルーメドロップ工房』と刻印されていた。調べたところ、古くからあるインク工房なのだという。


「ブルーメドロップ工房ねぇ。小さい工房だから、従業員は募集してなかったんでしょう? 姉上ったら、一体どうしたの?」

「それはほら、お金の力で。なんたってうちは公爵家だもの」

「うわあー……」


 あっけらかんと話すメリアにシオンは若干引いた顔をしているが、父と母はうんうん、と頷いている。


「でもこれからは、もっと自分の力で生きていかなきゃいけないけどね」

「そんなことはない。何か困ったことがあれば、いつでも頼りなさい。お前はロスコープの娘なのだから」


 父の言葉は嬉しいのに、やっぱりメリアは少しだけ悲しく思ったけれど、そんなことはおくびにも出さないで、今までで一番の笑顔を家族に向ける。

 まるで、向日葵のような。笑顔は、メリアのただ一つの武器なのだから。


「姉上、そういえば『あれ』は持っていかないの?」

「うん。だって行くのはインク工房だもの。私にはこの『レシピ本』だけで十分」


 そう言って、鞄から出したのは随分古びた本である。たくさん書き込み、何度も読み返したからか、見るからにぼろぼろだった。「見せることができたらいいな」と、ホーリックは微笑み、栗色のメリアの髪をなでる。メリアはくすぐったそうに目を細めた後、「はい!」と元気に頷く。そして最後の挨拶をすべく、わずかに距離を取って大きく手を振った。


「……みんな、心配しないでね。行ってきます!」



 ***



 ブルーメドロップ工房はたくさんの馬車を乗り継いで、それからたくさん歩いてやっとの思いでたどり着いた。


 メリアの目の前には、ブルーメドロップ工房の工房長ネラスが机向こうに座っている。メリアの椅子も勧められたのだが、もちろん断った。工房長と、これから世話になる社員なのだから、きちんと立っているのが礼儀な気がしたのだ。


 メリアが座らないとなると、工房長は立ち上がろうとしたが彼は青白く不健康な肌色で、このまま倒れてしまいそうなほどにも見えたので、断固としてそのままでお願いした。

 工房長は机の上に所在なさげに置いたまま「あのう……」と囁くような声で、弱々しく話す。


「手紙でも伝えましたけれど、ここは公爵家のご令嬢が働けるような環境ではなく……そのう、いただいた援助金はとてもありがたくはあるのですが……」

「もちろん私のことはただのメリアとして扱いください。この工房で何があったとしても、私個人の責任という形になります。ご安心いただけるように、契約書も作成してきました」


 工房長は事前に作成したロスコープ家の刻印が入った契約書を確認し、ちらりとメリアも確認する。力いっぱいの笑顔をメリアは向けた。

「まあ、ここまでしていただけるのなら……」と工房長は自分で納得するようにぽそぽそ小さな声で呟いている。「工房を案内させる者を呼びます」と彼が呼び鈴をちりちりと鳴らした瞬間、メリアはこっそり飛び上がらんばかりに喜んでいた。来たはいいけれど、追い返される可能性だってもちろん考えてはいたのだ。


「ハイハイ、工房長。呼んだ?」とやって来たのは、キャスケット帽子を深めに被った小柄な少年だった。声を聞いて、弟のシオンの幼い頃を思い出したてしまったが、少年はしゃきしゃきと歩いてメリアに顔を向ける。


「え? もしかして新人? え、ほんとに? そうなの? ワア、じゃあ案内しよう!」


 少年は即座にメリアの手を取り、部屋から一緒に飛び出た。部屋の中では、工房長の重たいため息が響いていた。





「俺、ライだよ。お姉さんの名前は?」

「ライね。私はメリア……」


 ライに引っ張られながらメリアは廊下を歩いた。

 ロスコープ、という家名はもちろんすぐに呑み込んだ。ただのメリアとして扱ってください、と言ったくせに、自分から名乗るわけにはいかない。


「なんか変な間があった?」


 そう言って振り返ったライは、こっちを見たが、彼は先程からずっと帽子を深くかぶっているので、顔はよく見えない。「おっと失礼」これから一緒に働く相手なのに、顔がわからないとは、と考えたメリアの気持ちが伝わったのか、ライは帽子のツバをくいっと持ち上げる。


 彼は女の子のような可愛らしい顔をしていたが、その顔の半分には大きなやけどの痕があった。


「……」


 一瞬、メリアは少しだけ息を呑み込んでしまったが、すぐに口元を弓弦に変える。

 そして声の調子を変えぬままに質問した。


「ライは何歳なの?」

「俺? 十歳だけど」

「えっ。そんなに小さいのに働くの?」

「メリアは今まで働いてなかったの?」


 ぎょっとした声を出されたので、これ以上は口をつぐんでおこう、と誓った。


「マ、いいや。うちは規模のわりに職員の数が少ないんだよ。魔力がある平民は、インク職人になるか魔術師になるかだけど、だいたいみんな魔術師を選ぶだろ? インク職人なんて変わり者しかならないからさ。さらにうちはいつも金不足で給料が低いから、新人なんて本当に久しぶり」


 ライはにかりと笑って帽子を被り直し、また背中を向けて早口で話す。

「こっちだよ」と小さく振り返ったライについて、廊下を渡った。


 廊下の窓に映る風景が、まるで一緒に走っているようだ。緑の森がちらちらと覗き、ときおり遠くで鳥が飛んでいく。ブルーメドロップ工房は郊外の森の中に建てられている。やってくるときに目にした『キケン』『立入禁止』と書かれていた看板は、雨風にさらされて文字がどろどろに溶けていた。


(……あれ? あんなところに、花畑なんてあったかな?)


 はて、と窓の外を見直したとき、ぱたんっ! と窓に何かが当たった。ぱたん、ぱんっ、ぱたんっ。ライはかすかに揺れる窓ガラスにちらりと視線を向けただけだったが、「待って、何これ?」とすぐにライを引きとどめた。なんせ、窓にたくさんの『色』がのっている。ぱたん、ぱたんと聞こえる音は、『色』が窓の向こうから体当たりしている音だった。


「何って……インクの欠片だよ。アリャ、知らない? インクを作るときに逃げ出した尻尾みたいなものだから、窓に絵を描くくらいしかしないし気にしなくていいよ」

「絵を描くくらいって……」


 メリアが花畑と思ったのは、ただの絵だった。まるで雨粒のように『色』は窓に叩きつけられぺったりと伸びて、ぱたぱたと絵が広がっていく。しばらくするとすすりと『色』が消えて、もとの景色に戻る。と、思えばまた窓ガラスが小さく揺れる。


「ハハ。気にしない気にしない」


 そんなに当たり前のように言われても、と困惑してしまったが、まだまだ初日だ。こんなこともあるだろう、とメリアはぱちんと頬を叩く。いきなり飛び込んできた非常識に心が追いついていないが、ここはもう、『魔法のインク工房』なのだから。

 魔法のインクの作り方は、工房ごとの秘密だ。いくら頑張っても、メリアには魔法のインクを作ることはできなかった。だから。


(わ、わくわくする……)


 思わずぎゅっと胸元に手を当て、唇を噛みしめる。

 メリアはこの日を望んで、望んで、望んでいたのだ。


「……ウーン、気にしないでって言っても外から来た人はびびるよね。マッ、でも、あそこのインクは無害だから大丈夫だからサ。って言ってもやっぱ怖い?」


 唇を噛んだままピクリとも動かなくなってしまったメリアを勘違いしたのか、ライは心配そうに下から見上げる。「ううん、大丈夫!」と慌ててメリアが首を横に振ると、「そっか、よかったー」とにっと白い歯を見せる。女の子みたいな見かけなのに、笑い方はやっぱり男の子っぽい。残してきた弟を思い出して、メリアも自然と微笑んでしまう。


「じゃ、続きの案内ね。うちの工房の周囲は森だらけだから、みんな工房に泊まり込んでる。食事も全部ここ。食堂もあるからけっこーうまい。アッ、洗濯は各自ね。そして重要なのはインクの保管場所」


 どうやら生活空間は二階で、一階は工房になっているらしい。他にも独立した建物もある。最初に見たときは森の中にぽつんとある屋敷は少し不釣り合いなくらいに大きく思えたが、少ないとはいえ従業員のすべてが住んでいるとするならば、このくらいの広さは必要なのかもしれない。


『インクの保管場所は、そこを左に曲がるんだよ』

「こっち?……ふぎゃっ!」

「うわっ、メリア!? 何してんの?」

「何してるのって、今……というか、何これ、壁に絵が描かれてる……?」


 メリアはじんじんと痛む鼻を押さえて座り込み、ぺちゃんこになっていないことを確認した。たしかに先があると思ったのに、よく見ると、壁にはとても精巧な絵が描かれていた。しかしそれもすぐに剥がれて、もとの壁に戻っていく。「それもインクの欠片。気をつけてね」なんとまさかの。


「こんな……いたるところにトラップがあるだなんて……さすがインク工房ね、うう……痛みと喜びが同時にくるわ……」

「ハ? 何言ってんの? というかトラップなんて言いすぎだよ。よく見たらわかるじゃん」

「よく見たらって、でもさっきライ、あなたが……」


 いや待て、と思い出してみる。『そこを左に曲がるんだよ』と話した声は、よくよく思い返してみるとライよりも少し高い声色だった。と、いうことは……? と、座り込んでいるメリアを心配そうに見下ろすライを見て、さらにその後ろに目を向けると。


 白いもこもこした何かが、廊下の角からこっちを見ていた。「ひえっ……」「ん?」メリアの視線をライは追いかけた。小さな子ども一人分くらいはある白い何かは、泡のようにもこもこと動いている。もこもこここ。……ぬむっ。「ひっ!?」もこもこした毛だけかと思いきや、毛の中から顔が出た。黒い点が二つだけついている、大変シンプルな顔であった。


「…………」

『ンメッ』


 メリアが何も言うこともできず謎のもこもこを座ったまま見つめていると、おそらく鳴き声らしきものまで上げる。一体なんだろう、あれは。


「インク工房って、動物も飼ってるの……?」

「イヤイヤ。あれは動物じゃなくてインク。色を作るときに白い色を抜くと発色がよくなるんだ。抜いた白い色が集まって、ああいうもこもこになる。あいつら、たまに話すけど、意味があるわけじゃないから気にしなくていいよ」

