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「病み上がりにはキツイよ」
もう、ホント、眩暈しそう。
暗い階段を降りてドアを開けると、すぐ横に壁にもたれた愛美先輩が腕を組んで立っていた。
「アンタ、のこのこ追い出されてきたわけ?」
横目でこっちを睨みながら、溜息を吐かれた。
ちょうどチャイムが鳴ったけど、北原が降りてきそうな気配はない。
「あ、の…何か話があるらしいですよ」
「わかってるわよ、そんなの」
「え……?」
「あやの、伊吹を向こうへ連れていくつもりよ」
「えっ!?」
思わず声が大きくなって、前のめりになってしまった体勢を、慌てて私は立て直した。
愛美先輩は視線を戻し、どこか遠い所を見つめるような目をして、口を開いた。
「伊吹の実力なら、今あやのが行ってる大学にも余裕で入れるだろうし、それなら今から向こうのハイスクールに編入して、語学と生活に慣れたほうがいいなんて、もっともらしいこと言っちゃって。本当は自分が淋しいくせに」
最後は吐き捨てるように言うと、先輩は表情を曇らせた。
「伊吹も、あんなひとのどこがいいのよ」
「でも…なんていうか、すごくキレイなヒトですよね」
言ってはいけないことだったのか、今までになくキツイ目で先輩に睨まれた。
「あ、私にも姉がいて。私が言うのも変なんですけど、美人だし、明るくてすごく優しい人で、今では本当に自慢の姉です」
そう、今では。
「だけど、やっぱり中学の時に先生方に比べられて……私、いろいろと期待されてたみたいなんですけど、ぜんぜんそれに応えることができなくて。むしろ、さんざん裏切ったと思います。おかげで、姉の優しさを受け入れられない時もありました」
「……だったら、何なのよ。あなたに気持ちをわかってもらったからって、どうにもならないわよ」
「ですよ…ね」
私は、こういう時、いつも上手く話せない。
いつもなら、このタイミングで北原が現れてくれるんだ。
だけど、今は、ここにいてくれない。
「わかってるの、私だって」
「?」
「あやのと同じコトしても、ダメなんだって。わかってるけど……私だって……」
その先を吐き出してしまえばきっと楽になれるのに、愛美先輩は飲み込むように深く呼吸した。
私、だって。
同じようになりたかった。
誰からも愛されて、穏やかにいつも笑っていて。
そんなふうに振舞いたくても、できない自分がいる。
早く追いつきたいと焦れば焦るほど、かけ離れて遠くなる。手が、届かなくなる。
打ち消したくても消せない存在は、いつからか道しるべとなり、まるで自分の未来を映す鏡のようで。
憎悪は歪んだ愛情。本当は、好きで仕方ないことを、先輩は気付いているのだろうか。
「ここで待っても、しばらくふたりは降りてこないわよ」
ぎょっとして顔を上げると、白衣のポケットに両手をつっこんだホリちゃんが、颯爽と階段を降りてきた。
ホリちゃんの登場に、愛美先輩は取ってつけたような笑顔を作り、失礼しますとこの場を離れた。
「しおり、アンタは待ちなさい」
「えっ!?」
「え、じゃないわよ。ほら、出しなさい」
そう言って、ホリちゃんは私に右手のひらを差し出した。
何の事やら検討もつかず、ただホリちゃんを見つめると、目を細めてこっちを睨む。
「屋上の鍵よ。持ってるんでしょ」
げっ。
思わず鍵の入ったポケットに手を伸ばしそうになり、その手を広げてぶるぶると横に振った。
「私は持ってないよ。……ちょっと借りただけだし」
「持ち主は誰だっていいの。本来、屋上は生徒の立ち入り禁止よ。とにかく、ダメなものはダメなんだから、出しなさいっ」
「ほんとに持ってないってばっ」
ボディチェックされないよう、ある程度距離を置いて白々しく笑ってみる。
今は、この鍵を渡すわけにはいかない。
私たちの逃げ場所がひとつ、減ってしまう。
「まったく」
邪魔そうな大きな胸の前で腕を組むと、もう一度私を睨んでから下へ向かう階段へ足を進めた。
「ホリちゃん」
「なぁに?」
怒った顔で振り返るから、聞きたいことがすぐ口から出てこなかった。
「あの……」
「屋上のふたりのことなら、教えてあげない」
「う……」
あっさりと拒否されて、おまけに背を向けられて、私はホリちゃんに駆け寄った。
「北原って、本当に留学しちゃうの?」
「本人に聞いたら?」
「………」
「ま、悪い話じゃないと思うし、あやのがいれば安心だしね。伊吹には、いいんじゃないのって勧めておいたわ」
「うそ……」
「嘘じゃないわよ、ホントよ」
思わず口をついた言葉にまともに返事をされて、私は唇を噛んだ。
「そんな恨めしいカオしたって、しょうがないでしょ」
「だって」
ホリちゃん、応援してくれてるんじゃなかったの?
そんな意味を込めて見上げると、呆れ顔で見下ろしている。
「選ぶのは伊吹よ。ライバルたちは必死なんだから、たまにはアンタも必死になりなさいっ」
ホリちゃんはグーの出っ張った指の関節部分で、私の額を小突くと、背を向けて降りていった。
衝撃はなかったものの、私は鈍い痛みの残る額を押さえた。
そして、屋上へ向かう、閉じられたドアを見つめる。
ふたりで、何話してるんだろう。
しばらく降りてこないって、何してるんだろう。
もやもやした気持ちを抱えて、私はそのドアの前まで来ると、両手のひらをそっとドアに当てた。
この向こう、階段の上の更にドアの向こうにいるふたりの気持ちを、ここから読むことができるだろうか。
「………」
私は、ゆっくり目を閉じ、頭の中にある扉を開放する準備をした。
大きく深呼吸をして、集中しようとするけれど、上手くいかない。
目を開けると、ベージュ色のドアに重ねられた私の指が映る。
こんなことしようとするから、北原に「覗け」だなんて言われるんだ。
「あー……超自己嫌悪」
両手をドアから離して、軽くそのドアを蹴った。
ごん、と低い音が空しく響く。
本当に、北原はあやのさんといなくなっちゃうのかな。
屋上で、ふたりは何してるんだろう。
すっかりマイナス思考になった私は、後ろ髪を引かれながらもドアに背を向けた。




