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「可愛い顔が、台無しだよ」
「え?」
「じっとしてて」
硬直した私をあやすように優しく笑うと、触れるのを躊躇った指で、私の頬を静かに撫でた。
すると、小さな土の塊が、ジャケットの上を転がって地面に落ちる。
「あ、私、馬鹿なんですよね。もうちょっとで届くって思ったんですけど、無理でしたね……」
妙に早口になって言い訳をすると、同じ速度で恥ずかしさに拍車がかかり、顔が熱くなった。
「いいよ」
「へっ?」
会話が成り立たない先生の返答に、なるべく赤くなった顔を見られないよう、上目遣いで南海先生の表情を伺った。
頬に付いた汚れを拭ってくれた指先が、頬から顎に滑り、私の顔を持ち上げた。
「そういうところも、すごく、好きだよ」
真っ直ぐだけど、柔らかな視線に縛られて、息を飲む。
そのまま、呼吸することを忘れてしまいそう。
でも、好きって……何? どういう、こと?
口を開こうとした時、南海先生のもう一方の手が、私の頬を包み込んだ。
触れてはいけない、大切な物に指を伸ばすように、極めて優しく、わずかに震えて。
その手のひらから伝わるのは、植物からもらうモノによく似た、細やかな光の粒子。
誰かが私の脳内に開けた空洞に、静かに降り積もり、まるでその傷を癒すように染みこんでいく。
「何も、言わないで」
どうしてと聞き返したかったのに、先生から与えられるあまりの心地よさに、何も言えず、私はゆっくりと瞼を閉じた。
疲れ果て、凝り固まっていたはずの頭の中が、だらりと溶けてしまいそうになるほど。
「もっと、気持ち良くしてあげるよ」
その声が、現実なのか、それとも、指先を伝わる先生のココロの声なのか、私にはもう判断がつかなかった。
言葉が、どんな意味なのかも。
夢の中の更にずっと奥、今まで感じたことのない場所へ、ただ誘われるまま、すべてを委ねた。
「わぁぁぁーっ!!!! 何やってんだよっ!」
男にしては甲高い川島くんの悲鳴に目を開くと、南海先生の顔があまりにも近すぎて、思わず叫んでしまいそうになる。
その声を封じ込めるように、南海先生の指先が私の唇にそっと触れた。
そして、何もなかったように微笑むと川島くんを振り返る。
「川島くんにも見せたかったな。今、桜井さん、すごい転び方だったんだよ」
先生は私の手を取り立ち上がり、すっかり力の抜けた体を引き起こしてくれた。
「そんなに睨むなよ。僕が押し倒したとでも言いたそうな顔だな」
南海先生の言葉に驚いて川島くんを見ると、ただでさえ人相の悪い三白眼をますます吊り上げて、物言いたげにこっちを睨んでいる。
その視線が、南海先生のほうから突然私に向きを変え、突き刺さった。
「うっ……も、元はといえば、川島くんがあんなところに鋏置くからっ!」
私はまだ棚の上に置かれたままの鋏を指差し訴えたけど、川島くんの疑いの眼差しは変わらない。
正確に言えば、横着した私が悪かったんだけど、今それを言えるような状況じゃない。
「じゃあ、僕はそろそろ職員室に戻るよ」
ちらりと私を振り返り、南海先生はまだ目を吊り上げたままの川島くんの横を過ぎ、温室を出て行った。
先生を見送ると川島くんと再び目が合い、なんとなく気まずくて、目を逸らし制服についた土を払い落とす。
「何、やってたんだよ」
「だから……転んじゃって」
唇を噛んで川島くんの顔を覗くと、頬を引きつらせてこっちを睨んでる。
「あの、あれ、鋏を取ろうとしたら、転んじゃって、ただそれだけだってば」
「俺が聞きたいのは、そのあとの、ついさっきのことだよ」
「へ……?」
「なんか、その、なんだよ、ただそれだけにしては、顔が……めちゃくちゃ近すぎじゃね?」
「えっ!?」
確かに、川島くんの声を聞いて目を開けたとき、先生の顔が近すぎて驚いたけど。
って……私、何しようとしてた?
一気に血の気が引いていく。
「俺……キス、でも…してるのかと思った……」
川島くんが怒った顔を照れたように赤くして、小さな声でぼそりと呟く。
ウソ。
思わず両手で頬を押さえ、つい今までのことを思い出そうとする。
「ち、ち、違うっ! そ、そんなの、するわけないじゃないっ!! 何なのっ!?」
「バカ! 聞きたいのはこっちのほうだよっ!」
「だって、転んで…ひっくり返った鉢の土がこぼれて、先生がほっぺたに付いた泥を取ってくれて……」
そして。
先生の指先から、いつも植物が私を癒してくれるような光の粒が伝わってきたのだ。
これは川島くんに言うわけにはいかないと、私は口をつぐんだ。
でも、その後のことが上手く思い出せない。
先生が何かを言ったはずだ。
ただ、頭の中が優しい光に包み込まれ、身体が宙に浮いたみたいに気持ち良くて……いつ目を閉じたのかも覚えていない。
「ったく、何回も言ってるけど、しおりは男に対してガードが甘すぎるっ!」
「ごめんなさい……」
「俺が伊吹だったら、どーすんだよ!」
「お、お願いだから、北原には黙ってて」
「んあ? なんでだよ、やっぱ後ろめたいことしてんじゃねーの」
「違うってばっ!」
腕を組んで眼を付けてくる川島くんに、私は両手のひらを合わせて首を左右に振った。
「北原には、余計な心配させたくないの。私のことで成績下がっちゃったら大変なことになるから……」
「だったらっ! ぼーっとしてあんなことになってんじゃねぇよっ」
「……はぁい」
自覚してねぇだろ、と人差し指で額を小突かれ、とりあえず笑って誤魔化しておく。
もちろんあんなこと、するつもりじゃなかった。
呆然として、その場の雰囲気に流されてしまうにも程がある。
私は指先でこめかみを押しながら、唇を尖らせた。
何が起きたのか、どうして先生とあんなふうに顔を寄せていたのか、どうしてもよくわからない。
南海先生から伝わった無数の光の粒が、記憶にベールをかけているかのようで。
ぶつぶつ文句を言いながら、転がった鉢に土を戻し始めた川島くんのとなりにしゃがみ、私もミニバラの苗に手を伸ばした。
「痛っ」
「なぁにやってんだよ」
不用意に伸ばした指先に、バラの棘が刺さってしまった。
川島くんの呆れた冷ややかな声に、痛みと共に涙がこみ上げてくる。
なんだかこのミニバラにも怒られているような気がして、私は肩をすくめた。