「インク。あれが、い、インク……!? そしてそんなにぽろっと作り方の秘密を!? 工房ごとの秘密なのに!?」

「秘密って、メリアも今日から一緒に働くんだろ?」


 驚き目を丸くするメリアにライは呆れている。「ああそっかぁ」とメリアは幸せを噛み締めていると、『メメメメ』聞こえた声に二人で振り返った。いつの間にか数を増やしたもこもこたちが、体を揺らして笑っていた。


『メメメ。愚かなりメェ』

『激突うっかりさんメェ』

『この世は諸行無常メェ』


 そして謎の単語を口にしている。諸行無常って一体なんだ。

 メリアは眉間に皺を寄せてライに顔を向けた。


「……いや絶対なんらかの意思があるよね」

「ないって。なんとなくそれっぽい言葉を選んでるだけだって」


 ンメメメメメ、ともこもこたちは体を揺らして笑っている。

 ちょっと腹が立つ。


「インクって笑う……? あれ? ちょっと待って。さっき色を作るときに白い色を抜くって言ったけど、白いインクだって存在するよね?」

「うちのインクは魔術用に使う人が大半だから、濃い色の方が需要があるんだよ。基本的に白は作ってない」


 たしかにロスコープ家の魔法のインクの中に白い色はなかった、とメリアは思い出した。

 絵の具のようにインク同士を混ぜて色を変えることもできるだろうにとも考えたが、だからこそ、基本的には、という説明なのだろう。


「……じゃあ注文を受けたときは?」

「メェメェを捕まえて毛を刈る。そんで毛を材料にする」


 想像よりもハードだった。そうか毛を……と自然と視線はメェメェに移動してしまい――深淵のような黒い瞳がこちらを見つめていた。とても強い想いを感じる。


『この恨みはらさでおくべきか……ンメッ』

「いや絶対に意思があるよこれは」


 もしや恨まれてしまっている感じなのだろうか。





 インク工房の中を歩くだけで、階段があると思ったらなかったり、インクに頭からかぶっと食べられたりと探検するだけで大変スリリングな、いや刺激的だったが、なんとか這々の体でメリアは工房を歩き終えた。説明をし終えたライも新人を連れ歩くにあたって少し疲れた顔をして、「ヨーシ」と額の汗をぐいっと拭う。


「だいたい説明し終わったね。あとは、インクの保管庫と、調合室もあるんだけど……」


 ライが重厚な押し扉をゆっくりとあけると、中から冷たい風が吹いた。同時にとてもよく馴染んだ匂いがメリアの鼻腔をくすぐった。少しだけ埃っぽい。おずおずと、わくわくと中に入った。しんとして、ひんやりして、たくさんの紙の本が敷き詰められた本棚の中心にいるのかと錯覚しそうな感覚。先ほどまでとは別の世界にいるかのようだ。


(……すごい)


 高い天井に届くほどの大きな棚には、本ではなく、びっしりとインクが並んでいた。外からの光源は天井にある小さな明かり取りのみだった。それでも、降り落ちてくるわずかな光で十分なほどに、インク瓶の一つひとつがきらめき、まるで星々の中にいるかのようだ。


「……うわっ。……猫?」


 とんっ、と棚から降りてきたのは一匹の猫だ。猫はするするとインク瓶の隙間を歩き、優雅に尻尾を揺らしてメリアの足元を堂々と通り去って部屋を出ていく。


「なんともお上品な……」


 歩き方にも気品がある、気がする。そんな猫の存在を気にすることなく、ライは「おーい」と誰かに対して控えめに声をかけた。この広い空間にいる人を呼ぶには、随分小さな声で不思議に思ったが、すぐに向こうからの返事があった。


「……なんだ?」

「トール、新人だよ。降りてくれよ」


 その人は棚の近くのはしごに腰掛けて、紙にペンを走らせていた。その場にいることが気づかなかったことが不思議なほどに遠目でも存在感のある人だ。トールと呼ばれた男性はときおり銀髪を揺らし、こちらに目もくれることなく書き物を続けている。


「おおい、新人だってば。挨拶に来たんだ。降りてくれよ。あ、今日は落ちるなよ」

「……ここで大声を出すな。それに僕が落ちるわけないだろう」

「大声ってほどじゃないし、たまにお前、落ちてんじゃん」


 しびれを切らしたライに再度声をかけられ、しぶしぶといった様子でトールは地面に降り立った。とても綺麗な人だ。メリアは白い魔法のインクを見たことはなかったが、きっとこんな色なのだろうと想像できるような、銀色の月を思わせるような髪の色と、深い海のような青い瞳。本の挿絵に王子様役として描かれていたら完璧だろうと想像させるような造形だった。二十歳前後に見える、すらりと背の高い男性で、爪の先までがきちんと綺麗に整えられているのが印象的だった。

 しかしその全てを台無しにするかのように男の眉間には深い皺が刻まれている。

 ペンと紙をまとめて持ち、腰に手を当てむっとしたようにトールは話す。


「僕は落ちていない」

「いやもうそれはいいったら」


 ゆっくりと降りたかと思ったら、自分の足元を確認した後で、しっかりと言いきった。マイペースな返答である。


「マ、とりあえずこっちの話ね。ここにいるのが新入りでさー」

「ライ。インクたちが起きるだろう。もっと……」

「囁くように話せ、だろ? お前といると耳がよくなっちゃうよ。まったく、これくらい大丈夫だってのに。メリア、こいつはトール。うちの調合師だよ」

「調合師……」


 なんだか想像と違ったので面食らってしまっていたが、メリアはぽつりと呟く。その声が高揚してしまったのは仕方がない。

 調合師とは、魔術師のように国に登録された正式な職業名だ。魔法のインクを作ることができる特殊な技能を持っている人間。トールを熱い視線で見つめると、彼は目を細めてそっぽを向いた。それが不愉快そうな顔に見えたが、そんなことも気にならないくらい、メイアは目を煌めかせる。


 なんせ調合師とはメリアが、ずっと憧れていた存在だ。

 足を開いてちょっと斜めに立つのは彼の癖なのだろうか。それでも十分に背が高い。「あ、あの!」とメリアは先走って大きな声を出しそうになり、きゅっと口元を閉ざす。そしてはっとして、持っていた鞄を漁る。

 どこかに置く暇がなくて、ずっと鞄を片手に持っていたのだ。


「私……ずっと、インクを、作りたくて。作ってみていたんです!」


 メリアはなるべく声を抑えて、けれど興奮を抑えることができず震える指で分厚い本を取り出した。それはメリアの兄が『見せることができたらいいな』と言っていた本である。自分なりにインクの作り方を調べて書き留め続けた、メリアのレシピ本だった。


 鞄を床に置いて、両手で本を持ち直し、突き出すように向ける。緊張で、腕が震えていた。トールは眉間に皺を寄せたままメリアを見下ろしていたが、「材料は」「え?」トールの声は低く囁くような声で、気を抜くと聞き逃してしまいそうだった。


「材料……ですか? ワインやどんぐりの実に、葉っぱに、卵の殻に、色つきならサファイアとか」

「エ、宝石も!?」


 横から素っ頓狂な声を出すライに、慌てて首を横に振る。「少しだけよ。さすがにそれは少しだけ。絵の具に宝石を砕くこともあると聞いたから、インクでもできるかとと試してみただけで」さすがの公爵家でも、娘の道楽に付き合って砕かせる宝石はそれほど多くはない。


「……違う」

「……えっ?」

「その材料でできるのは、インクだ。うちで作るインクとはまったく別物だ。その本を見たところで意味はない。無駄だね」

「別物……?」


 トールの手はメリアの本を受け取ろうともしなかった。

 もちろんメリアだって、自身が作っていたインクはただのインクで、魔法のインクではないとわかってはいた。しかし無駄、と一言で言われて納得できるほどの薄い時間はかけていない。かけては、いないけども。


「…………」


 唇を噛んで、トールに向けていた本をするすると自身の手に戻した。そのとき、本の間に挟んだままにしてしまっていた手紙に気づいて、守るように抱きしめる。

 何度も書き込んだ本の表紙はぼろぼろで、書いたインクの量で膨らみができてしまっている。


「貴族のご令嬢が、働きたいと言っていると工房長から聞いた。帰る場所があるってんなら、さっさと帰ってくれ。その方があんたのためだ」

「……えっ、貴族?」


 トールはメリアのことを工房長から耳にしていたのだろう。冷たい瞳をじっとメリアに向ける。その横ではライがぎょっとした顔をしてメリアを見ている。「えっ、貴族って、メリアが?」呟くような声が聞こえるが、今は返答できる余裕がなかった。


「……いやです。帰りません。私はずっとこの工房に来たかったんです」

「インクの作り方も知らないのに?」

「魔法のインクの製法は門外不出のはずです。だから知らないことは恥ではないはず。誰もが最初は初めてです。そのことをあなたに揶揄されるいわれはありません。私はもうこの工房の一員です。工房長が許可を出しました」


 もぎ取った、ともいうかもしれないが、責任者である工房長が決定したことだ。たとえ調合師であろうとトールには覆せない。


「だから作り方を教えてください。教えてくれたら、作ってみせます。私は、魔法のインクが作りたくて、ここまで来たんです。調合師になりたくて、ここまで来ました!」


 幼い頃から、ただそれだけを夢見て。星散るようなメリアの瞳をトールはわずかに目を細めた。


「……魔法のインクには、特別な材料が必要だ。それと、自身の魔力をかけ合わせる」

「特別な材料と……魔力?」


 メリアは想定外の方向からボールを投げつけられた猫のような顔をした。

 それから悔しそうに唇を噛んで本を抱きしめ、かすれるような声を出す。


「……私は、魔力がありません」

「えっ、魔力がない? ないって、もしかして、まったくってこと?」


 また驚いているのはライだ。トールは何も言わない。平民ですら、わずか程度なら魔力は持っている。魔術を使うことはできなくても、手のひらを覆う程度の魔力は持ち得ているのだ。

