epilogue 「i hope...」
木のいい香りと柔らかな空気が全身を包んで、私は一度、大きく深呼吸する。
「冷暖房完備、キッチン、トイレに洗面所にシャワー付きだよ」
「……シャワー!?」
倉田先生のあとについていくと、言うとおり、小さなキッチンと、隣にあるドアの向こうには、ガラス張りのシャワールームが見えた。
「な、なんで」
「ほら、夏なんか汗かくでしょ? 理事長が自分で使うためにつけたんだって。だけど、みんなも使っていいって言ってたよ」
「マジで!? すげーじゃん、俺、ここに寝泊りしよっかなぁ」
呆れる私をよそに、にこやかな倉田先生と川島くんはシャワールームを覗き込みながら楽しそうにそんなことを言う。
そして、今度はキッチンの扉を片っ端から開けて、冷蔵庫だレンジだなんだを確認して満足そう。
「伊吹、すごくね? 俺、ここで勉強……って、いねーし」
嬉々とした顔で振り返った川島くんだけど、そこにお目当ての北原はいなかった。
私も振り返って、さっきまでいたはずの姿を探すけど、いつの間にかここを出たのか見当たらない。
「理事長は、きれいに使ってくれれば問題ないって言ってたから、よろしくね、桜井さん」
「あ、はぁ……」
ついに、ログハウスの部室が完成したのだけど。
部室というより、ちょっとした家だ。
12畳くらいの1Kルームには、4脚のイスにはもったいないような、大きな一枚板のテーブルと、暮すのに十分な設備が整ってる。
テレビなんかの娯楽電化製品や、ベッドだソファなんてものは無いけど、寝袋で床に転がればゆっくり眠れそう。
さしずめ、理事長の隠れ家とでもいったところか。
倉田先生と川島くんは、まだふたりで楽しそうにあちこちに手をつけてるけど、私はもう一度ぐるりと部屋を見渡して、外へ出た。
「さむ……」
すっかり冷たくなった風に、両腕をさすり、身を縮める。
三段の階段を降りると、私は目の前の温室に駆け込んだ。
「どうだった?」
「あ、北原もあとでゆっくり見たら? あれが部室だなんて、すごく贅沢な感じ」
「へえ」
土の乾き具合をチェックしながら、北原は緑のジョーロで水をあげていた。
夏休みの終わり、北原が園芸部副部長宣言をしてから、今では水遣りも手入れも、すっかり手馴れたものだ。
私が一時期、ここに近寄りたくなかった時も、マメに世話をしていてくれたのはわかってたけど。
なんだか、不思議。
宮元先輩と香奈のことがあって、いつのまにか北原がここに居座るようになって。
川島くんの事件が起きて、ふたりが園芸部員になって。
半年前に考えられなかった状況が、今ここにある。
初めて北原にあった時、まさかここで一緒に並んで植物の手入れをするなんて、思いもしなかった。
まして……。
「何、ぼーっとしてるんだ」
「えっ、あ、や、べつに……」
私の返事に、呆れ顔でちょっとだけ微笑む。
こんなふうに北原が私に微笑んでくれるとか、全然考えられなかったし。
「今日、補習は?」
「今日は無いの」
「へぇ、めずらしいこともあるもんだな」
「……くっ」
北原を見ると、優しい微笑みはどこへやら。
いつもの嫌味たっぷりの目で私を見下ろし、片方の口角だけ上げて笑う。
な・ん・な・の・よっ!
「私だって、そんなに毎日毎日補習ってわけじゃないわよ」
「ふぅん。そういえば、来週からの考査、大丈夫か?」
「えっ……」
「約束、忘れてないよな」
視線を手元の植物に戻して、だけど口調は私に念を押すように言う。
忘れていないけど、忘れたいです。
そんなこと、言えない。
だけど、何か言い返さなきゃ、嘘でも忘れてないって言わなきゃ、また睨まれそう。
「桜井」
「は、はいっ?」
引きつって鋭い視線を受け止めようとするけど、北原は手元から目線を動かさず、私を手招きする。
「ちょっと」
「……何?」
恐る恐る近づくと、私も北原の視線の先を追った。
そこにあったのは。
「あ……咲いてる」
驚いた。
倉田先生にもらったあの花が、薄桃色の五枚の花びらが大きく開いている。
この花を見るのは、夏休みあとから、これで二度目だ。
「桜井さん、願い叶った?」
振り返ると、倉田先生が笑顔で立っていた。
「えっ、は……ははは」
はい、と頷くのが恥ずかしくて。
そのまま笑って誤魔化すと、先生は私たちの横に並んで、花を覗き込んだ。
「じゃあ、この花が終わったら、次は北原くんだね」
「え?」
「桜井さんの願いは叶ったみたいだから、今度は北原くんがこのコの世話をしてあげて。花が咲いたら、願いが叶う、不思議な植物」
そう言って鉢に手を伸ばすと、倉田先生は直々に北原に手渡した。
ニコニコ満面の笑みの倉田先生と、呆然とそのやり取りを見つめる私を交互に見たあと、北原は首を若干傾けたまま頷いた。
「……わかりました」
納得してないふうだけど、あげたほうの倉田先生は満足げに温室を出て行く。
私にくれたはずの物だったのに、あっけなく北原に所有権を奪われて、今更ながらちょっと悔しい気分になった。
「いいのか?」
「え?」
「俺が貰っても」
「だって、先生が北原に世話を任せるって言ったんだから、しょうがないじゃない」
言い終わった後、未練がましい台詞になってしまったと後悔する。
北原がどう思うか、ちょっとだけ気になったけど。
私は北原の手の中に収まってる花を、人差し指でそっと触れてみる。
静かに揺れる名もなき花に、私は心の中でありがとうと呟いた。
「桜井が、俺と同じ大学に行けますように」
頭上から降ってきた冷静な声に、私の思考回路が凍結する。
「な、んて?」
すぐさま顔を上げて、耳を疑うような言葉をもう一度復唱してほしくて聞き返した。
「だって、願いが叶うんだろ?」
「そーじゃなくてっ」
「『桜井が、俺と同じ大学に行けますように』?」
あまりにも衝撃的な「お願い」に、私は言葉を失った。
絶対、ぜぇーったい、
「無」
「無理じゃない」
無理! って言おうとした私に、すかさず北原が声を被せた。
いつもの有無を言わさぬ、目を逸らすことのできない鋭い視線が私を見下ろしている。
そして、楽しそうに微笑んだ。
「倉田先生の夢を壊さないためにも、願い叶えような」
「うっ……」
嘘でしょっ!? 冗談、有り得ないーっ!!
「伊吹ーっ、部室見たのかよ。マジですげーから、早く来いよ」
温室の入り口から聞こえてきた川島くんの声に、私はびくりと肩を震わせ振り返る。
「わかった。今行く」
鉢を元の場所に戻して、北原は平然と私の横を通り過ぎ、川島くんと一緒に部室に向かう。
北原がいなくなった瞬間に、窒息しそうだった私は何度も大きく息をした。
こんなの、想像してた恋愛じゃないーっ。
今後の高校生活を思うとウンザリして、私はがっくりと肩を落とした。
北原が同じ大学に行きたいって思ってくれてるのは、嬉しいんだけど。
「やっぱり、絶対違うっ!」
もっとこう、優しくするとか、慰めてくれるとか……。
なんて、そんなことを北原に期待すること自体が間違ってるのかも。
私たちがベタベタするのなんて、やっぱり想像できないし。
今更ながら、とんでもない相手を好きになってしまったんだと、私は溜息をついた。
◆ Lesson3完結 Lesson4へつづく ◆




