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秋は、一雨ごとに冬に近づき、気温が下がるというけれど、そのとおりだ。
11月になれば、気の早いジングルベルが鳴り始める。
今朝もまた、私はわざわざ早起きをして温室に向かっていた。
ブルーの傘に弾ける雨音は静かで、地面を潤す滴は少しずつ体温を奪っていく。
「おはようございます」
振り返ると、白衣の上に濃紺のレインコートを羽織り、長靴を履いた倉田先生が笑顔で立っていた。
「おはようございます」
「桜井さん、寝不足?」
「え?」
「目が腫れてるよ。女の子は十分に睡眠をとらなきゃ、お肌にも良くないんだって」
そう言って横を通り過ぎる先生に、私は思わず苦笑した。
ご指摘どおり、昨日の夜はほとんど眠れなかった。
おまけに悲しかったり悔しかったりで涙は止まらないし。
腫れた瞼に気がついて、起き掛けに目元を冷やしてみたけど、そう簡単に腫れはひいてくれなかった。
北原は愛美先輩との関係を否定したものの。
「あんなやり方は最っ低よね」
確かに、北原の言い分を素直に聞き入れなかった私も悪いと思うのだけど。
「何か言った?」
「あ、え、やぁ、いえ、なんでもないです」
温室にたどり着くと、先生はコートを脱いで入り口にあるフックにかけ、私は傘を閉じ立てかけた。
そのふたつから落ちる滴が、たちまち地面に黒い円を描く。
ぼんやりとそこに意識を引かれるものの、いつしか昨日の北原とのやり取りが目に浮かんでいた。
「先生」
「ん?」
「先生も、奥さんに怒ったりするんですか」
「え?」
振り返った倉田先生の顔が、一瞬にして赤くなる。
そして、眼鏡を上げるとはにかんで笑った。
「まぁ、たまにはケンカもするかな」
ものすごく照れくさそうにそんなことを言う。
なんか、説得力がなくて笑っちゃう。
先生は右手で頭を無造作に掻くと、様子をうかがうように、私の瞳を覗き込んだ。
「北原くんと、ケンカしたの?」
センセーって、時々あまりにもストレートに聞いてくるから困る。
だけど私も、この温室で、倉田先生の前なら素直になれちゃうから不思議だ。
隠したってしょうがないと開き直って、私は口を開いた。
「ケンカっていうか……酷いこと言われました」
「そっか」
先生は土の乾き具合をみながら、虫がついてないかもチェックする。
私も、お気に入りの観葉植物、ポトスの葉に霧吹きをしながら雨の降り続く外を見つめた。
「わかってるつもりでも、お互いにわかり合えてないことって、あるよね」
倉田先生の言葉に、私は手を止めた。
「男って、単純で結構鈍感だったりするし、言わなくても当たり前にわかるだろうってことは、あえて言わなかったりするんだ。でも、それはわざとじゃないんだよ」
「……先生も?」
「そう、それで、女性の繊細な信号を見逃して、傷つけてしまうなんてことは、よくあった」
「そうなんですか……」
そんなことを言われても、いまいちピンとこなかった。
一昔前の、オンナは三歩下がってなんて時代じゃあるまいし、私は黙ってついて来いと言われても後ろから文句を言って、相手を捲くし立てる自信がある。
「先生の奥さんって、すごく可愛いヒトなんでしょうね」
きっと線の細い、か弱そうで儚い桜みたいなヒトが眼に浮かんだ。
すると、先生はあははと声を上げて笑う。
「可愛いなんて、喜ぶと思うよ。どっちかというと、先生は尻に敷かれてるタイプだけどね」
「……はぁ」
ますます私はわからなくなって首をひねる。
夫婦って、そういうモノなのかな?
「とにかくね、どんなに仲が良くても、わかり合っていても、どれだけ長く連れ添った夫婦だろうと、ちゃんと話をしなきゃだめなんだ」
「でも、男のヒトはあえて言わなかったりするんですよね?」
「残念ながらね。だから、女性の繊細さが必要なんだよ」
「………」
先生の言ってること、わかる気もするけど、よくわかんない。
気付けば尖っていた唇を引っ込めて、私はポトスの横にある背の高いベンジャミンにも霧吹きをする。
「そうだ」
温室内は、夏の間外の棚に置かれていた寒さに弱い鉢植えたちが、所狭しと置かれるようになっていた。
先生はおもむろにしゃがみ込むと、増え続ける鉢植えの中から、忘れもしないひとつを手に取った。
夏休みの出来事が解決したころ咲いた小さなピンクの花は、あの時たった一度咲いただけで、今はまた、雑草みたいな葉だけになっている。
「これ、桜井さんにあげるよ」
「えっ!? だって、これ……」
「花が咲いたら、願いが叶う、不思議な植物」
そう言って差し出された鉢植えを、私は受け取った。
先生からコレを受け取るのは、初めてじゃない。
夏休み、私が先生に失恋するきっかけになったのが、この鉢植えの存在だ。
先生が今の奥さんである彼女と一緒に育てていた花。
この花が咲いた後、入院していた彼女が回復に向かっていると聞かされ、その後、めでたくふたりは結婚したのだ。
てっきりふたりの新居に持って帰ったんだと思っていたけど、そんなところに置いてあったなんて気付かなかった。
「きっと、また桜井さんが育てたら、花が咲くと思うよ」
「………」
これから寒い季節へ向かうというのに、本当に、咲くだろうか。
「そうそう、部活動は基本的に放課後だからね。部長がこう休んでちゃ、他の部員に示しがつかないよ」
「はい……すいません」
「梅宮さん、だっけ? 彼女も最近こっちに来ないし、ね」
だから、放課後来るように、なんてちょっと倉田先生に似合わない命令口調で言うと、優しく微笑んでくれる。
私は、渡された鉢植えをポトスの横に置くと、葉を撫でた。
指先から伝わる植物の声、きらきら光る粒子が私の腕を伝って頭の中に降り注ぐ。
彼らの声は、いつだって変わらず私を受け止めてくれる。
静かに弾けて消えていく声は、乾いた大地を潤す、降り続く雨に少しだけ似ていると思った。
すべて、私の中にある余計なものを洗い流して素直になりたい。
そう、思った。




