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熱中症で死にそうになってるその植物は、よく見かけるような、かといってこうしてじっくり観るのは初めてのような、そんな感じがする。
はっきり言ってしまえば、道端にある雑草みたいだ。
「気がついたら水をやってたんだけど、どうにも元気がなくてね。ほら、桜井さんが手をかけると、不思議と植物たちの成長が早いから、このコも元気になるかと思って」
そう言うと、先生は私にその鉢を差し出した。
「花が咲くはずなんだ。ピンクの、これくらいの」
私が受け取ると、先生は空いた右手の人差し指と親指で、500円玉くらいの大きさを作る。
うんうんと先生の話に頷きながらも、私は必死で頭の中の扉を閉じ続けた。
きっと、この鉢に残る先生の意識を聞いてしまったら、冷静でいられなくなる。
「先生、これ、何ていう花なんですか?」
「うーん。……名前、ちょっとわからないんだよね」
「へぇ……先生でも、わからない花があるんですね」
眼鏡の奥に隠れてる、男らしくない長い睫毛に装飾された目を、一度大きく瞬きさせると、先生は私を見てわざとらしい笑顔を作る。
ごめんなさい、先生、私、意地悪な言い方しちゃった。
これが、先生じゃない誰かのものなんじゃないかと聞けるほど、私に勇気はない。
先生は、私が知らない花のこと、なんでも知ってたし、どんなに忙しくったって、こんなふうになるまで放っておくはずがない。
もし、本当に先生のものであったとしたら尚更、私は手の中にある植物に同情した。
欲しい欲しいと言ってるのに、それを訴える術を知らなくて、いつの間にか枯れていく。
「日陰で、少し様子見てあげて」
先生に言われて、私は頷いた。
「そういえば、立派なサナギになったね」
まるで意識をこの鉢からそらすように、先生は中庭のサナギの話を始めた。
「今は気温が高いからね、この数日で羽化するかもしれないよ」
ふと、蝶が羽化してしまったら、先生が学校に来なくなってしまうような気がした。
彼女の容態が急変したと北原は言っていたし、それなら、こんなふうにしている時間ももどかしいんじゃないだろうか。
先生の話に適当に相槌を打つと、私は日陰の棚に向かう。
日陰、といっても、理事長が黒い網のテントを天井代わりにした場所だ。
そこに階段状の棚を作って、つよい日差しを避けなければならない植物を置いている。
話の途中でこっちに来た私に、先生の戸惑う声が聞こえたけど、私は振り返らなかった。
早く、早く、彼女のところに帰ってよ。
本当は、そんなこと言いたくない。
でも、口を開けば、喉のすぐそこまで出かかってる。
もっと優しいことを言えたらいいのに。
だけど、そんなことしたら、今すぐにでも泣いてしまいそうで。
それでも私は、バラバラになった心を強引に押さえ込んで唇を噛んだ。
「先生」
いつもよりちょっと明るい声を出したら、みごとにひっくり返る。
いつもなら笑ってしまうところなのに、私はそのまま言葉を続けた。
「次ここに来たら、先生がびっくりするくらい、このコ、元気になってますよ」
手の中にある鉢を顔の横に掲げて、私は必死の笑顔を作って言った。
「だから、先生、安心してください」
一瞬、先生は目を丸くして驚いたけど、ちょっと困ったような笑顔で右手を頭の後ろへやった。
「ごめんね。お願いします」
ちょこっと頭を下げるので、私も返事をするように頭を下げる。
変なの。
だけど、先生のこういうところが、私は……。
「じゃあ、北原くんも、よろしくね」
北原が先生に軽く会釈を返すと、先生は笑顔で手を振って、私たちに背を向けた。
心なしか、その足取りが急いでいるように見えて。
私は肩の力が抜けて、危うく鉢を落としそうになる。
今の私は、このコみたいに、きっと萎れているに違いない。
ところ狭しと並べられている鉢をつめて、端にこのコを置くスペースを空けた。
本当に、花なんか咲くんだろうか。
咲いたところを、先生は見たことがあるんだろうか。
「元気に、なろうね」
鉢を置き、話しかけた。
力をなくした葉に触れ、撫でる。
いつものように、自然に私は触れてしまった。
気付いた時にはもう遅くて、葉から指先に伝わるモノは、ゆっくりと私の中に入り、染みこんでいく。
弱いながらも、ふわふわと光り輝く小さな粒子。
それに混じって残る倉田先生の意識。
『ごめんね』
優しくて、柔らかくて。
この子に語りかけられた言葉なのに、まるで自分に言われてるような錯覚に陥る。
『ごめん』
その意識は、私の頭の中で、先生の声に変換される。
私の体中に響きわたる声。
心の中に抱えた想いを、告白するつもりなんてなかった。
それを伝える前に否定されてしまったみたいだ。
だけど、その声は残酷なまでに優しい。
もう、堪えきれなくて、感情の粒が目から溢れ出した。
やがて消えていく意識をもう一度確かめたくて、私はまた葉を撫で、目を閉じる。
本当のことを知るのは、もう怖くない。
諦めたくせに、もっと先生のことを知りたいと思う裏腹な気持ちが、私の中にある全ての扉を開放させた。
暗闇の意識の世界で、正面から強い風が吹くと、私は真っ白な光の中に飲み込まれた。
目の前に映し出されたのは、まるで映画の予告編みたい。
途切れ途切れで、声のないセピア色の映像。
そこに映るのは、先生と、きれいな女性。
白くて柔らかい彼女の指が私に触れると、心地よい。
幸せそうなふたりの生活の中で、突然彼女が姿を消した。
不安な私に水をくれるのは、倉田先生。
『もうすぐ、帰ってくるよ』
そう言って笑いかけてくれるけど、隠していても、全部わかってしまうんだよ。
誰も来ない、空っぽな部屋。
帰ってこない、彼女。
そして。
鏡のように自分の顔が映し出されたところで、私は目を開けた。