 ——唐突に、心臓がぎゅっと痛くなった。

 どくん、どくんと跳ねるような心臓の痛さを耐えることができず、メリアは強く瞳を瞑った。


「それならインクは作ることはできない。調合師にもなれない。さっさと諦めた方がいい」






 トールの言葉からはなんの悪意も感じず、ただ淡々としたものだった。

 だからこそ強くメリアの胸を突いた。ライは二人の間でずっとおろおろとしていて気の毒だったが、メリアは自分のことで精一杯で、ただ本を抱きしめることしかできなかった。

 それから会話という会話もなく、ライは俯いたままであったメリアを気遣い、女子寮まで案内してくれた。


 メリアは今、薄暗い部屋の中でしょんぼりとベッドの上に転がっている。泣いてなんかいない。ちょっとだけしか。ぐすっ、ぐすっ、と子どものようにべそをかいている声が、狭い部屋で響いていた。


 こうしていると、十歳のあのときを思い出してしまう。自身に魔力がないと知って、貴族としてまともに生きていくことができないと絶望したあの日のことを。あの日もぐしゃぐしゃに泣いて、髪の毛もめちゃくちゃになって、一人で毛布の中にくるまっていたっけ。


「でも私は、もう十歳の子どもじゃない」


 ベッドから顔をゆっくりと顔を上げて瞬きをすると、ぽろぽろっとまた少しだけ涙がこぼれたけれど、こんなの誤差のようなものだ。あくびをしたって涙はこぼれるのだから、きっと大丈夫、と目元を手の甲で乱暴にこする。

 そして枕元に置いていた本へと手を伸ばして取ろうとして、自分の手が涙で濡れていないことを確認する。指を服で拭った後で、そうっとページを開いた。


「……ふふ」


 分厚い本の表紙を持ち上げて、本の中を覗くと、自然と口元に笑みが浮かんでしまう。

 最初に書き込んだときと、最後のページでは、文字の書き方さえも変わっていた。レシピ本なんてどう書けばいいのかもわからなかったから、探り探りだった。懐かしい気持ちでページをめくり続けていると、とうとう真ん中まで辿り着いてしまった。

 そこには、白いシンプルな封筒が挟まれている。消印がついているだけで差出人の名前もないけれど、これが手紙であることをメリアは知っている。


「そうだ、挟んだままにしちゃってたんだった……」


 いつも見返せるようにと大事に本に挟んでいたのだ。そのまま調合師のトールに渡そうとしていたのかと、少しだけ恥ずかしくなってしまう。部屋は薄暗く、窓から月明かりしか入っていこない。ランプもつけていないので窓辺に近づいて見やすくするようにして、封筒から手紙を抜き出し、そうっと手紙を開いて。


 物語が、飛び出していく。


 花が生まれ、こぼれんばかりの花弁が風とともに吹き荒れて、次に精霊たちがきゃらきゃらと嬉しそうに飛び出した。風とともにやってきたのは水の音。一瞬の間の後で、大海原の中を泳ぐ虹色の小魚たちを追いかけて、美しい人魚が月明かりを浴びて踊る。そして、窓の外へと消えていく。……そのすべては、メリアの想像だった。なのに、本当にその姿を見たかのようにメリアは名残惜しそうに窓と月を見つめていた。


 今度は慌てて手元の手紙に視線を落とした。短い文字が綴られている。もう何度も読んだから、すっかり言葉は覚えているけど。


『君が、書きかけのインクのように、美しい日々を過ごすことを祈ります』


 優しい丁寧な文字だった。

 誰が書いたかはわからないけれど、ブルーメドロップ工房から届いた手紙だった。幼いメリアは、インクを自分で作るようになり、いざそれが日常になると、今度は自分で作ったインクを使いたくなった。魔法のインクでもなんでもない、ただのインクだったのに、そんなのまったく関係なかった。


 今考えると自分の行いがとても恥ずかしくなってしまうのだが、家族や使用人たちを始め、出す人がいなくなってしまうと、そこで辞めてしまえばよかったのに、とうとう宛先にブルーメドロップ工房を選んでしまったのだ。


 あなたの工房で作られたインクに、とても感銘を受けたことや、人生を救われたような、兆しとなったように思えたことへの感謝を含め、この手紙は自身が作ったインクで書いた、といったような内容をしたためて投函したはいいものの、初めはわくわくと返事を待っていたのに、だんだん自分が愚かなことをしてしまったと気がついた。


 どうか工房の人たちが手紙に気づかずにいてくれまいかと気を揉んでいた頃、その手紙は届いた。誰が書いたかはわからない、とてもシンプルな封筒に入っていた手紙が。

 工房から届いたから魔法のインクで書かれているかと思ったけれど、違った。それはメリアの手紙と同じくただのインクで、少しだけ茶色く滲んだ、優しい色合いだった。なのにメリアはその手紙を見た途端、あふれるような物語を感じた。インクは、初めに紙を滑らせると、乾くまでの少しの時間、ぷっくりと膨らんで光を反射し、きらきらと輝く。きっとこの手紙は、それを意味しているのだろうとメリアはすぐに理解した。

 美しい日々とは、一体なんだろう。ああ、でもこんなふうに手紙を抱きしめて、わくわくとした胸の温かさを感じるのは、きっと美しいという意味なのだろう。どんな人が手紙を書いてくれたのか、想像した。女の人だろうか。それともまさか男の人?


 柔らかく美しい文字は、少しだけ母の文字に似ていたので、なんとなく女の人で想像した。それ以上手紙を出すことはなかったけれど、メリアはずっと、手紙を大切にして幾度となく読み返した。

 そして、この工房にやってきたのだ。

 そのことを思い出しながら、メリアは本を抱いて、いつしかベッドの上で眠っていた。




「おはようございます! 私は何をしたらいいでしょうか!?」


 朝一番に元気な声で片手を上げたメリアに、調合師のトールはとても曖昧な表情で見下ろしていた。いるはずのない場所で妙なものを見つけたような、例えるなら割った卵がまさかの三つ子で、珍しいを通り越してちょっと怖い、と思ってしまったかのような顔である。


「まずは……」でも、これだけは言うべきだ、と感じたのか、「大声を出さないでくれ。インクが驚く。小声である必要はないけれど」と、神妙な顔をする。トールの肩には、昨日見たお上品な猫が乗っていて、ゆらゆらと尻尾を振っている。白い猫かと思ったら、よく見るとわずかに青白く、宝石のような輝きを持つ猫だった。トールの飼い猫だろうか。


「はい! いや、違います、言い直します……はいっ」


 返事の声をなんとか抑えて、メリアは片手を上げた。トールは無言で頷く。


「帰らないのか?」

「もちろん、帰りませんっ」

「……そうか、帰らないのか」


 本日の会話はそれのみである。メリアはトールについて、仕事を教わるようになった。


 いや、教わるというのは語弊があるかもしれない。

 トールはいつも無言で、インクの保管庫にいることが多かった。星の数ほどもあるインクの一つひとつの状態を確認し、書きつけを行う。何を見て、何を書いているのかということは教えてくれないのでわからない。ただし、なんらかの条件が整ったとトールが判断したインクは、商人へと渡される。「もっとたくさん売りたいんだけど」と嘆く工房長に、「僕ではなくインクに頼んでください」と淡々と流している姿を何度も見た。


 トールは、不必要なことは話さないし、動かないことも多い。時々やってきた猫を膝に乗せるくらいで、彼は本当は美しい彫刻で、生きてはいないのだと言われた方が納得できた。はしごに乗ったまま棚にあるインクを見てしばらく動いていないので、ペンを走らせる指の動きを見て、安心したこともあるくらいだ。

 たまに、ずだだと大きな音が聞こえてびっくりすると、トールが床に転がってるのこともあるが。

 大きな声は駄目でも、大きな音はいいということかな、とメリアはなんとも言えない気持ちで転がったまま動かないトールを見下ろした。見ていないうちに落ちるので、どうして彼がはしごから落ちているのか、いまいちメリアにはよくわからない。


 とにかくメリアは、トールが日常している仕事の補佐するようになった。書きつけの紙が足りなければ作って、移動するとなれば棚のはしごを準備し、部屋に埃が溜まれば掃除をして、商人に渡すインクを木箱に詰めるといったような梱包まで行う。

 こういったインクが、メリアのもとにまで届いていたと考えると、不思議な気分になって、口元がほころぶ。「素敵な日々になりますように」とインクと、届く主へ独り言のように呟いてしまった。大半のインクは魔術を使用するために魔術師に買われているのだと、わかってはいるけれど。


 このとき、メリアはふと振り向くと、少しだけ扉が開いていた。

 誰かがいたのだろうかと廊下に出て辺りを探ると、曲がり角ではメェメェたちがこっちを覗いていた。


『あやつはこっそり見ていたメェ』

『堂々とすればいいメェ?』

『愚かなりメェ』

「……メェメェたちは、一体何を言っているの?」


 ライいわく、言葉に意味がないと言っていたが、本当なのか怪しいところである。


 そうこうするうちに、いつの間にかメリアもこのインク工房に馴染んできた。

 メリアは席について、その隣ではライが「アアー、腹が減った。今日は材料の検品がね、多くってさあ」とため息をついて帽子のツバをいじっている。食堂はいつでも開いているので、食べたいときにいつでも来ていいのだが、やっぱり食べる時間はみんな似通ってくる。食堂には話したこともない従業員もいれば、ここで顔なじみになった人もいた。目の前に座っている女性もそうだ。


「私も見すぎて疲れちゃったわ。たまにはカロリーの高いものを食べようかしら」

 と、話す背の高い蠱惑的な美女はキャナリィという名で、名前の通り黄色い小鳥のような色をした髪を無造作に流している。彼女もブルーメドロップ工房の従業員の一人だ。


 キャナリィはとん、とんっ、と空中で人差し指を振った。それは魔法の合図で、キャナリィは人差し指に祝福を受けている。彼女にしか見えない不可視の魔法は『鑑定』と呼ばれ、インクの検品作業に一役かっているのだ。「やっぱり。体力が随分減ってる。これはもう、食べて回復しなくちゃ」とぷん、と可愛らしくほっぺたを膨らませていた。


「メリアが来て一週間よね? 大丈夫? 慣れた?」

「慣れるわけねぇよな。トールは無愛想だもん」


 キャナリィの疑問をライが代わりに返答したので、メリアは曖昧に苦笑してしまった。


「トールは女慣れしていないだけだと思うけどねえ。いっつもインクの保管室にこもっているから。聞いたわよ。帰れって言われたんですって? 誰にでも帰る場所があると思っているだなんて、あいつも能天気なことよね」


