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Don't Touch!  作者: 鳴海 葵
Lesson4
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「可愛い顔が、台無しだよ」

「え?」

「じっとしてて」


 硬直した私をあやすように優しく笑うと、触れるのを躊躇った指で、私の頬を静かに撫でた。

 すると、小さな土の塊が、ジャケットの上を転がって地面に落ちる。


「あ、私、馬鹿なんですよね。もうちょっとで届くって思ったんですけど、無理でしたね……」


 妙に早口になって言い訳をすると、同じ速度で恥ずかしさに拍車がかかり、顔が熱くなった。


「いいよ」

「へっ?」


 会話が成り立たない先生の返答に、なるべく赤くなった顔を見られないよう、上目遣いで南海先生の表情を伺った。

 頬に付いた汚れを拭ってくれた指先が、頬から顎に滑り、私の顔を持ち上げた。


「そういうところも、すごく、好きだよ」


 真っ直ぐだけど、柔らかな視線に縛られて、息を飲む。

 そのまま、呼吸することを忘れてしまいそう。

 でも、好きって……何? どういう、こと?

 口を開こうとした時、南海先生のもう一方の手が、私の頬を包み込んだ。

 触れてはいけない、大切な物に指を伸ばすように、極めて優しく、わずかに震えて。

 その手のひらから伝わるのは、植物からもらうモノによく似た、細やかな光の粒子。

 誰かが私の脳内に開けた空洞に、静かに降り積もり、まるでその傷を癒すように染みこんでいく。


「何も、言わないで」


 どうしてと聞き返したかったのに、先生から与えられるあまりの心地よさに、何も言えず、私はゆっくりと瞼を閉じた。

 疲れ果て、凝り固まっていたはずの頭の中が、だらりと溶けてしまいそうになるほど。


「もっと、気持ち良くしてあげるよ」


 その声が、現実なのか、それとも、指先を伝わる先生のココロの声なのか、私にはもう判断がつかなかった。

 言葉が、どんな意味なのかも。

 夢の中の更にずっと奥、今まで感じたことのない場所へ、ただ誘われるまま、すべてを委ねた。


「わぁぁぁーっ!!!! 何やってんだよっ!」


 男にしては甲高い川島くんの悲鳴に目を開くと、南海先生の顔があまりにも近すぎて、思わず叫んでしまいそうになる。

 その声を封じ込めるように、南海先生の指先が私の唇にそっと触れた。

 そして、何もなかったように微笑むと川島くんを振り返る。


「川島くんにも見せたかったな。今、桜井さん、すごい転び方だったんだよ」


 先生は私の手を取り立ち上がり、すっかり力の抜けた体を引き起こしてくれた。


「そんなに睨むなよ。僕が押し倒したとでも言いたそうな顔だな」


 南海先生の言葉に驚いて川島くんを見ると、ただでさえ人相の悪い三白眼をますます吊り上げて、物言いたげにこっちを睨んでいる。

 その視線が、南海先生のほうから突然私に向きを変え、突き刺さった。


「うっ……も、元はといえば、川島くんがあんなところに鋏置くからっ!」


 私はまだ棚の上に置かれたままの鋏を指差し訴えたけど、川島くんの疑いの眼差しは変わらない。

 正確に言えば、横着した私が悪かったんだけど、今それを言えるような状況じゃない。


「じゃあ、僕はそろそろ職員室に戻るよ」


 ちらりと私を振り返り、南海先生はまだ目を吊り上げたままの川島くんの横を過ぎ、温室を出て行った。

 先生を見送ると川島くんと再び目が合い、なんとなく気まずくて、目を逸らし制服についた土を払い落とす。


「何、やってたんだよ」

「だから……転んじゃって」


 唇を噛んで川島くんの顔を覗くと、頬を引きつらせてこっちを睨んでる。


「あの、あれ、鋏を取ろうとしたら、転んじゃって、ただそれだけだってば」

「俺が聞きたいのは、そのあとの、ついさっきのことだよ」

「へ……?」

「なんか、その、なんだよ、ただそれだけにしては、顔が……めちゃくちゃ近すぎじゃね?」

「えっ!?」


 確かに、川島くんの声を聞いて目を開けたとき、先生の顔が近すぎて驚いたけど。

 って……私、何しようとしてた?

 一気に血の気が引いていく。


「俺……キス、でも…してるのかと思った……」


 川島くんが怒った顔を照れたように赤くして、小さな声でぼそりと呟く。

 ウソ。

 思わず両手で頬を押さえ、つい今までのことを思い出そうとする。


「ち、ち、違うっ! そ、そんなの、するわけないじゃないっ!! 何なのっ!?」

「バカ! 聞きたいのはこっちのほうだよっ!」

「だって、転んで…ひっくり返った鉢の土がこぼれて、先生がほっぺたに付いた泥を取ってくれて……」


 そして。

 先生の指先から、いつも植物が私を癒してくれるような光の粒が伝わってきたのだ。

 これは川島くんに言うわけにはいかないと、私は口をつぐんだ。

 でも、その後のことが上手く思い出せない。

 先生が何かを言ったはずだ。

 ただ、頭の中が優しい光に包み込まれ、身体が宙に浮いたみたいに気持ち良くて……いつ目を閉じたのかも覚えていない。


「ったく、何回も言ってるけど、しおりは男に対してガードが甘すぎるっ!」

「ごめんなさい……」

「俺が伊吹だったら、どーすんだよ!」

「お、お願いだから、北原には黙ってて」

「んあ? なんでだよ、やっぱ後ろめたいことしてんじゃねーの」

「違うってばっ!」


 腕を組んで眼を付けてくる川島くんに、私は両手のひらを合わせて首を左右に振った。


「北原には、余計な心配させたくないの。私のことで成績下がっちゃったら大変なことになるから……」

「だったらっ! ぼーっとしてあんなことになってんじゃねぇよっ」

「……はぁい」


 自覚してねぇだろ、と人差し指で額を小突かれ、とりあえず笑って誤魔化しておく。

 もちろんあんなこと、するつもりじゃなかった。

 呆然として、その場の雰囲気に流されてしまうにも程がある。

 私は指先でこめかみを押しながら、唇を尖らせた。

 何が起きたのか、どうして先生とあんなふうに顔を寄せていたのか、どうしてもよくわからない。

 南海先生から伝わった無数の光の粒が、記憶にベールをかけているかのようで。

 ぶつぶつ文句を言いながら、転がった鉢に土を戻し始めた川島くんのとなりにしゃがみ、私もミニバラの苗に手を伸ばした。


「痛っ」

「なぁにやってんだよ」


 不用意に伸ばした指先に、バラの棘が刺さってしまった。

 川島くんの呆れた冷ややかな声に、痛みと共に涙がこみ上げてくる。

 なんだかこのミニバラにも怒られているような気がして、私は肩をすくめた。


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