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膝が痛い。
床に敷き詰められた、理事長こだわりのレンガはアンティーク風でカッコイイし、私も気に入っているのだけど、今度ばかりはそのざらざらな表面に膝をやられた。
高校生にもなって、子供みたいに擦り傷を作るなんて思わなかった。
じりじりと焼けるように熱い膝は、たぶん、血が出てると思う。
「発作か何かなの?」
北原の横にしゃがんだあやのさんが、心配そうに聞いてくれるけど、私はただ首を横に振った。
ちらりと北原のほうを見ると、いつものように私を睨みつけていて。
三人が三人とも黙りこくったまま、いかにも気まずい空気が流れてる。
不意に北原が私の右手を取ると、手のひらにできたかすり傷を見つけ、顔をしかめた。
「……ったく」
「なによっ」
私は北原の手を振り払い、自分でも気付いてなかったその傷を見て、覆うように左手を重ねた。
「これくらい、大丈夫よ」
北原から顔を背けると、表情を失ったあやのさんと目が合ってしまった。
あやのさんは驚いたように目を大きく開いて、すぐに微笑を取り戻す。
「び、びっくりしちゃった。急にあんなふうになっちゃうから」
「……すいません」
軽く頭を下げると、あやのさんは首を横に振った。
そして、再び訪れる沈黙。
私が立ち上がれば、ふたりも何か喋るだろうか。
それとも、ふたりとも、私がいなくなることを期待してる?
少なくとも、あやのさんは……。
「北原、留学するんでしょ。すごいね、がんばって」
まったく気持ちのこもってない言葉の羅列は、薄っぺらで抑揚なんか全くない。
顔だって、まともに見れっこない。
立ち上がろうとすると、先に北原が立ち上がり、私の目の前には大きな手が差し出された。
いつも意地悪なくせに、どうして今ここで、そんな優しいフリするの。
あやのさんの前、だから?
私は北原の手と、支えてくれようとしたあやのさんを避けて立ち上がった。
「あ、あと……この前は、私もごめんなさい。昨日は、ただそれだけ謝りたかったの。じゃあ」
私も謝った。
どうでもよかったけど、これでもう悔いはない。
胸の中にもやもやとする何かも、倉田先生の時みたいにいっぱい泣いて、時間が経てば消えていくはずだ。
右足をおそらく擦り剥いたところから、流れ出た血が伝っていくのがわかる。
この場所から逃げ出そうと足を踏み出すと、鈍い痛みが走って思わず唇を噛んだ。
「桜井」
背後から聞こえる北原の声にも、立ち止まらなかった。
「待てよ」
「伊吹!」
それなのに、悲しく響いたあやのさんの声に、私も一度足が止まってしまう。
近づいてきたはずの北原の足音も消える。
「お願い、行かないで」
あやのさんの消えてしまいそうな声。
振り返らずとも、正面にある窓ガラスに、うっすらと背後のふたりの様子が映し出された。
北原の背中、肩のあたりに顔を埋めるあやのさんと、ゆっくりと彼女を振り返る北原。
そんなの、見せつけないでよ。
私は膝の痛みなんか忘れて中庭を飛び出した。
廊下を走りながら、曲げると軋むような膝がやっぱり痛くて仕方なくて。
「バカっ」
自由にならない膝のことか、こんなことしかできない自分にか、何に対してなのか、自分でもよくわからないけど、そう叫ばずにはいられなかった。
夢中で逃げるように温室までたどり着くと、私は膝に手をつき、乱れた息を整える。
やがて身体を起こすと、右手には乾きかけた血がついていた。
「何やってるんだろ……」
温室に足を踏み入れると、大きく溜息をついた。
とたんに、さっきの北原とあやのさんの姿が脳裏をよぎり、血がついたままの右手で前髪をぐしゃりと握る。
もう、嫌だ。
でも、これでひとつ、また終わるのだ。
北原がいなくなれば、こんな気分になることもないし、うんざりすることもなくなる。
不思議と、涙が出なかった。
「せいせいしたわよ」
だけど、どこか腹の虫が治まらない。
あんな場面を見せつけられて、悲しいというよりも悔しかった。
なんのつもりか、優しいフリをする北原にもムカついた。
助けを求めるように、私はベンジャミンに触れる。
いつものように、私の中を浄化して欲しい。
「え……?」
触れたはずの葉が、手のひらをすべり、ゆっくりと地面に落ちた。
はじめは、その一枚だけだったのに、指を伸ばすと、触れるか触れないかのところで次々と葉が落ちていく。
ベンジャミンは乾燥に弱い。だから霧吹きで葉にも水をかけてあげなければ、こんなふうに葉が散ってしまうことがあるのだけど。
何か、違う。
私の、せい?
そんな気がして、どうしても確かめたくて、私は昨日咲いたばかりのバラの花に指を伸ばした。
「………!?」
指が触れた瞬間、中心部から弾けるように、幾重にも重なった花びらで形成された大輪が、一瞬にしてその形を失った。
強い匂いを放って、薄いオレンジからピンクにグラデーションがかった花びらが、鮮やかに散っていく。
私は自分の両手のひらを見つめ、不安になって祈るように両手を合わせて指を組んだ。
今まで、こんなこと、一度もなかった。
落ちた花びらを拾い上げると、わずかな粒子が指先から伝って私の中に降り注ぎ、そして、すぐに消えいく。
私は狭い温室の中を見渡した。
いつも受け入れてくれるはずの植物たちにも、見放されてしまったんだろうか。
「……どうして」
指先が震える。
また、ひとりになる。
せっかく見つけたこの場所も、やっと心を開けると思った人も、失ってしまう。
こみ上げる感情と共に、涙が浮かんでくる。
ここにもいられないと思い、振り返ったときだった。
「……北原」
弾んだ息を抑えるようにして、まっすぐこっちへ向かってきた。
「かなり遅刻」
そう言って、腕時計を指差して私を睨んだ。