 キャナリィは工房では古株らしく、トールのことをよくわかっている様子だが、いったい彼女がいくつなのかは不明である。聞く勇気も今のところはない。「エエ……。女慣れしてないって、そんな単純な?」「ライ、単純なのよ。あいつはね、野生の動物みたいなところがあるから、慣れるまで時間がかかるの」「たしかに、いつもとちょっと様子が違うもんな」と二人はこそこそと話していた。一体どう様子が違うのだろう。メリアはぼんやりと考える。


「なので、困ったことがあったらいつでも言ってね」

 と、キャナリィがまとめたので、「それなら」と顔を上げた。ついでにメリアとライのパスタができたので取りに行くことにして、キャナリの揚げ物も準備が整ったようだ。三人で列に並んで、「それなら、トールさんがいつもメモしているものがなにかわかりますか? 気になって聞いても返事がなくって」と言い直した。


「オッ。それなら俺もわかるよ。あれはさあ、インクの具合を見ているんだよ」

「インクの具合?」

「そう。インクは作って終わりじゃないんだって。工房から出たいときに、出させてやるらしい。キャナリィの『鑑定』でもなんとなくわかるんだよな?」

「そうね。でもトールの方がよくわかってる。作った本人だからかしら?」


 揚げ物を得たキャナリィはテーブルに戻って、「お~! カツドン! 好き!」と言って、四角い木の枝をぱきっと割った。メリアはなんだかんだと言って箱入りなので、たまに知らない文化を感じるが、いつも通りお上品にパスタを食べた。


「インクといえばさ、トールといつも一緒にいる猫。あれもインクだよ」


 けれど、ライの言葉にびっくりして思わずフォークを取り落としてしまいそうになった。口元に手を当てて、ぱちぱちと瞬きながら考えている間に、ライは続きを説明する。


「インクの中でも、ときどき自我が強いやつがいてさ。ほら、メェメェみたいな。そういうやつは瓶から飛び出してくるから、トールはその世話もしてる。満足するまで付き合ってやるんだって」


 ごくん、とパスタを呑み込み終えて、「満足したら? どうなるの?」とメリアは確認すると、「インクになる。普通に、インク瓶に入ってるやつみたいな」とライはフォークをくるくると回して話した。「俺なんか、別にそこまでしなくていいじゃん? って思うけどね。トールはさ、付き合ってやるんだよ。どんなやつでも」


 そういって、ぽりぽりと自分の顔をかいている。彼の顔半分は、やけどの痕が痛々しかったが、もう痛みはないようだということは、メリアはこの一週間の間、慎重に観察をして知っていた。


「……トールさんに、インクには触れないようにと言われてるから、触っていないの」

「偉いね。ちゃんと言いつけを守ってるんだ」

「うん。意味があるかもしれないから。どうしてだろうと考えて。意味がないことを言う人には思えなかったから」

「そうだね。インクは慣れていないと危険だから。俺の顔もインクで焼けた」


 少しだけ、時間が止まった。メリアは口元をきゅっと上げたまま、続きを待った。


「…ウン。ほら、メリアは最初のときも、俺の顔を見て、そんな顔をしたろ? こっちが傷つかないように、慎重に言葉を選ぼうとする。嫌いじゃないよ、そういうとこ。どっちかっていうと好き」


 臆面もなくそう言われるなんて今までにないことで、メリアはさらに言葉を呑み込んで、無意味にぴんと背筋を伸ばしてしまう。キャナリィが「あちっ、あちっ」と言いながら揚げ物にかぶりついている音ばかりが聞こえた。しばらくすると、吹き出したようにライは年相応に笑った。「そういうとこ、そういうとこ」と手を叩いてきゃらきゃらと喜ぶ。ちょっとだけ困った。


「メリアって全然貴族っぽくないもんな。雑用も進んでするし、そもそもインク好きな貴族令嬢なんて聞いたことねぇし。最初はびびったけど貴族っていっても、結構下っ端の方なんだろ? わかるわかる」

「……うーん、どうかなぁ」


 ここでもメリアは曖昧に言葉を濁した返事をした。ライは、「これから、お互い一緒に頑張ろうな!」と笑顔を浮かべた。

 我関せずと食事を続けていたキャナリィは美しい唇をすっかり油っぽくしていた。いわく、「めんどうなやつが来るんだから、さらにカロリーを得なきゃね」ということで、『鑑定』ができる彼女は商人との交渉役も担っているのだ。


「あー。あいつか。こっちがでかく出られないからって、商人のやつら、いっつも買い叩いていくもんなあ」

「そうなのよ。工房長はあの通りいつも顔色が悪くて頼りにならないし」


 たしかに工房長は今にも倒れてしまいそうな顔色であったことを、メリアはパスタを食べながら思い出した。




「インクを作る」

 と、トールが言ったとき、メリアは一瞬白昼夢でも見ているのかと思った。願うばかりに、とうとう現実までおかしくなってしまったのだろうか、とぼんやりしていると、「インクを作る」と、トールはもう一度言った。どうやら夢ではなかった。


 メリアの渇望が現実に至ってしまったわけではなく、きちんとした理由があったようだ。先日、ライが『材料の検品が多かった』と話していたが、インクを作る材料がやってきたのだ。インクの材料とは魔力がこもった特別なものである必要があるらしく、メリアが使っていたようなどんぐりなんて、まったくもってお呼びではなかったことを今更ながらに理解した。


 ライは小さな木箱を大切に抱え込むように持ち、ゆっくりとテーブルの上に置いた。インクを作る時間は、夜でないといけないとトールは語ったから、しんとした夜の工房は音も聞こえない。調合室の丸い小さな明かり取りの窓から、月の光がぼうっとテーブルを照らしていて、まるでそこだけ時間が切り取ったかのようだった。


「不死鳥が住んでいると噂されていたフォニエット火山。そこにはもう不死鳥の姿はなかったけれど、巣穴に残されていた宝石だ。フェニックスが温め、守っていたガーネット。赤く、鮮やかな、美しい宝石だ」


 木箱の蓋をライがあける。月の光を一心に吸い込み、自身が星であるかのようにきらめく、深い赤の石。しゃんっ、と涼やかな鈴の音が、どこからか聞こえてくるように錯覚する。

 宝石には重たく、深い魔力がこもっていることは、メリアでさえもわかった。息もできないほどに美しくて、ふらめきそうになったが、「不死鳥の羽は」「残念、なかったらしい」とトールたちは淡々と話している。


 トールが、テーブルの椅子をひいた。そのときになって、メリアは自身が場違いなことに気がついた。「わ、わたっ……」大声を出すな、と最初に言われていたことを思い出して、ライとトールの顔を見て、ぎゅっと唾を呑み込む。「私が、いてもいいんですか」と、続きの声をなんとかひねり出すと、トールはメリアを一瞥しただけで、椅子に座った。「好きにしていいってことだよ」とライが付け加える。


「な、なら、メモします。後ろの方で、メモしていますっ」


 自作のレシピ本の続きのページを開いて、ペンを取り出す。文句を言われないということは大丈夫ということだろう、と判断した。


「補佐は必要?」

「いや。ガーネットは、インクにしたことがある」

「そか」


 彼らは短い会話をした。トールは白い手袋をつけて宝石に向かい合い、その横からライが覗く。メリアはさらに後ろの方から、トールの仕草一つも見落とすまいと目を皿にして本を抱えた。そしてなんとか覗き見るべく、必死に首を動かす。

 ――始まった。

 そう思ったのは、どうしてだろう。そうだ、小さな猫の鳴き声が聞こえたのだ。


 ぱきんっ、と小さな音が響いた。それはまるで、溶けた氷に亀裂が走ったような小さな音だった。トールはいつの間にか宝石に両手をふわりと重ねていて、音はその手の中から聞こえていた。ぱきぱきと音は鳴り止まず、つまりは宝石が砕けているのだとメリアは気づき、自然と呼吸を止めた。次第にトールの手は内から赤く輝く。「魔力を、練り込む」と、ライはわずかに振り返り、囁くようにメリアに教えてくれる。


 トールの手で砕かれた宝石は、彼の片手に収まり、そっと両手のひらを持ち上げ合わせる。そして、ゆっくりと開く。すると不思議なことに、天井に、いいや、空へと赤い煙が立ち上っていく。螺旋を描き、星のように赤く煌めく。


「簡単に見えるだろ。でも、トールがするから、そう見えるだけだ。材料によって、タイミングによって、魔力の量を変化させる。普通の調合師もここまでスムーズにできない」


 ライの言葉すらも、どこか遠い。

 トールが指を向けると、遊泳していた星たちは、自身が幻の煙であったとでもいうように、はたと止まり、テーブルの上に置かれている空のインク瓶へとするすると降りてきた。

 とぷんっ


 それは海が揺れるような音だった。

 なのに実際は小さな瓶がわずかに揺れているだけで、「よっしゃ! 封緘!」とライが勢いよく飛び出し、瓶の蓋をきゅっとしめる。メリアは本を持ったまま、思わず一歩下がってしまう。


「アラ。ごめん、びっくりさせた? できたてのインクの蓋を閉めることを、封緘って俺たちは言ってるんだけど、早くしめないと逃げちゃうからさ」


 いひひ、とライは笑ってインクの瓶を軽く揺らす。赤く輝くような小さな海が、インク瓶の中で泳いでいる。


「全然……」


 驚いたわけではなかったので、メリアはゆるゆると首を横に振った後にはっとして本を開き、急いでペンを走らせた。魔力を使った、インクの作り方。全然自分と違った。今までの常識なんて、ひっくり返ってしまいそうだった。でも、書き取ることをやめられない。


「潰す……砕くところは同じ、それから液状化……そのときにも魔力を使っている? 私ならこのときワインで煮て、赤の色をつけて、それからそれから……ぎゃわわ!?」


 ちりりん、と音がして、猫がメリアの足元を通り抜けた。すべって転んで、メリアの本が吹っ飛んだ。だというのに、猫は猫らしく、優雅な足取りでステップを踏んでトールの肩にたどり着き、襟巻きのように首元に巻き付く。


