88話 書籍3巻発売記念SS フィデロ伯爵の初恋
本日、書籍3巻の発売となります!
SS「メルティと猫じゃらし」以外は全て書き下ろしとなっておりますので、よろしかったらお手に取って頂けると嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。
ダニエル・フィデロの父はとても厳しい人だった。
小柄なダニエルとは違って声も体も大きく、内気な彼はいつも父の前では緊張して体を小さくして縮こまっていた。
そうすると更に「フィデロ伯爵家の跡取りがそんな弱気でどうする」と叱責される。
いつしかダニエルは、祖父のお気に入りだった図書室に隠れるようになった。
数年前に亡くなった祖父と違って、ダニエルの父はあまり本に興味を持たない。
書物に記された先人の叡智も机上の論理に過ぎないと言い放っており、何の価値も見出さないようだった。
元々体格に恵まれ、文官よりも騎士になりたかった父にとって、図書室は父の夢を邪魔した象徴なのだろう。
フィデロ家は帝国一とも言われる図書室を有し、代々文官として帝国に仕えている。
長男である父は、騎士になるのを諦め文官になった。
だからだろうか。
母に似て気の弱いダニエルを鍛えようと、ことさらに厳しく躾けようとしていた。
父の説教は始まると長い。
ダニエルは父が満足するまで直立不動で立っていなければいけなかった、苦痛で仕方なかった。
気の弱い母は、父が去ってからダニエルをなぐさめてくれたが、それだけだ。父を諫めてくれる素振りはカケラもない。
いつしかダニエルは、父の姿を見る度に体中に汗をかくようになってしまった。
寒い日でも滝のような汗をかくので、さすがにこれはおかしいと父が医者を呼んだ。
医者は、おそらく精神的なものでしょうという診断をした。
そこでどういう話が交わされたのか、ダニエルは知らない。
ただそれから、少しだけ父の説教は減ったが、残念な事に大量に汗をかく体質は変わらなかった。
手に汗をかくと、本を傷めてしまう。
大好きな本を手汗で読めなくなったダニエルは落胆した。
だがすぐに手袋をはめて読めば良いという事に気がついた。
ページをめくるのに少し苦労はするが、それでも本が読めるのなら我慢できた。
本に興味のない父の代になってから、図書室の蔵書はあまり増えていない。
ダニエルは、せっかくだから今まで集めていない本を集めようと思った。
ちょうどその頃、帝国では恋愛小説が流行り出していた。
試しに読んでみると、なかなかおもしろい。
どうせ父は図書室には足を踏み入れないのだからと、ダニエルは少しずつ恋愛小説を蒐集し始めた。
一番喜んだのは母だ。
すぐに読み終わっては、次の本はないのかと催促される。
気がつけば、棚の一つが恋愛小説で占領されていた。
「そろそろ他の本も集めようかな」
「あら、恋愛小説はまだまだたくさんあるでしょう?」
ダニエルの集めた恋愛小説を読むという趣味に目覚めた母親は、続きものの恋愛小説の最新刊を手にそう言った。
「これだけあれば母上が読み終わるのは当分先ですよ。私はそろそろ違う本を読もうかと思って。……王国の本を手に入れるのも良いですね」
「きっとがっかりするわねぇ」
「誰がですか?」
「ほら、最近うちに来たテレーゼという侍女がいるでしょう? 彼女は恋愛小説が好きらしくてよく本を借りにくるの。もうここにある本は全部読んでしまったみたいだから、きっとがっかりするわ」
ダニエルは母の言う侍女に心当たりがなかった。
きっとまだ入ったばかりで、ダニエルたちの前に出るのを許されていないのだろう。
フィデロ伯爵家では、希少本は鍵のかかった本棚に陳列してあり持ち出すことはできないが、使用人であっても申請すれば本を借りられる。
本を読む事ができるというのならば、そのテレーゼという侍女はきっと貴族の出身なのだろう。
「今度の古書市で、少し見繕っておきます」
「ええ、私も楽しみだわ」
