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Don't Touch!  作者: 鳴海 葵
Lesson3
83/127

file4-5

 膝が痛い。

 床に敷き詰められた、理事長こだわりのレンガはアンティーク風でカッコイイし、私も気に入っているのだけど、今度ばかりはそのざらざらな表面に膝をやられた。

 高校生にもなって、子供みたいに擦り傷を作るなんて思わなかった。

 じりじりと焼けるように熱い膝は、たぶん、血が出てると思う。


「発作か何かなの?」


 北原の横にしゃがんだあやのさんが、心配そうに聞いてくれるけど、私はただ首を横に振った。

 ちらりと北原のほうを見ると、いつものように私を睨みつけていて。

 三人が三人とも黙りこくったまま、いかにも気まずい空気が流れてる。

 不意に北原が私の右手を取ると、手のひらにできたかすり傷を見つけ、顔をしかめた。


「……ったく」

「なによっ」


 私は北原の手を振り払い、自分でも気付いてなかったその傷を見て、覆うように左手を重ねた。


「これくらい、大丈夫よ」


 北原から顔を背けると、表情を失ったあやのさんと目が合ってしまった。

 あやのさんは驚いたように目を大きく開いて、すぐに微笑を取り戻す。


「び、びっくりしちゃった。急にあんなふうになっちゃうから」

「……すいません」


 軽く頭を下げると、あやのさんは首を横に振った。

 そして、再び訪れる沈黙。

 私が立ち上がれば、ふたりも何か喋るだろうか。

 それとも、ふたりとも、私がいなくなることを期待してる?

 少なくとも、あやのさんは……。


「北原、留学するんでしょ。すごいね、がんばって」


 まったく気持ちのこもってない言葉の羅列は、薄っぺらで抑揚なんか全くない。

 顔だって、まともに見れっこない。

 立ち上がろうとすると、先に北原が立ち上がり、私の目の前には大きな手が差し出された。

 いつも意地悪なくせに、どうして今ここで、そんな優しいフリするの。

 あやのさんの前、だから?

 私は北原の手と、支えてくれようとしたあやのさんを避けて立ち上がった。


「あ、あと……この前は、私もごめんなさい。昨日は、ただそれだけ謝りたかったの。じゃあ」


 私も謝った。

 どうでもよかったけど、これでもう悔いはない。

 胸の中にもやもやとする何かも、倉田先生の時みたいにいっぱい泣いて、時間が経てば消えていくはずだ。

 右足をおそらく擦り剥いたところから、流れ出た血が伝っていくのがわかる。

 この場所から逃げ出そうと足を踏み出すと、鈍い痛みが走って思わず唇を噛んだ。


「桜井」


 背後から聞こえる北原の声にも、立ち止まらなかった。


「待てよ」

「伊吹!」


 それなのに、悲しく響いたあやのさんの声に、私も一度足が止まってしまう。

 近づいてきたはずの北原の足音も消える。


「お願い、行かないで」


 あやのさんの消えてしまいそうな声。

 振り返らずとも、正面にある窓ガラスに、うっすらと背後のふたりの様子が映し出された。

 北原の背中、肩のあたりに顔を埋めるあやのさんと、ゆっくりと彼女を振り返る北原。


 そんなの、見せつけないでよ。


 私は膝の痛みなんか忘れて中庭を飛び出した。

 廊下を走りながら、曲げると軋むような膝がやっぱり痛くて仕方なくて。


「バカっ」


 自由にならない膝のことか、こんなことしかできない自分にか、何に対してなのか、自分でもよくわからないけど、そう叫ばずにはいられなかった。

 夢中で逃げるように温室までたどり着くと、私は膝に手をつき、乱れた息を整える。

やがて身体を起こすと、右手には乾きかけた血がついていた。


「何やってるんだろ……」


 温室に足を踏み入れると、大きく溜息をついた。

 とたんに、さっきの北原とあやのさんの姿が脳裏をよぎり、血がついたままの右手で前髪をぐしゃりと握る。

 もう、嫌だ。

 でも、これでひとつ、また終わるのだ。

 北原がいなくなれば、こんな気分になることもないし、うんざりすることもなくなる。

 不思議と、涙が出なかった。


「せいせいしたわよ」


 だけど、どこか腹の虫が治まらない。

 あんな場面を見せつけられて、悲しいというよりも悔しかった。

 なんのつもりか、優しいフリをする北原にもムカついた。

 助けを求めるように、私はベンジャミンに触れる。

 いつものように、私の中を浄化して欲しい。


「え……?」


 触れたはずの葉が、手のひらをすべり、ゆっくりと地面に落ちた。

 はじめは、その一枚だけだったのに、指を伸ばすと、触れるか触れないかのところで次々と葉が落ちていく。

 ベンジャミンは乾燥に弱い。だから霧吹きで葉にも水をかけてあげなければ、こんなふうに葉が散ってしまうことがあるのだけど。

 何か、違う。

 私の、せい?

 そんな気がして、どうしても確かめたくて、私は昨日咲いたばかりのバラの花に指を伸ばした。


「………!?」


 指が触れた瞬間、中心部から弾けるように、幾重にも重なった花びらで形成された大輪が、一瞬にしてその形を失った。

 強い匂いを放って、薄いオレンジからピンクにグラデーションがかった花びらが、鮮やかに散っていく。

 私は自分の両手のひらを見つめ、不安になって祈るように両手を合わせて指を組んだ。

 今まで、こんなこと、一度もなかった。

 落ちた花びらを拾い上げると、わずかな粒子が指先から伝って私の中に降り注ぎ、そして、すぐに消えいく。

 私は狭い温室の中を見渡した。

 いつも受け入れてくれるはずの植物たちにも、見放されてしまったんだろうか。


「……どうして」


 指先が震える。

 また、ひとりになる。

 せっかく見つけたこの場所も、やっと心を開けると思った人も、失ってしまう。

 こみ上げる感情と共に、涙が浮かんでくる。

 ここにもいられないと思い、振り返ったときだった。


「……北原」


 弾んだ息を抑えるようにして、まっすぐこっちへ向かってきた。


「かなり遅刻」


 そう言って、腕時計を指差して私を睨んだ。


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