 床を滑った本は、トールが座る椅子の足にするすると辿り着いた。トールは椅子から手を伸ばして本を拾い上げる。ちらりとメリアを見た後で、渡してくれるのかと思ったら無言でページをめくった。一体どうして。


「なんだ。結局読むんだ」とライが面白そうに声を出して本を覗き見て、「うっわァ」と顔を引きつらせる。「中、めちゃくちゃ真っ黒じゃん……?」おっしゃる通り、書ける場所にはどんどん補記していったので、本の中身は大変なことになっている。特に序盤が。メリアは穴があれば入りたいという気持ちで、どんどん小さくなって頭を抱えた。


 ぴらぴらとページをめくる音だけが聞こえた。いつも挟んでいた手紙を抜いていたことは幸いだった。やっと音が止まった、と思ったとき、メリアはもう小さくなって座り込み、下を向いていた。あまりの恥ずかしさに。


「……!」


 静かになったから、終わったかなとそろりと顔を見上げると、彫刻のような美しい顔が、メリアと同じように座って本を差し出していたのでびっくりして肩が飛び跳ねた。

 そのまま反応のないメリアにじれたのか、トールは何度か目の前で本を揺らしたので、メリアは慌てて本を確保して、また抱きしめた。


「……それは、いつから書いた」

「……えっ。十歳、いえ、六年前からです」


 それは囁くような声で、メリアに対しての疑問であったことにしばらく気づかなかった。だから返答が遅れてしまった。トールの銀の髪が、月の光を帯びてきらきらと輝いていた。

 メリアが返答してからも、しばらくの間、彼は何も言わなかった。どうしたのだろうと不思議な気持ちが恥ずかしさを上回ってきたとき、「材料が、少し余っている」と、トールは小さな声で話して、そっとテーブルの上を指さした。


 たしかにテーブルの上には、砕け残った小指ほどの大きさのガーネットがころんと転がっている。


「……だから、お前がインクを作ってみるか?」


 問われた言葉に、まず先に体が反応した。がばりと顔と体を上げて、次に声が続いた。


「はいっ!!!! 作ります!!!!」


 大声を出すな、と言われていたことは、今このときだけ忘れていた。「エッ、まじで?」と瞬いたのはライだ。「魔力がないんじゃないの? 無理じゃん」と咎めているわけではなく、単純な疑問として口に出したようだが、メリアの耳には入らなかった。


「なんで? いきなり? 本見たから? いややっぱ無理じゃん? というか危険だって!」

 叫ぶライの顔半分には、やけどの痕がある。

「材料は、ただの材料だ。なんの問題もない。それに何かあっても僕がいる」


 メリアは即座に立って自身の本の中身を確認し、顔を近づけるほどの勢いで右に左にと視線を移動させ、「できます!!!」と勢いよく本を閉じる。ほとんど自分に言い聞かせていただけだったが、「魔力を使用せずに。けれども、僕がした通りに作ってみるんだ」と存外優しい声でトールは話す。いや、優しい、と思ったのは、わくわくと躍る自身の胸がそう錯覚しているだけで、顔つきはいつもと同じだった。


 メリアは、先程までトールが座っていた椅子に滑り込んだ。月明かりが手元を照らすと、赤い宝石がちらりと輝く。あまりの愛しさに、泣いてしまうかと思った。でももちろん泣かずに、波のように襲いかかる感情の波が大きく膨らんだところを、唇を噛みしめるようになんとか抑え込む。そして今すぐに襲いかからんとばかりに両手を持ち上げ、わなわなと震えた後で、「道具が!」と叫んだ。「小さな声で」と、とうとうトールからの叱責が入った。


「すみません、道具を持ってきます」


 この場合のすみません、というのは大きな声を出してのすみません、と待たせてすみません、の二つだったが、すぐさまメリアは立ち上がり、入り口近くに置いていた箱へと一目散に駆けた。インクを作ると聞いて、念には念をと、自身の道具も準備してそこに置いておいたのだ。本当に、念の為のつもりだったけど。


 馴染んだ手袋をぱちんと伸ばすようにつけて、機材を構える。その頃にはライも、口を閉じていた。不安そうな顔をしてはいたが。


 こうしていると、まるでロスコープ家の自室にいるかのようだ、とふとメリアは感じた。

 場所は全然違うのに、椅子があって、テーブルもあって、道具があって。

 ドキドキしていた心臓が、少しずつ普段を取り戻していく。

「では」なぜだろう、とメリアは思った。「――始めます」

 周囲から、音が少しずつ消えていくから。




「メリアは、何をやってんだ?」


 このとき、まず耐えきれなくなったのはライだった。無言で続くメリアの作業を、背後から不思議そうに覗いている。でもそのことにもメリアは気づいていない様子で、小さな小さな赤い宝石を、針よりも少し分厚い尖った道具で、かりかりと削っている。


「粉にしている」

「粉って……ガーネットを? トールが、魔力で砕いたことを、人力でしてるってこと」

「ああ」


 もうちょっと説明してくれよ、という気持ちでライはトールを仰ぎ見た。トールは表情すらも変えずに腕を組んで、楽な姿勢をしている。


「僕は、魔力を使って石を砕く。宝石が均一になるように、またすべりがないほどに滑らかにするためには、そうするしかないからだ」


 終わったと思ったら、説明は続いていた。もっとわかりやすい男になってくれ、とライはトールに切に願った。この男は無愛想なだけで、意外と親切なのだが、会話のペースが人とは違うのでどうにも距離を掴みづらい。


「ふうん。でもさあ、そんなことできんの? 魔力なら一瞬でできるけど」

「さあ。魔力で行うべきところを人間の手で行うということは、途方もない労力だろう。さらに、材質一つひとつによって、砕く大きさも、ペースも変化させねばならない。均一に、一回の休憩も許されることもなく、終わるまでし続ける必要もある」

「ハ? 一回の休憩もせずに? 終わるまで、ずっと?」


 メリアは瞬きすらもせず、ただ同じように石を砕き続けていた。

 流れる汗すら拭うことなく、食い入るほどに赤い宝石を見つめている。

 欠片のようなガーネットは、それでもまだ少ししか砕けない。ときおり煙のように、赤いきらめきが飛び散るだけ。


「それ、頭おかしいだろ」


 引きつるようにライは笑ったが、多分、笑顔のつもりではなかったのだろう。

 ――しかしそれ以上の返答はせずに、トールは何も言わずにメリアを見守った。彼女ならできるだろうと思ったから。

 ロスコープの名を聞いて、家に帰すべきだと思って、それでも彼女の情熱を知ったから。

 ふと、メリアを見ると。

 笑っていた。溢れ出る感情が抑えきれないとでもいうように、口元に弧をのせて。トールもまた同じような表情を作り、ライはさらに言葉を呑んだが、ぶるぶると首を横に振ってすぐに正気に戻った。


「……おいトール。あの欠片一つでも、結構な額だぞ。うちの工房は年中金欠なんだ。それなのに、何考えてるんだよ。材料によって作り方を変えるって、そんなの、お前じゃないんだからさ、できるわけない」

「そうだろうか。やってみなければ、わからない」

「やってみなきゃってそんな……無責任なサァ」

「なんでもそんなものだろうよ。そしておそらく」


 ぴたりとトールはそこで言葉を止めて。


「彼女は。メリアは。今まで、やってきたんだろう」


 ぽたり、とメリアの首筋から汗が滑る。月の輝きばかりが空から降り落ち、ときおり星がきらめいている。夜の工房は、しんとしていた。

 そのときふと、不思議な風が吹いた。メリアのレシピ本が、ひらりとページがめくれる。

 たくさんの過去が、彼女の実験が。そこには書かれている。





「姉上は、大丈夫かな」


 同じ月夜を浴びて、遠い場所でぽつりと呟いたのはメリアの弟、シオンだった。公爵家の回廊で、ついつい呟き、「あ~……」と唸るように喉を触って、そして頭を振る。飛び出た自身の言葉に後悔するように、目をつむり肩に力を入れて――「シオン、何をしているんだ?」「ひひゃあっ!」姉とそっくりな声で悲鳴を上げた。


「ホーリック兄上!」


 驚いて振り向いた先には、兄がいた。「メリアの心配か?」海のような優しい声と瞳に、シオンは恥ずかしくなって、耳をわずかに赤らめた。「気持ちはわかる」でもすぐに兄はそう続けてくれたから、素直に自身は頷いた。


「……だって、姉上ですよ。あんな、いつも無鉄砲で、どこに行くかもわからないくらいに一直線で」

「言いたいことはわかるぞ」


 ホーリックはかすかに肩で笑い、苦笑する。年の離れた妹のことを思い出して、わずかに瞳を細めた後でドアノブに手をかける。兄弟二人、知らぬうちにこの部屋の前に来ていた。「でも、メリアなら大丈夫だ」軽く、押す。きい、と小さな音を立ててドアは開かれ、中の部屋がわずかに覗いた。


 薄暗い部屋だったが、穏やかな夜の光が、広い窓から静かに部屋を照らしてもいた。

 昼間はカーテンを閉めているが、陽の光がない夜だけは気を利かせた誰かがカーテンをあける。それはメリアがいた頃からの習慣だったが、今も続いているようだ。

 決して狭くはない部屋には、たくさんの棚がずらりと壁一面に並んでいた。棚の中にはインク瓶がずらりと並んでいた。その全てが、メリアが作ったものだ。十や二十なんてものではない。瓶の数が、一体いくつあるのか、シオンには見当もつかないほどに棚に敷き詰められていた。でも姉なら、メリアなら、その全てを覚えているのだろう。

『あれは持っていかないの』とシオンがメリアに聞いたインクたち。


 メリアは魔力がないことを知った十歳のあのときから、六年間。一日足りとて欠かさずに、インクを作り続けた。子ども一人ができることはしれていると知っていたから、公爵家の伝手を使うことも、もちろんためらわなかった。でもときには自身の足で材料を探し、本で知識を得て、自身を曲げずに突き進んだ。


