87話 コミックス発売記念SS メルティと猫じゃらし
本日、橘皆無先生によるコミックス1巻発売です。
どうぞよろしくお願いいたします!
その日、マリアベルは朝からそわそわしていた。
なにせフィデロ伯爵夫妻が、譲ってくれると約束してくれた子猫と共に、皇宮を訪れる予定なのだ。
今か今かと待ちわびるマリアベルの元に夫妻が訪れたのは、約束の時間よりもほんの少し早かった。
フィデロ伯爵夫人のテレーゼは、マリアベルとの再会を喜んだ。その腕には大きめのバスケットが下がっている。
テレーゼがバスケットの蓋を開けると、そこからオレンジ色の毛玉が勢いよく飛び出した。
「メルティ!」
マリアベルが歓声を上げると、薄いオレンジがかった毛色で赤褐色の縞模様を持つ小さな猫は、ふかふかの絨毯の上で伸びをすると、おや、という顔でマリアベルを見た。
そしてゆっくりとマリアベルの足元まで行き、ドレスの裾にすりすりと頭を寄せる。
マリアベルが手を伸ばして子猫を抱き上げると、「みゃあ」と可愛らしく鳴いた。
小さな生き物の体温を感じて、マリアベルは思わず笑みを漏らす。
「ご無沙汰しております、マリアベル様。お元気そうで何よりですわ」
「こちらこそお待ちしておりました」
テレーゼと軽く抱擁を交わすと、その後ろに汗を拭いている伯爵の姿が見えた。
伯爵の後ろにも誰かいる、と思ったら、なんと執務中であるはずのレナートと弟のリナルドがいた。
「レナート様とリナルド様?」
レナートとリナルドは兄弟だけあってよく似ている。二人とも黒髪だが、レナートの瞳の色が深い海のような青色であるのに対し、リナルドの目ははしばみ色だ。そのため、二人揃うとリナルドの方が柔らかい印象を与える。
「それが例の猫かい? オレンジの毛並みの子は警戒心が強いから人に懐かないんだけど、義姉上には凄く懐いてるね」
まだ結婚式を挙げた訳ではないから義姉ではないのだが、レナートの弟たちは「どうせそう呼ぶんだし、名前で呼ぶと兄上がめんどくさいから」という理由で先に呼び始めた。
マリアベルはレナートに、リナルドもアンジェロも自分より年上だし、まだそう呼ばれるのは早いのではないかと抗議したが、レナートは今から慣れておいた方がいいだろうと、真面目な顔で答えていた。
それ以降義姉上と呼ばれ、マリアベルはなんだかとても落ち着かない。
だがリナルドはそんなマリアベルのためらいが目に入らない様子で、マリアベルの抱くメルティに目が釘付けである。
剣を持ったら比類なき強さを発揮するリナルドだが、無類の猫好きで、猫を目の前にすると途端に目じりが下がる。
その話は帝国中に知られているので、ある時、帝国に侵入してきた賊が猫をお腹にくくりつけてリナルドを襲った事がある。
その時のリナルドは静かな怒りをたたえ、いつも以上の剣の冴えを見せた。
日頃浮かべている穏やかな微笑みは消え失せ、表情のない顔で賊の手足の腱を切って身動きできなくさせるなど、敵に対して全く容赦がなかった。
その時の恐ろしい様子は特に口止めしていなかった為、騎士団内部だけではなく、敵対する勢力にも広く伝わった。
それ以来、猫を盾にしてリナルドと対峙しようとする敵は一切いなくなった。
もちろん猫は無事にリナルドに保護されて、今は猫の宮殿で手厚く保護されている。
「よく見せてもらってもいいかな?」
目を輝かせるリナルドは、マリアベルではなくレナートに許可を取る。
リナルドは、普段は冷静沈着で頼もしい兄が、マリアベルの事になると途端に狭量になるのをよく知っているのだ。軍人らしく、危機管理能力に非常に長けている。
レナートはマリアベルにどうする、というように目で問いかける。
マリアベルはせっかくの温もりを手放すのが惜しいと思いながらも、小さな子猫をリナルドに預けようとした。
だが嬉々としたリナルドがメルティを受け取ろうとした途端、メルティはマリアベルの腕から飛び降りてしまった。
「あっ」
小さく声を上げたマリアベルに驚いたのか、メルティは本棚の上に飛び乗ってしまう。
マリアベルの為に用意された貴賓室は、寝室の他に応接間や客間などを備える広い部屋だったが、さすがに書庫まではついていない。
そこで本好きのマリアベルの為に、応接間にアンティークな本棚を用意してくれたのだ。
かなり大きな本棚で、メルティが飛び乗った場所にマリアベルが手を伸ばしても届きそうにない。
「降りていらっしゃい、メルティ」
声をかけるが、メルティは棚の奥の方に行ってしまって降りてくる気配がない。
「メルティ、危ないわよ」
テレーゼも声をかけるが、メルティは棚の奥の方に行ってしまって姿が見えない。
二人でどうしようかと困っていると、リナルドがさっと胸元から棒のようなものを取り出した。
棒の先に紐がついていて、束ねた鳥の羽がついている。
何に使うのだろうと注目するマリアベルに、リナルドは棒を振って鳥の羽を揺らした。
「僕が作ったこの新作のおもちゃを試す時が来ましたね」
まるで子供のように自慢げなリナルドに、マリアベルは本当に猫が好きなのだなと感心した。
マリアベルも猫やうさぎなどの小動物が好きだが、リナルドの場合は自分の離宮を猫が暮らしやすいように改築するなど、猫に対する愛情が深すぎる。
もちろんそんなリナルドは猫に好かれやすいので、本棚の上のメルティもすぐに降りてくると思われた。
