32話 アネットの妃教育(王国視点)
爽やかな風が木々の間を吹き抜けていった。
渡り廊下を歩いていたエドワードは、葉擦れの音を耳にして足を止める。
ふと思い立って窓の外を見ると、強くなった日差しが緑の葉を色濃く照らしていて、夏の訪れを予感させていた。
正面にある枝を広げた樹はエドワードが生まれた年に植えられたもので、いつの間にこんなに大きくなったのかと少し驚いた。
まだエドワードが幼かった頃、樹の高さが低くちょうど良い位置に枝があったので、枝に手をかければすぐに登れそうな気がして試そうとしたことがある。
すぐに侍従に見つかってしまって怒られてしまったけれど、ふとその時のことを思い出した。
侍従がずっと怒っているのに聞き飽きて周りを見回すと、ちょうどこの渡り廊下を歩いていたマリアベルと目が合った。
目の前の緑よりも鮮やかなエメラルドグリーンの瞳が大きく見開かれ、真ん丸になった目が驚いたようにエドワードを見ていた。
そういえば、昔は喜怒哀楽がすぐに顔に出ていたような気がする。
エドワードは、婚約を破棄した幼馴染の、見慣れた感情を表に出さない冷たい顔を思い出し、いつからああなってしまったのだろうかと考える。
エドワードは軽く頭を振ると、考えても仕方のないことだと思いながら、渡り廊下の先へ進む。
王宮の端にある一角は、妃教育の行われている場所だ。
座学だけではなくダンスの練習もできるように、小さな広間も備えられている。
エドワードはダンスの練習を始める時間に合わせ、新しい婚約者となったアネットのパートナーを務めようと訪れたのだ。
最近ではダンスも上達してきて、エドワードの足を踏まなくなってきた。
まだまだマリアベルのように完璧に踊ることはできないが、そのうちにもっと上手くなるだろう。
そう思ってきたのだが、普段よりも早い時間だからか、アネットはまだ来ていない。
エドワードは、誰もいない広間を見てがっかりした。
なんとなく、あの笑顔を見て癒されたかったのだ。
エドワードは、いつもは広間でアネットを待っているのだが、思いついてアネットが座学を学んでいる部屋に行ってみることにした。
まだ学び始めたばかりのアネットは、勉強をしているところを見られるのは恥ずかしいから、エドワードには座学の部屋に来ないでくれと頼んでいた。
きっと見に行ったら機嫌を損ねてしまうだろうが、こっそり見にいけば大丈夫に違いない。
ダドリー夫人の後任の教師も、アネットはがんばっていると褒めていたから、後でエドワードが褒めてあげればきっと機嫌を直すだろう。
エドワードはそう思って、こっそり部屋を訪ねてみた。
座学を教える部屋の扉は、中に妃教育を受けている女性がいる時には開かれたままだ。
いくら教師が女性といっても、妃となるものは、寝室にいる時以外はいついかなる時も扉を閉めた部屋にいることはできない。
アネットが学ぶ部屋も、大きく扉が開かれていた。
「アネット様、こちらのつづりが間違っておられますよ」
そう諭す、優しい教師の声が部屋の奥で聞こえる。
ダドリー夫人の後任として招いたスミス夫人は男爵家の出身ではあるが、アネットも慕っているようなのでさぞかし勉強がはかどっていることだろう。
エドワードは微笑ましく思いながら耳を澄ます。
「えっ、嘘。……あー、ほんとだ。もうっ、どうしてこんなに難しいの」
「大丈夫、すぐに覚えられます。ではもう一度こちらのお手本をご覧になって覚えてください。……よろしいですか? それではお手本を見ないで書いてください」
「えーっと、アネット・ダンゼル……。これでいいかな」
平民であったアネットに名字はない。だがダンゼル公爵の養女となった今は、ダンゼルの名を名乗っている。
「さすがアネット様、すぐに覚えていらっしゃいますね。では今度はエドワード様のお名前を書いていきましょう。お手本はこちらです」
「うわぁ、これはまためんどくさい……。もうエドでいいじゃない?」
「さすがに王太子殿下のお名前を省略することはできませんよ」
「はーい。分かりました」
アネットとスミス夫人のやりとりを聞いていたエドワードは、真っ青になってその場を離れた。
護衛達は具合でも悪くなったのかと、慌てふためいた。
「いや、体調は大丈夫だ。心配しなくていい」
そう言いながらも、顔色は悪い。
「しかし、御身に万が一のことがあっては――」
「グレッグ」
「はっ」
エドワードは立ち止まって、護衛の中でも一番長く就いてくれているものの名を呼んだ。
「もしかしてアネットは、読み書きができないのだろうか?」
グレッグは、一瞬口ごもったが「はい」と頷く。
「あのかたは元々平民でいらしたので、簡単な言葉を読むことはおできになるようですが、書くほうは現在学ばれているところのようです」
「そう、か……」
エドワードには衝撃的な事実だった。
アネットが平民であるのは知っていたが、まさか字を書けないとは思わなかった。
それに、あの言葉遣い。
街で会った時には気にならなかったが、こうして王宮で聞くと、とても品のない響きに聞こえる。
不意に、ダドリー夫人の退職の際の言葉を思い出す。
「完璧な淑女と呼ばれたマリアベル様の後に婚約者となられたのですから、アネット様はそれ以上に素晴らしい女性であることを示さなくてはいけません。普通ではいけない。ただ優れているだけでもいけない。誰よりも飛びぬけて魅力的な女性でなければならないのです。そのことをどうか、お忘れなきようお願いいたします」
あの時は、何を分かり切ったことをと思っていたが、さきほどのアネットの様子を見ていると不安が胸に落ちる。
「グレッグ。アネットは……」
立派な妃となるだろうか、と聞こうとして口を結んだ。
今さら聞いて、どうなるものでもない。
マリアベルとの婚約を破棄してアネットを選んだのは自分なのだ。
であれば、アネットが妃としてふさわしくなるようにサポートするのがエドワードの役目だ。
なにせアネットは、真実の愛の相手なのだから……。
エドワードは胸に湧き上がる不安に蓋をした。
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