 シオンはずっと、それを当たり前のようにして見ていたが、年を重ねるごとにその厳しさにやっと気がついた。

 貴族として魔力がないことは、この上なく不名誉なことであり、ロスコープ家の家族や、温かな使用人たちならばともかく、その一歩外へ飛び出せば針の筵の中を歩くようなものだったはずだ。辛い視線を、メリアは幾度も浴びただろう。屋敷の中にこもって一生を暮らし、優しい世界の中で生きていたっていいはずだった。でも、彼女はそうしなかった。


「……どうしてでしょう」


 このインクの山を見て、ときおりシオンは後悔する。自身が彼女に、魔法のインクなんて持っていってしまったから。


「……どうして、ここまでできるんでしょう……? 婚約者からは、魔力がないと婚約を破棄されて、今までの人生の全てが潰えてしまったというのに、どうして」


 ただの一通、見知らぬ相手から手紙をもらったというだけで。

 せり上がる感情をなんとか呑み込み、シオンは唇を噛みしめた。泣くな、と自分に言い聞かせる。泣くんじゃない、と必死に心に話しかけた。

 泣くべきなのは、自分ではない。


 知らぬうちにうつむいていたシオンの肩に、ホーリックの手が優しく置かれた。はっとして顔を上げると、兄はいつもと変わらぬ穏やかな笑みで、メリアが作ったインクたちを見つめている。


「そりゃあ、メリアだからだろう。お前は小さかったから、覚えているかな。メリアの魔力がないと判定されたばかりのときだ。メリアが出席した茶会で、『魔力なしがうつるから近寄るな』と同じ年頃の令嬢たちにからかわれたことがあった」

「少し覚えています。公爵家への侮辱として、父母が怒り狂っていました。相手の貴族たちも自身の娘の暴言に顔を青くしていたような」

「そうだな。大変な騒ぎになるところだったが、メリアは泣きもせずに『じゃあ実験しましょう』と言った。『本当に近寄って魔力がなくなるのかどうか、試してみましょう』と」


 そして姉は、茶会に出席した令嬢たち一人ひとりの家へ、堂々と乗り込んだ。特に中心となって姉を罵った令嬢のもとへは、さらに念入りに、まるで親友のような近さで過ごし、『これは一体いつまで続くのか』と向こうの令嬢が悲鳴を上げると、『もちろん魔力がなくなるまで。実験が成立するまでに決まっているわ』とけろっとして答えたらしい。そしてとうとう、向こうが音を上げ謝罪をした。しかし姉は、なぜ再現性のないことでからかったのだろうと心底不思議そうにしていた。


 これがメリアが旅立つ際に、メリアの母が言っていた、令嬢たちをコテンパンにしたという話の真相である。

 思い出してみると、やっぱりどんなときでも一直線すぎる、とシオンは若干口元をひきつらせた。


「そういうわけで、メリアはメリアだ。魔力があってもなくても、どこにいたとしても」


 ここにいない妹を思い出し、ホーリックは目元を柔らかくさせる。

 星々が輝くように、メリアが作ったインクたちが、きらきらと輝き、夜を彩る。


「大丈夫だ。心配なんて、しなくてもいいさ。きっとすぐに、元気な便りが届くだろうよ」





 メリアは、ただ一心不乱に宝石を削っていた。どれくらいの時間がたったかなんてわからないし、考えてもいない。宝石の声を聞いて、「そうなのね、あなたはこれくらいのペースがいいのね」「ここを削ってほしいのね。わかった、先にそうするね」と心の中で返答する。メリアはロスコープ家でたくさんのインクを作っている内に、材料の声が聞こえるようになった。それはとても不思議な感覚で、インクを作っていると、『こうした方がいいよ』と材料が教えてくれるような気がするのだ。それはただの気のせいなのかもしれないけれど、その通りにすると、とても質のいいものを作ることができた。

 テーブルの上に置かれている赤い宝石も、同じようにメリアに語らう。ねぇ、インクにして、と。


 ――赤くて、美しくって、素敵で、誰もが息を呑むようなインクにして。

 ――妥協しないで。力の限り。愛して。ぽたっと紙に垂らしたときに、素敵な輝きを見せるために。一瞬の美しさと、そして紙に乗せた永遠の美しさを作り出して、と。


 うんわかった、と答える。

 わかったよ、と伝える。


 作業をしていると、お腹は減らないし、もちろん眠くもならない。その後ろでは、トールとライがメリアを見守っていることも、全然知らない。トールは微動だにせず壁にもたれて、ライはときどき手持ち無沙汰にしていて、窓から日が昇って、ライが消えても、ずっとトールはそこにいた。ときどき、汗が手元を邪魔して嫌だったけど、それもいつしかなくなった。煩わしさが消えたことにすっきりして、安心して作業を続ける。さあ続きだ。


 そこからさらにどれくらいの時間が過ぎたのだろう。少なくとも、太陽はまた沈んで、もう一回昇ったかも。明るさのみが時間の基準で、そしてメリアの感覚を引き戻した。


「……できた」


 メリアの目の前には、ぽつりと小さな液体が震えていた。ただの一滴の水滴が、ガラスの板の上で輝いている。


「でき……できました、トールさん!」

「っ!」


 そこにいるはずだと思って後ろを振り向くと、トールはびっくりするほど近くにいた。トールは宝石のような目を見開く。あ、この人ちゃんと生きているんだ、とたまに彫像と勘違いしてしまうことを思い出し、トールの片手にはハンカチが握られていて、それでメリアの額の汗を拭ってくれていたのだと気づく。そういえば、途中で汗が邪魔にならなくなった。ずっとトールが拭ってくれていたのだろうか、と考えると、メリアは目を見開いたままぼうっと顔を真っ赤にさせた。


 二人はそのまま見つめ合って、さすがのトールも固まっていたが、はっとして「封緘を」と短く伝える。「えっ、あ、え?」「この量なら、悪さはできない。急ぐ必要はない。焦らずに」封緘、そうだ、インクを瓶に入れて、蓋をすることをそういうんだった、と得た知識を巡らせて、トールから渡された瓶に、一滴のインクを滑り落とす。


「――封緘!」


 宣言するように、蓋をした。これでよかったんだろうか。合っているんだろうか、と不安になって、おろおろと振り返って、トールを見る。彼が肯定するように小さく頷いたので、ほっとして、持っていたインク瓶を確認する。


 太陽の光で、一滴のインクが、深い赤の色を反射させて輝いていた。


「やった……できた。え? 私、できましたか?」

「ああ。とても質がいい、魔法のインクだ。魔力を使っていないから、混じり物がない。材料本来の力のみが封じられている。これは僕にも作ることができない。時間はかかるし、量は少ないが……」

「やった!」

「大きな声は出さないように」

「やった……っ」


 トールの言葉を最後まで聞くことなくメリアは喜び、そして怒られ、小さく喜び直した。噛みしめるように立ち上がって喜ぶメリアの頭を、自然とトールはなでていた。メリアは、初めはされるがままに喜んでいたが、段々と状況を理解する。同時にトールもメリアと同じような表情で、不思議そうに自分の手を見て、メリアと視線を合わせる。

 どちらも何も言わずに、瞬きだけで、呆然と見つめ合った。


 そのときである。メリアの腹が、盛大な音を立てたのは。

 インク瓶を落とすことはなかったが、想定外の恐るべき事態に、「えっ」と肩を震わせ、じわじわと顔を赤くする。こんな大音量が、自身の腹から鳴ったはずがないと祈りたかったのだが、今度は第二波がやってくる。ぐおおおおおお。もはや人が鳴らす腹の音ではない。


「え……え……?」

「二日近く作り続けていたのだから当たり前だ。食事をして、眠った方がいいな。立って歩けるか?」

「二日近く!?」


 叫んだ後に、唐突な倦怠感が体を襲う。トールがメリアの肩を支える。ゆるゆると、眠りが彼女をいざなう。インク瓶をトールに渡すと同時に、瞼が閉じていく。「よくやったな」小さな声が聞こえたけれど、もしかしたらそれは、気のせいなのかもしれない。




 次にメリアが目をあけたとき、猛烈な喉の渇きを覚えた。もはや今の時間が何時かもわからない。枕元にあった水を必死で飲んで、身支度を調え、食堂に向かった。するとちょうど昼の時間だったらしく、キャナリィとライと、顔を合わせた。


「マジ、何が起きてるのかと思った」

 と、最初に話したのはライだった。


「ずーっとトールがついててさ。メリアは延々と作り続けてるし、俺、心配で心配で、何回も調合室に行っちゃった」

「でも、できたんでしょ? すごいわ。魔力がなくて調合した例なんて聞いたこと無いわ。後で『鑑定』させてね」


 ライに謝ったり、キャナリィに照れたりと忙しく、そして楽しく食事の時間が過ぎていく。


「美味しい。ご飯が染み入る……」

 おそらく二日ぶりの食事である。自分では一切わからないのだが、体に温かいスープがじぃんとしみる。うっとりしているメリアを見て、「……メリアってさー」ふと、ライが話した。


「普段はそうは思わないけどさ、食べ方とか、仕草が上品だよな。話して食べてても下品に見えないというか、綺麗というか」

「え、そうかな」

「ウン。身についてるって感じなのかな。貴族って位が低くてもみんなそんな感じなの?」

「うーん……」


『貴族っていっても、結構下っ端の方なんだろ?』と曇りのない笑顔で言われたことを思い出して、メリアは曖昧に笑った。ライを見て、キャナリィは複雑な表情をしているので、もしかすると彼女はロスコープ家のことを知っているのかもしれない。


「ライ、あなたねぇ……」と、キャナリィが揚げ物で油っぽくなった(けれどもちょっと色っぽい)唇をゆっくりと開いたとき、「キャナリィはいるか!?」と勢いよく食堂のドアが開いた。荒く息を吐き出し顔を出したのは、工房長である。いつも青白い顔が、いつも以上に真っ白になっていて、今にも泣き出しそうに見える。一体どうしたというのだろう。


「ガレッタ様がいらっしゃった! 助けてくれ!」

「ええ、今日は来る日じゃないでしょ? やだもう、ほんとにもぉ!」


 急いで食事をかき込んで立ち上がるキャナリィを、呆然と見上げた。「……ガレッタ様?」「定期的に来る商人だよ。あんまりよろしくない」呟くようなメリアの言葉を疑問の声だと思ったのか、ライが説明する。