そう言って、母親はそのまま図書室のホールに置かれた読書用の机に向かった。
明り取りの窓から漏れる光が、母の顔を明るく見せる。
以前は高圧的な父に怯えうつむいてばかりだった母だが、本を読むようになってからは明るくなった。
やはり本はいい。
ダニエルは更に本を好きになった。
「他の侍女たちも来たことはあるけれど……希少本にしか興味がないようだったわね」
「そうですか」
本を見たいのではなく、値打ちのある本を見たいだけなのだろう。
そういった侍女はとても多い。そして鍵のかかった本棚に飾られてある希少本にしか、目を向けないのだ。
図書室を訪れるのは、ダニエルと母と、そしてテレーゼの三人だけ。
母から名前を聞いた後、今まで鉢合わせしなかったのが不思議なくらい、ダニエルはテレーゼの姿を見かけるようになった。
といっても、テレーゼはダニエルと会ってもお辞儀をして挨拶するだけで、声をかけては来ない。
ダニエルはいつしかそんなテレーゼに惹かれるようになったが、それでも声をかける勇気はなかった。
ただ図書室で、借りた本を嬉しそうに抱えるテレーゼの姿を見るだけで満足していたのだ。
だがそんなある日、事件が起こった。
何者かによって鍵をかけていたはずの本棚から貴重な本が盗まれ、その上ビリビリに破かれてしまったのだ。
フィデロ伯爵家の図書室で最も価値のあるジャンロッドの初版本でなかったのは幸いだったが、それでも貴重な古書のうちの一冊だ。
当然犯人探しが始める。
「売れば高値がつくのは確実なのに、そうしないでページをビリビリにするなんて、一体誰がこんなひどい事を……」
本は、一度破ってしまえば修復が効かない。
だからこそ、もう二度と読めない。
ダニエルは何よりも大切な本がこんな姿になってしまったのを嘆いた。
そして父は、フィデロ家の貴重な財産である希少本をボロボロにされた事を激しく怒った。
「こんな事をしたのは誰だ!」
使用人たちを全員ホールに集めた父の剣幕に、糾弾されているわけではないダニエルですら、身をすくませてしまう。
ホールの天井にあるシャンデリアも、父の怒声にビリビリと共振して揺れていた。
ダニエルは震える使用人たちの中から、テレーゼの姿を探す。
ゆるくカールした黒髪が、小さく震えていた。
誰もが床に視線を落とす中、一人の侍女が叫ぶ。
「私見ました! その本を手にするテレーゼを!」
ダニエルはそんなはずはないと思いながら、テレーゼを見る。
蒼白な顔は驚きに染まり、唇が震えている。
テレーゼが思わず、といった風に一歩後ずさると、周りの使用人たちがテレーゼから距離を置いた。
そこだけぽっかりと人がいなくなり、まるで劇の主役のようにテレーゼの姿だけが浮かび上がる。
「犯人はテレーゼです!」
何も言えずに助けを求めるようにテレーゼの視線がさまよう。
一瞬だけ、ダニエルと視線が交差した。
「お前かっ! 雇ってやった恩も忘れて何という事だ。牢屋へ連れて行け!」
父の命令に他の使用人たちがテレーゼの腕を捕まえる。
「ち……違う! 絶対にテレーゼは犯人じゃない! 本を好きな人が、本を乱暴に使うはずがない!」
ダニエルは今まで一度も父親に逆らった事がない。
いつも、頭の上で父の怒りが通り過ぎるのをじっと待っているだけだった。
だがそれではテレーゼを救えない。
ダニエルは震える体を叱咤して、なけなしの勇気をかき集めて口を開いた。
「それに、証拠もないのに、犯人だと決めつけるのは早すぎます。きちんと調べてください!」
父は初めて意見するダニエルの姿に驚いた。
そして少し冷静になって、きちんと調べるようにと指示をする。
すると、本を破ったのは声を上げた侍女で、ダニエルとテレーゼが仲良く図書室から出てくる姿を見て邪魔しようと思ったからだというのが分かった。
その侍女はテレーゼと同じ、没落した伯爵家の出身で、ダニエルの妻の座を狙っていた。
だが一向になびかず、それどころかダニエルがいつもテレーゼを目で追っているのに気づき、陥れようとしたのだ。