「猫は人に飼われていても狩猟本能を失くしていないので、獲物のような動きをするものにはとびかからずにはいられないのですよ。それを利用したおもちゃは今までもありましたけど、これは竿の長さを調節できるんです」
そう言って、リナルドは手にした棒の長さを変えてみせる。すると釣り竿のような形になった。
そしてまるで魚釣りでもするように、鳥の羽をメルティの顔がある辺り載せて揺らす。
最初は手ごたえがなかったが、やがてメルティの「にゃうー」という声が聞こえてきた。
それを見たマリアベルだけでなく、フィデロ伯爵夫妻も感心する。
「まあ。そちらは商品化されるのでしょうか」
おもちゃを欲しそうにしているテレーゼの質問に、竿を揺らすリナルドは振り返らずに答える。
「もちろん! 効果のほどもオレンジの子猫ちゃんによって確かめられましたしね」
そう言うと、リナルドは大きく竿を揺らして深い赤紫の絨毯の上まで動かし、そこでひらひらと鳥の羽を揺らす。
「にゃうっ」
オレンジ色の塊が、本棚の上から弾丸のように飛び出してきた。
そして束ねた鳥の羽を、小さな前足で一生懸命捕まえようとする。
「にゃ」
だがリナルドは慣れたもので、ひょいひょいとメルティを翻弄する。
「このおもちゃは、ぜひ購入させて頂きたいですわ」
テレーゼが目を輝かせると、マリアベルも同意した。
「あんなに楽しそうに遊んでますものね」
「ええ。殿下、これはなんていう名前のおもちゃなんですの?」
「まだ決まってないんだ。僕は名前をつけるのが苦手なんだよなぁ。兄上、何ていう名前にしたらいいと思う?」
リナルドはメルティから目を離さず、レナートに尋ねる。
「お前が考えたおもちゃなんだから、自分で考えればいいではないか」
「うーん。じゃあ猫ホイホイとか」
「……いや、俺が考えてみよう」
リナルドのあまりのネーミングセンスに、レナートは代わりに名前をつける事にした。
ていていと、小さな前足で鳥の羽をつかもうとするメルティの姿はとても可愛らしい。
まるでじゃれついて遊んでいるかのようだ。
「猫じゃらしでいいんじゃないか?」
レナートのつけた名前も単純だったが、リナルドは気に入ったらしい。
「ああ、良いですね、それ」
リナルドは遊ぶのをやめてメルティを抱っこすると、よいしょと立ち上がって人差し指でメルティの喉をくすぐる。
メルティの喉が気持ちよさそうにぐるぐると鳴った。
どうやらすっかりリナルドに懐いたようだ。
「じゃあ、皇室印のブランドで売りに出そうかな。命名は兄上だしね」
「新たにブランドを立ち上げたらどうだ? そうだな……ベルローズなんてどうだ?」
そう言ってマリアベルの金色に輝く髪を一房手に取ったレナートに、リナルドは呆れたような視線を向ける。
いきなり名前を呼ばれたマリアベルは「私は何もしていないので、おもちゃを考案なさったリナルド殿下の名前をつけたほうがよろしいのでは……」とうろたえた。
「なるほど、猫のおもちゃを通して、帝国民に義姉上のことを周知できるということですね。僕は構いませんよ。せっかくだし、婚約祝いとして権利ごと義姉上に差し上げましょう」
リナルドは抱いていたメルティを「はい」とマリアベルに渡して、フィデロ伯爵夫妻には猫じゃらしを渡した。
「僕はまだ公務が残っているので、これで失礼します。兄上も、義姉上とずっといたいのは分かりますが、アンジェロがキレる前に戻ってきてくださいね」
そう言って去って行くリナルドに、レナートは苦笑した。
「最後に余計なことを……」
「申し訳ありません。少しでも私がお手伝いできたら良かったのですが……」
王国でなら執務の手伝いができたが、ここではまだ覚えなければいけないことが多すぎて無理だ。
マリアベルは申し訳なくなってそっと目を伏せる。
「皇太子妃になったら公務もあるだろうが、今はまだそんなことを考えなくていい。それでなくても勉強する時間を詰めすぎだと聞いたぞ。猫と遊んで、少しはリフレッシュしよう」
レナートはフィデロ伯爵から猫じゃらしを受け取ってソファに腰かけると、リナルドの真似をして鳥の羽を揺らす。
メルティはたちまちマリアベルの腕から飛び降りて、猫じゃらしを追いかけた。
マリアベルも、レナートから猫じゃらしを受け取って揺らしてみる。メルティが捕まえようとするのを避けるのは、案外楽しい。
フィデロ伯爵夫妻にも猫じゃらしを渡すと、夫婦で楽しそうに遊んでいた。
さすがに皇宮までの移動をした後で疲れているのか、メルティはすぐにうつらうつらとし始めて、やがて手をぴくぴくと動かしながら眠ってしまった。
にゃむにゃむと寝言を言いながら眠っている子猫の姿に、思わず部屋中にいるものたちに笑みがこぼれる。
マリアベルの心に温かい気持ちがあふれる。
完璧な淑女であらなければいけないと思いこんでいた王国での暮らしとは、なんとかけ離れていることだろう。
マリアベルはあの頃の、辛かったのだということにも気づかず過ごしていた日々を思う。
今はこんなにも穏やかな時間を得ることができた。
そして、心から愛する人も……。
マリアベルの視線に気がついたレナートが微笑みを返してくれる。
窓越しに差す光が、レナートの深い青の瞳に金色のきらめきを落とす。
胸に満ち溢れる幸せに、マリアベルは心からの笑みを浮かべた。
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