「……よろしくないって、どいういうこと?」

「見かけも態度もでかい。向こうは貴族の伝手があるけど、うちは全然だから逆らえないんだ。なんでも買い叩いてくるし、うちの金回りが悪いのはあいつのせいかもネ。だから交渉には『鑑定』を使うことができるキャナリィが駆り出されるんだ。品質を必死に保証しなけりゃ戦えないから」

「ははあ……」


 メリアは素早く、けれども上品に食事を片付けた。はて、という顔でライも続いて、食堂を出た。「ふむふむ。そういう……」と、さらに呟き、廊下を歩く。端っこの方ではメェメェたちがもこもこと体を動かし、『決戦だメェ?』『戦いだメェ?』『盛者必衰の理メェ?』と、相変わらず謎の鳴き声を発していた。


「……メリア、休みに行くの? ウンウン。ちょっとくらいいいと思うよ。みんな知ってるし。うちは人手不足だけど、休みは保証されてるんだよ。働きやすい環境ってやつ。いいものを作るには、いい環境じゃないとって工房長の方針で」


 ただただ歩き続けるメリアに、ライは恐るおそる提案して、一人で頷き、首を傾げる。「アレ、だからいつも人手不足ってこと? だめじゃん」と、はたと気付く。メリアからの返答がないとなると、ライは頭の後ろで手を組んで、愚痴のようなものを話しながらぶらぶらと歩く。


「工房長もさあ、もうちょっとガツンと言ってやったらいいのにサ、言えないんだよねぇ。商人がうちと取り引きしなくなったら困るって思ってるんだろうな。従業員の給料がっていつも言うし。俺たちのことは気にすんなよーって言いたいけど、俺もお金は嫌いじゃないし。工房長も、色々気にしてっから顔色が悪いんだよ。胃を壊してるから粗食だし、コーヒーは飲めないし。アレ、なんの話だっけ」

『メメメ』

『メメメ』

『お前も白く染めてやるメェ』

「なってたまるかよ」


 相槌を打つのはもはや後ろに続いて歩くメェメェだけだった。ちょこちょこ早足でついてきている。「あーあ」と、ライはため息をついて仰ぎ見た。


「うちもさ、貴族の伝手があればな。そうしたら他の取引先が見つかるのに。……イヤ、ごめん。メリアは無理だもんな、わかってるって。気にすんな。そんなことできるやつがうちに来るわけないし……ン? 部屋に行くんじゃないの?」


 迷いなく歩くメリアの歩みが自室に向かっているわけではないと知り、ライはわずかに顔色を変えた。メリアはぴたっと足を止めて、きょろきょろと辺りを見たので、ライは少しほっとした。しかし、「こっちかな?」と喧騒を耳にして、また進む。「おい」ライの声が自然と上ずる。「おいおいおい」ちょっと待って、とメリアの服をちょいと掴む。「玄関? 駄目だって、今はやめろよ。揉めてる、絶対に揉めてるから」今度は少しメリアよりも速く歩いて前に出る。


「商人が、ガレッタが予告なく来るときはサ、特に機嫌が悪いんだ。当たり散らすためだけに来るんだよ! そこに……若い女が行ってみろ! いやキャナリィも見かけは若いけど、あいつはほら、見かけと中身が違うから、やばいこんなこと言ったら俺が殺されるよォ!」


 もはや大混乱のライを、メリアはぴたりと見下ろす。見つめ合って、わかってくれたのかとライはほっと笑顔になる。「うん、大丈夫。心配しないで」まったく駄目だった。メリアはにっこり笑っていた。「オオオオオーイ!」ライは思わず頭を抱えた。


 誰かが大声で怒鳴っている声がする。

 ものが壊れる音も。ガラスが割れる音も。そんな喧騒に似つかわしくないほどに、メリアは優雅に歩いた。一歩いっぽ、踏みしめるごとに彼女の足が軽やかに変化するのを、ライは目にした。あれ、と瞬いて、目をこすって、「メリアだよな?」と首を傾げる。

 ドレスなんて着ていない。化粧ももちろんしていない。そのはずなのに、美しい一人の令嬢がそこにいた。


 とうとう、玄関近くの階段までやってきてしまった。

 階段から見下ろすと、玄関はもうめちゃくちゃだった。小太りの男が納品されるはずの木箱を足蹴にしていて、窓ガラスも割れている。キャナリィを守るように工房長は立ち、他の従業員も遠巻きに状況を見守っている。

 ライは今まで何度も見たことがある光景だったので、何があったのか想像に難くはない。本来なら取り引きに来るはずの商人は、ときおりこうして憂さを晴らしにやってくるのだ。立場が弱い人間をいたぶるのが、小太りの男、ガレッタの喜びだった。とてもバカバカしいことだけど、そんな気分によって変わる商談がまかり通るのが、貴族を絡めた商売なのだ。


「久しぶりですね、ガレッタ」


 そんなぐちゃぐちゃな状況だったのに、メリアは何も臆すること無く声をかけた。

 大声を張り上げたわけではないのに、彼女の声はとてもよく響いた。口角は完璧な笑顔を作っている。


「ハア? たかが従業員が、何、を……」


 ガレッタは初めはメリアに圧倒されている様子だったが、彼女が着ている服が平民の仕立てであると気づき、すぐに眉を怒らせた。が、勢いづいたのは一瞬で、ことん、ことんと一歩ずつ階段を下りてくるメリアを見て、段々と顔色を青くする。「メリア様……?」最後に擦り切れたような声を呟いた。いや、メリア様って?


 なんなんだ、この状況は、と困惑している人間が大半だった。「ろ、ろ、ろ、ろ、ロスコープ家のご令嬢が、どうしてここに!?」なんだろう、ロスコープ?

 まだライはわからない。その言葉が、何を意味するのかを。


「公爵家のご令嬢が、どうしてここにィ!?」

「……公爵家?」


 そこまで聞いて、なんとなく、なんとなくだが、状況を理解する。公爵家というのは、貴族の中で一番偉くて、王族の血筋も混じっていることもあるような、なかったような。え、王族?

『下っ端貴族』の横顔を、ライは何度も瞬き確認した。メリアは否定することなく、にっこりと一分の隙なく笑っている。


 ――なぜメリアが、商人であるガレッタを知っているのか。そんなことはとっても簡単な話だ。


 魔法のインクや、インクの作成方法が記された本を得るためには、商人の力が不可欠だった。メリアは公爵家の令嬢として多くの商人と関わったのだ。ガレッタはその一人である。とはいえ、どこかいけ好かない空気を察して関わりは必要最低限にしていたのだが、まさかこんな横暴なことをしていたとは知らなかった、とメリアは心の中の苛立ちをなんとか隠す。


「どうしてと訊かれましても、こちらでお世話になっているからです」

「お、お世話に、ですか……?」

「ええ。先日から。ガレッタこそ、何をしているの?」

「私は、その、商売に……」

「商売? これが?」


 いつの間にかメリアは、ガレッタの目の前に立っている。普段は小さな体が、なぜだか頼りがいがあるように見えてしまう。メリアはちらりと周囲を見回す。惨状を視線のみで批判すると、ぶるっとガレッタは震え上がった。


「それは、そのう、そのう。あの、申し訳ございません、少し所用を思い出しまして、今日のところは、ここで……」

「そうですか。私のことはお気になさらず。お気をつけてお帰りください」

「はは。へへ。あの、ロスコープ公爵には、ぜひよろしくとお伝えください……」

「もちろん。父には伝えますとも。兄にもね。ところでガレッタ、急いでいるところごめんなさいね。ここで何があったか知っている? 知っているのなら少しだけ教えてくださるかしら」

「え、あ、う……」

「あら? インクの瓶も壊れているわ。本当に何があったのかしら。からだからよかったけれど、この工房はとても質のいいガラス瓶を使っているのに」


 メリアはただ困ったように頬に手を当てただけだ。ただそれだけで、ガレッタは「わ、私がぁ!」と上ずったような声で返事をする。


「こ、こけてしまい……。皆様には驚かせてしまい、大変申し訳ございません。弁償についてはまたのちほど使者を送りますので、そ、それではっ!」


 一目散に、ガレッタは消えていく。

 その様を固唾をのんで見守っていた従業員たちが、目を大きくして、信じられないものを見るかのように口元に手を当てて見る。次にやってきたのは大歓声だ。「あのガレッタが、帰ったぞ!」「いつもは当たり散らして、偉そうにしてるのに!」「すごい、メリア、すごい!」

 みんなよっぽど腹に据えかねていたらしい。


 メリアといえば、その歓声の真ん中で、「いやあ、別にすごいのは私の家で、私じゃないんですけどねえ。でも使えるものはなんでも使っちゃいましょう」とけろっとしている。もしこの場に彼女の弟がいれば、『さすが家の伝手をなんでも使って、まっすぐに突き進んできた姉だ』と呆れたように笑うだろう。


「あ、ライ。ごめんね、突っ走っちゃった」

「……あっ。いや、別に」


 ライは相変わらず階段の上から、ぽかんと大口をあけていた。それからじわじわと時間をかけて、『下っ端貴族』と言ったこと恥じる以上に背中に冷や汗をかき始めたのだが、自分を見上げるメリアがにこにこしていたので、まあいいか、と思考をぽいと投げた。


 そのときである。ライの頭に、ふと影がかかったのは。「……ん?」人間である。高い背をした男が、ぬらりと動く。銀髪の、人形のように整った横顔をした――つまりはトールは。

 どう考えても寝ていた。「ひゃわっ」と、ライが両手を上げて彼を避けたと同時に、トールは眠りながら一歩を踏み出す。どどど、どどすどどん。ずたぼろになって階段の上から下まで落ちた。しばらく誰もが何も話さなかったが、ギャーッ!と聞こえた従業員たちの悲鳴とともに、転がり落ちるようにライも飛び込む。


「……寝ているッ!」

 ライは叫んだ。まさにそれは死亡確認と同じような体勢であった。「えっ、なん、どうして……トールさん……!?」先程までの令嬢っぷりすら忘れて、メリアは動揺して寝転がるトールを揺さぶろうとして、しかし落ちたばかりでよくないのでは、と手を行ったり来たりと忙しくさせていた。


