85話 空にあなたと ホワイトデー記念SS
「ベル、少し出かけないか?」
ガレリア帝国の皇太子妃となるための授業を終えたマリアベルは、その後に必ず設けられるレナートとのお茶会で、突然の誘いを受けた。
「はい。喜んで」
レナートがマリアベルを連れていく場所は、多岐に渡っている。
皇宮でも限られたものしか入れない秘密の部屋だったことがあれば、お互いに変装して皇都へ繰り出したこともある。
皇都の賑わいはマリアベルの想像以上で、その豊かさに圧倒された。
そうして一つずつ、レナートはマリアベルにガレリア帝国の姿を見せていく。
そのおかげで、ゆっくりと、しかし確実に、マリアベルはいずれレナートと共に治めることになる国を知っていった。
今度はガレリア帝国のどんな姿を見せてくれるのだろうかと、マリアベルは期待に満ちた目でレナートを見る。
すると、すっと手が差し伸べられた。
「では行こうか」
「今から……ですか?」
「風もなく、穏やかな天気だからな」
急な話にとまどいながらも、マリアベルはレナートの手を取る。
マリアベルは、皇宮での授業を受ける際にはシンプルなドレスを着るようにしている。これならば外出をしてもおかしくはないだろう。
今日はどこへ連れていってくれるのだろう。
期待を胸に抱きながら、マリアベルはつないだ手をしっかりと握った。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
馬車で向かった先は皇宮のはずれで、広い緑地になっているところだった。
庭園というわけでもなく馬場というわけでもなく、ただ丈の短い草だけが生える広場の真ん中に、大きな風船が見える。
いや、風船ではない。
あれは気球だ。
本で読んだことはあるが、実際に見るのは初めてだ。
近づくにつれて、その大きさが想像以上であることが分かる。
少ししぼんでいるように見える気球は、太い縄で地面につなぎ留められていた。
「ベルは気球に乗ったことはあるか?」
「いえ。初めてです。熱い空気が普通の空気よりも軽いのを利用して、空に飛ぶのですよね」
「よく知っているな。さすがベルだ」
マリアベルの博識さは知っていたが、気球が飛ぶ原理まで知っていたことに感心する。
「ここにあるものは気球を繋いである係留タイプのものだが、皇都が一望できるんだ」
「それは楽しみです」
目を輝かせるマリアベルを愛し気に見下ろすレナートは、馬車から降りて気球のある場所までマリアベルをエスコートした。
気球は空色で、花や太陽といった模様が金色で描かれている。
熱気球の風船部分にあたる球皮の下には、藤で編まれたバスケットが繋がっている。
マリアベルがレナートと一緒に乗りこむと、すぐに気球が熱せられた。
球皮が完全にふくらむと、ふわりとバスケットが地面から離れる。
「まあ」
ゆっくり、ゆっくりと、気球が浮き上がる。
マリアベルには、周りの空気が重さを増したかのように感じられた。
思わずバスケットの外を見下ろすと、思ったよりも地上から離れているのに気がつく。
マリアベルは、怖くなって思わずレナートに身を寄せた。
それを優しく抱き留めたレナートは、マリアベルのつむじに唇を寄せる。
「ベル、これが我がガレリア帝国だ」
静かな声に、マリアベルはレナートの視線の先を辿る。
そこには白を基調とし青い屋根を持つ皇宮が見える。荘厳でありながら優美なシルエットに、思わず感嘆のため息が漏れる。
「まあ、なんて素晴らしい……」
皇宮の向こうには、皇都があり、その向こうには青い海が広がっている。
レナートと同じ色だ、とマリアベルは思った。
かつてのマリアベルが住んでいた王都から海までは遠く、これほど身近に海を感じることはなかった。
けれど今、青い海はこんなにも近い。
マリアベルはふと視線を上げる。
そこには抜けるような青空が広がっていて、少しだけ懐かしい気持ちを覚える。
時間がゆっくりと流れていく。
「レナート様」
「なんだ?」
「ここに連れてきてくださってありがとうございました。上から見る皇都というのもまた、格別なものですね。私、ここから見る景色もとても好きです」
マリアベルの突然の言葉に、レナートは一瞬目を見開いて、それから鮮やかな笑みを浮かべる。
「これからももっと帝国を好きになってくれると嬉しい」
「はい」
二人はそうして寄り添ったまま、夕焼けに染まりつつある帝都を見続けていた。
ホワイトデーに間に合いました!