嫉妬によって失われてしまった希少本はとても高価で弁償しきれず、侍女の実家は領地を売って賠償に当て、爵位を返上して離散した。
そして罪を犯した侍女も伯爵家から追放され、そのまま姿を消した。
◇ ◇ ◇ ◇
ダニエルが父の執務室を訪れたのは、その翌日だ。
「改まって何の用だ?」
いつも自分に怯えるばかりの息子がわざわざやって来たという事実に驚きながらも、父はダニエルの話を聞く。
「あ、あの……」
緊張しているダニエルは、可哀そうなくらい汗をかいている。
手にしたハンカチがぐっしょりと濡れる頃、やっと口を開いた。
父はあまり気が長い方ではないのでさっさと用件を言って欲しかったが、医者からあまりプレッシャーをかけてはいけないと言われているので、ぐっと堪える。
父は父なりに、息子が緊張すると大汗をかくようになってしまった原因が自分なのを反省しているのだ。
「結婚したい相手がいます」
「ふむ。相手は誰だ」
奥手で社交にあまり出ない息子が見初めたのはどこの令嬢だろうかと首を傾げる。
最近、どこかのパーティーに出ていただろうか。
「テ……テレーゼです」
つい最近その名前を聞いたような気がする。どこだっただろうかと考えて、昨日冤罪をかけられそうになった侍女の名前ではないかと思いいたる。
「正気か? あれは侍女だぞ」
「身分であれば伯爵家の令嬢なので問題ないと思います」
「困窮して我が家に働きに来ているくらいだから、持参金も用意できまい」
「そんなものいりません!」
父は息子をまじまじと見た。
小心者の息子が、自分の前でこんなにも大きな声を出した事が今まであっただろうか。
意気地のない男だと思っていたが、少しは見直してやってもいいかもしれない。
父は息子の心意気に免じて、話を聞いてやる事にした。
「そっ、そもそも僕は、緊張するとすぐに汗をかいてしまうので、女性には敬遠されてしまいます。だから今まで中々結婚相手が見つかりませんでした」
ダニエルは滝のような汗をふきながら必死に言いつのる。
「でもテレーゼはそんな僕を厭う素振りもなく、裏表なくいつも優しく接してくれます。……何より、本が好きなので趣味が合います。ぼ、僕は結婚するならテレーゼ嬢以外は考えられません!」
一息で言い放ってからぜいぜいと肩で息をしているダニエルの滝のような汗を見る。
かつて自分のせいで精神を病み、緊張すると大汗をかくようになってしまった。
いつも視線を下にして、決して目を合わせない。
それがこんな風に、面と向かって自己主張している。
父は、知らない内に詰めていた息を吐いた。
「……いつから付き合っているのだ」
「それは、まだこれからです」
「まだ……?」
厳めしい父の顔が、驚きに崩れる。
聞き間違いかと思い、聞き直してみた。
「ですから、これからお付き合いを申し込もうと思っています」
ダニエルが照れながら説明するには、結婚を前提とするお付き合いを申し込む前に、きちんとその旨をはっきりさせておきたいという事だった。
告白して付き合って、でも反対されて結婚できないというのは不誠実だ。
だから先に父に結婚の許可を取ってから、告白したいらしい。
真面目な息子らしいといえばそうだが……。
自分の頃とは違って、今の帝国で政略結婚はそれほど多くなく、自由恋愛が増えている。
フィデロ伯爵家の嫡男とはいえ、眉目秀麗とはいえず、緊張すると大汗をかいてしまうダニエルはそれほど女性に人気がない。
父はダニエルをじっと見る。
奥手な息子が、自分から積極的に女性にアプローチする機会はそれほどないに違いない。
ならば認めても良いかもしれない。
……ちゃんと告白できるのであれば。
その日から、フィデロ伯爵家の図書室には恋愛小説の最新刊がずらりと並ぶようになった。
そして読書のための机には、白とピンクのグラデーションの薔薇の花が一輪、飾られている。
薔薇の花言葉は、「初めての恋」――。