「なんだトールか」「じゃあしょうがないな」「そのうち起きるだろ」

「えっ。えっ、ええっ!」


 周囲の温度差にメリアは目をぱちくりさせて、トールのそばに座り込んでいると、彼は何を勘違いしたのか、薄く目をあけた後にメリアを引き寄せ、彼女に抱きついて。また寝てしまった。


「ええええっーーー!?」

「アー……。多分、毛布と勘違いしてるだけだから、気にすんなよ。ほんとはいつもはこんなんなんだよ。よく寝ぼけてるんだけど、今日は特に、ずっとメリアに付き合ってたからさ」

「そ、それって……」


『慣れるまで時間がかかるの』『たしかに、いつもとちょっと様子が違うもんな』と、ライとキャナリィが話していたのがこれだった。


「たまに動かないのは、ただ寝ていただけ!?」


 メリアは全力で叫んだ。

 トールは整った容貌と相まって人からはきつく見られることも多いが、大抵は眠さを堪えているだけのぼんやりした男だ。メリアに慣れてきたってことかな、と面白そうにライはメリアを見ると、メリアは上から下までを真っ赤にして、ぴくりとも動かなかった。


 何かを察して、ライは無言のままに距離を置く。「ひゅ~」と、謎に口笛まで吹いてしまった。後ろ向きに歩いていると、とん、と背中に違和感が。キャナリィが、含みのある顔をして、むふむふとメリアとトールの二人を見ている。ぶつかってしまったらしい。


「ワ、ごめん。……っていうか大丈夫? ガレッタの馬鹿にめちゃくちゃ絡まれてたけど」

「豚がいくら叫んだところで豚だから」


 ものすごい暴言を聞いた気がするが、聞き流すことにした。


「っていうかさあ、みんなメリアが公爵家のご令嬢って知っても、今はもう驚いてなくない? おかしくない? ちゃっかり掃除を始めてるしさァ。ねえ、工房長!」


 ちょっと離れたところにいる青白い顔をした工房長は、メェメェたちに絡まれて「ギャワワ」とホウキを握りしめて揺れている。もっと肉食え。しっかりしろよ、とライは言いたい。いい人であることはわかっているが。


「だって、ロスコープ家でしょ? 家名を聞いたら、なんとなーくわかるわよ。古株はね。もちろんトールもね」


 その頃トールは、彼の腕から逃げ出そうとするメリアをさらに抱きしめ、逃がすまいとしている。もちろん寝ながら。


「……なんで古株だけ? 教えてくれてもよかったのに」

「うーん。だって知っているだけだもの。伝えるほどのことは、案外知らないの。手紙が届いただけだからね。女の子からの、とっても可愛らしい手紙が」

「手紙って、メリアから?」

「そうね。この工房のインクを素敵だと書いてくれた、貴族のご令嬢からの手紙。みんなとっても喜んだけど、相手は貴族で、それも公爵家だから、返事を書いていいかどうか、とても迷ったの。でも……」


 と、までキャナリィは話して、「これ以上は私から言うべきじゃなかったかも。おしまい」と笑顔で止める。「なんだよ、中途半端に言うなよ」とライは頬を膨らませたが、聞いたところで無駄だとわかっているので、それ以上は聞かなかった。


 なのでキャナリィは、自分の心の中だけで、続きを話す。

 今は少し大人に見えるトールだけど、彼だって調合師になりたてのときはあった。自身の道に迷うことはいくらだってあったし、人知れず苦しんでいたし、指標を見つけることができなかったときだって、もちろんあるのだ。


 手紙が届いたのは、ちょうどそんなときだった。見ず知らずの少女が、工房のインクにどれだけ救われたのかを綴った温かな手紙。人知れず喜んで、大事にして、一通だけと返事を書いた。感謝を込めて、そして遠い場所にいる少女の幸せを願って。

 彼がどう返答したのかまではキャナリィは知らないが、少女の手紙は、今もトールは大切に保管しているのだろう。わずかなきっかけが、その人の心で大きく育つことは、いくらだってあるのだから。


(素直じゃないわ。たしかに、ここは貴族のご令嬢がいるべき場所ではないけれど、追い返した方があの子のためになるかどうかなんて、誰にもわからないじゃない)


 まったくお馬鹿さん、とキャナリィは小さく呟く。だってキャナリィの目には、こんなにはっきり見えているのに。

 キャナリィは両手の人差し指と親指をそうっとくっつけ、両手でハートの形を作り、二人の姿を覗き見た。

 祝福された彼女の指先の間では、不可視の気持ちさえも、透けて見える。ああ、と息を呑んで――。


「やっだ! もう、べたぼれ! ラヴね、ラヴ!」

「ハ? 何一人で騒いでんの?」


 ライからは冷たい視線を向けられてしまったが、きゃっきゃとキャナリィは喜んだ。こんなにあからさまなのに、自分以外は気づいていないだなんて楽しくて仕方がないから。


「だめ~! 若者のラヴはお肌にいい~!」

「やめろって。年を感じるこというのはさあ。みんな扱い困ってんだから。キャナリィは若作りすぎなんだよな。アッハハ!」

「絞るわよ」

「……何を?」


 キャナリィは笑顔でぎゅぎゅっと布をしぼる仕草をする。するとそのとき、「あのっ!」と、とうとうトールの腕から抜け出すことを諦めたメリアが、真っ赤な顔をしたまま叫ぶ。誰に向かって、というわけではないが、みんなに声を伝えるように。


「さっき、ライが言ってました。この工房には、貴族の伝手がなくて困っていると。それなら私が伝手になります。なればいいんです」


 何か不思議な気持ちで、ライとキャナリィはメリアの言葉を聞いていた。


「人生なんて、右に行くつもりだったのに、左しか行けないなんてことはままあるんです。それなら右に行ける間に、できることはどんどんしちゃいましょう。使えるものは、使ったらいいんです」


 それは魔力がないと言い渡されて絶望した、十歳のメリアが話した言葉だったが、ブルーメドロップ工房の人々は、そんなこと知りはしない。「この工房のインクは、絶対にこの国に広めるべきで、絶対に絶対にそうなるし、私は調合師になるし、なってみせる……」と、ぶつぶつとメリアは、指を一本一本折り曲げ自分の夢を語っている。

 折り曲げた指の分だけ夢があるのだとすれば、大層な夢想家であると、その場の人間たちは思う。


 でも、メリアにとっては夢でもなんでもない、現実だった。

 なんせ、ずっと憧れだったインク工房にやってくることができたのだから。


「楽しみがいっぱいですね! 頑張りましょう!」


 明るい笑顔が、花咲いた。それはメリアのただ一つの武器である。折れず、曲げす、現実に向かい合い続けることへの。


 にゃん、と猫が面白そうに笑う。時が止まったように、呆然とメリアを見ていた人たちも、はたと時間を取り戻して、わずかに微笑む。もこもこ羊のインクも笑う。メッメッメ。メッメッメ。


 そのときぼんやりと目をあけたトールが、自身のすぐそこにいるメリアを見て、意識を取り戻して、目を見開き固まってしまったところまでがお約束だ。




 ***



 メリアの兄のホーリックが、一通の手紙を見て、ふむふむと笑っている。差出人はもちろんメリアだ。魔法のインクではないけれど、と前置きして、メリアの近況が綴られている。


『――ということがありまして、可能でしたら信用のおける商人の紹介をお願いしたく』


「うん、もちろん。早急に手配しよう。……メリアは工房の人たちによくしてもらっているんだな。本当に、よかった」


 大丈夫だと送り出したが、それでも不安だった。その不安は家族の中で、もしかすると一番に持っていたかもしれない。婚約も、それまでの交友関係もすべてを無くしてしまい、絶望する幼い妹を知っているから。しかし、だからこそメリアを信じて送り出した。

 こうして届いたメリアの手紙を読んで、ホーリックは胸を撫で下ろし、やっと息ができたような心境だった。


『そういえば、ブルーメドロップ工房には、私よりも年上の調合師の方がいます。最初は無愛想で、近寄りがたかったのですが、とても優しく見守ってくれていることに気づきました。』

「ほう、年上。調合師ということはベテランだろうから、五十代くらいか? よくしてくれる先輩がいるのはいいことだ」

『その人はしっかりしているようで、ねぼすけで、面倒見がよく、失礼ながら可愛らしく感じるときがあります。』

「うん? まあ、キュートな先輩ということかな。つまり女性か?」

『一度頭をなでてもらったのですが、兄上になでられたときとは、不思議と違う感覚で』

「……うん?」


 手紙の雲行きが、なんだか怪しい。


『もしやこれが、好きという気持ちなのかもしれません』

「ちょっと待て」


 ホーリックは全力で突っ込んだ。とても年上(五十代くらいというのはホーリックの想像であり、実際はトールはまだ十九だったが)で、お寝坊さんの面倒見がよくちょっとかわいい調合師を想像して、手紙を持ったまま知らずに天井を仰ぎ見る。次から次へとなんでこんな。


 あのいつも一直線な妹のことだ。止めたところで、と知りつつ、「ちょっと待ってくれ……」と繰り返すしかない。どうすればいいのか、とホーリックは思考を繰り返し、さらに落ち着くべく部屋の中を歩き回り、具体的に自分が次に何をすればいいのだろうと困惑した。そしてひらめいた。返事を書けばいいのだと。


 手紙が来たので返事を書く。それは当たり前の行動だったが、そのときのホーリックは自身の名案に感動するほどだった。「メリアへ」と口に出して、ペンをインクにつける。それから――次の文が、中々思い浮かばない。


 とうとうペンにつけたインクが乾くほど彼は考え抜いて、インクをつけ直し、手紙を書く。新たな妹の旅路を祝って。


 ――輝くような、日々を願って。



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― 新着の感想 ―
すごく好き…! 連載とかシリーズで色んなインクのお話が読みたいです!誰がどういったインクを求めて、何故メリアが作る事になるのか、そしてメリアと材料の交流からインクになるまで、多分窓口は兄上wまずーい…
素敵なお話ですね!!感動しました。 メリアが困難にもめげずに、自分の夢を決めてそこに邁進していくのがすごかったです。ありがとうございました。
メェメェや猫達が可愛すぎる。工房は不思議で素敵な空間なのがとても良く伝わりました。 お父様が愛娘を送り出す工房の状況を知らないはずは無いので娘が頼って来てくれるのを待ってたな?今頃パパはニコニコ嬉しそ…
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