file4 「inspire」
私から、手を伸ばしたわけじゃない。
だけど、その手は、しっかりと私を握って引き寄せてくれる。
ふらふらと道を踏み外しそうになると、どこからともなく現れて、私を助けてくれた。
まるで、ヒーローみたいに。
私から手を伸ばせば、振り解かれてしまうような気がして怖かった。
許してくれるかどうかわからない、消せない過去も、ずっと引っかかってる。
『苦しくて、憎くて、それでも俺はあなたが好きでした』
北原の絞り出すような声。
溢れ出す想いと共に零れる涙は、誰のものだろう。
重なるふたつの影。
華奢な背中に回される、制服の袖から伸びた大きな手。
ふわりと揺れる黒髪が、その手を撫でるように滑る。
私と彼らの間には、透明な水の壁がある。
溺れそうな私は必死で手を伸ばすのに、北原はちっともこっちを見てくれない。
私を掴んでくれるはずの手は、今は彼女の頭を優しく撫でている。
そして、彼女の耳元に唇を近づけて、何かを囁いた。
聞こえない。
お願い、何を言ってるの?
教えて、聞かせて。
伸ばした手は空を掻き、指先からは何も伝わらない。
どんなに耳を澄ましても、唇を読もうとしても、わからない。
やがて、ゆっくりと顔を上げた北原と目が合った。
『ごめん』
どうして?
『もう、そばにいてあげられない』
どうして、そんなこと言うの?
『彼女の隣にいたいんだ』
イヤだ。
そんなの、嫌。
私は、私は、伊吹にずっとそばに……そばにいて欲しいのに。
少しずつ、ふたりの影がぼやけていく。
行かないで、私を置いて行かないで。
霞んでいく視界は、やがて光を取り戻し、私は部屋のベッドで朝を迎えたんだと気がついた。
痺れが解けていくような目覚めの中、子供みたいに咽び泣いている私がいた。
胸の奥をべったりと悲しい色で塗りたくられたように、何度拭っても涙が溢れて止まらない。
昨日、戻ってこない北原とあやのさんがいる屋上のドアに触れ、余計なことをしたからだろうか。
今の夢は私が勝手に見たものなのか、それともドアの向こうで起きていた事実なのかわからないまま、私は身体を起こした。
遠くに消えてしまった北原の姿を思い出すと、どうしようもなく淋しくて、切ない。
涙を止めようと大きく深呼吸しても治まらない感情に、自分自身、尋常じゃないと思う。
「これっ……て……」
ぎゅっとパジャマの胸元を掴んだ瞬間、壁にかけてあった制服のポケットで、ケータイのバイブレーションと共に、メール着信音が鳴った。
息を飲み、肩の力を抜いてみる。
胸の苦しさと重い頭に私は髪をかき上げてから、もう一度深呼吸する。
まだ目覚まし時計も鳴らない時間に誰だろうと、私はベッドから降り、制服のポケットを探った。
ディスプレイの時計は5:45。
メール受信BOXを開いて、私はとたんに目が覚めた。
「北原……」
こっちからアドレスを教えた覚えはないけれど。
確かにそこには、香奈が登録してくれた「北原」の文字があった。
無題
午後4時に温室で待ってる
たった、それだけ。
だけどいよいよ判決が下されるのだと、私は直感した。
カーテンを開けると、眩しい朝日が家の前の水溜りに反射して、きらきらと輝いていた。
じわり、ゆるやかに感情が静まっていくのがわかる。
それと入れ替わるように、新たな不安がこみ上げてきた。
「晴れて私は釈放か、それとも死刑執行か……」
北原のメールを閉じると同時に私は大きく息を吐いた。
その日の授業がいつも以上に頭に入らなかったのは、言うまでもないことで。
4時になるのが怖いような、でも、いっそのこと早く決着をつけたいような。
最終の6時間目が終わると、体中に嫌な汗が噴出していた。
「桜井」
顔を上げると、終わったはずの数Ⅱ担当教師が私のことを見下ろしていた。
嫌な予感に頬が引きつる。
同時に教師はにんまりと笑った。
「なーに考えて授業受けてるんだ? 放課後、補習決定だ」
そして、垂直方向の教科書が私の頭上に容赦なく降り落とされた。
「痛っ! せ、先生、今日は、今日だけはちょっと……」
頭蓋骨が真っ二つに割れるような痛みに、頭を抱えて哀願してみるものの、先生は首を縦に振ってはくれなかった。
「どーしよー……」
補習開始時間は4時。
温室に呼ばれてるのも4時。
いつもなら、補習なんか蹴ってしまえばいいと即刻判断できるのに、今日の私は迷ってた。
判決を少しでも先延ばしできるなら、そのほうがいいかもしれない。
だけど、わざわざ呼び出すという行為をした北原のことは、裏切りたくない。
一度決意が傾くものの、やっぱりどうしようと考えているうちに、HRも終了してしまった。
時計の針は確実に4時に向かっている。
数学の補習は、数学教師が担任している2つ隣のクラスで行われる。
その教室の前を過ぎて階段を降りていけば、あとは温室に向かうしかない。
早鐘を打つ鼓動とは逆に、のろのろとした足取りで、気付けば私は中庭のドアを開けていた。
「久々に、部長の登場だな」
振り返った川島くんは、鋭い目つきを緩めて笑う。
「ごめん」
私は謝ってから、歯を見せて強引に笑ってみた。
ちょうど、4時を知らせるチャイムが鳴り響いた。




