海をのぞむ町①
ネイファと呼ばれる、竜と人とが共存する国の王都。
貴族街の一つのはずれにあるストヴェール子爵家の屋敷に、子爵家の次男ジェイクの声が響き渡っていた。
「ユーラ、ユーラー? どこに行ったんだーい」
どんどん近づいてくる兄の声。
でも呼ばれている本人であるユーラは頑として返事を返さないで、突っ伏しているベッドの上の枕に顔をうずめ、大きな溜息を吐いていた。
ガチャリと、扉を開く音がして。
ユーラの存在を確認したらしいジェイクが、苦笑ととも室内に入ってくる気配を感じた。
枕に顔をうずめたままのユーラの髪を、優しく手が撫でる。
毛先に特に強く癖が出てしまう彼女の白銀の髪は肩辺りでくるりとカールされていて、ジェイクはそんな柔らかな髪を指先に絡め捕りながら、機嫌の悪い子供をなだめる風に優しく口を開いた。
「またシェイラの部屋に居たのかい? もう出る時間だよ」
「……分かってるわよ」
枕の中にくぐもった返事を返すユーラ。
ストヴェール家の一家は今日、数年間住まいにしていたこの王都の屋敷を離れ領地へと戻る旅路に発つ。
この屋敷の管理をしてくれる数人と、あとは通いで掃除などをしに来る、近所に住まう雇われた人間に次の社交シーズンまでこの屋敷を任せることになるのだ。
懐かしいストヴェールの本家に帰ることは何も問題は無い。
――――しかしただ一つだけ、足りないものがあった。
「本当は、お姉さまも一緒のはずだったのにぃっ!!」
枕をぎゅうっと抱えたまま、足をばたつかせながら声を上げる。
「まーた言ってる。困った子だなぁ」
「だって……っ。王都にみんなで一緒に来た時には、まさか帰るときにはシェイラお姉さま一人がいなくなってるだなんて想像だってしていなかったわ!」
王都を去ると決まったのは父の方が先なのに。
変なところで行動力を見せるシェイラは、あっという間に準備を整えてあっという間に旅立った。
見送られる側だったはずが、逆転してしまっている。
ユーラが突っ伏しているベッドも、今いる部屋も、シェイラの部屋だ。
いつでも来られるように整えられているユーラやジェイクの部屋とは違い、この部屋の家具のほとんどには既に埃よけの布が掛けられてしまっていた。
そう願い出たのはシェイラ自身。
彼女は出て行く前に自らの手で綺麗に部屋を片付けていった。
この家は別邸であるから、もともとあった荷物自体少なくて、最低限のものを残しただけの部屋はがらんとしていて寂しい。
ユーラが居付いているこのベッドのシーツや枕も、使用人としては早く洗濯してしまってしまいたいのが本当なはず。
次に姉がこのベッドを使う日がはたして来るのかは、もう分からないのだ。
ユーラは枕をきゅっと握りこんだ。
(――――もうきっと、一緒に暮らせる日は来ない)
目の奥がつんと痛んだ。そんなユーラの髪に、ジェイクの笑いを含んだ息がかかった。
「納得して、送り出したんだろう?」
「でもっ! だって!」
兄の言葉にユーラはばっと顔を上げ、上半身を起こす。
目の前にあるのはベッドに腰をかける兄の姿。
優しい笑顔で小首を傾げる、年より幼く見える茶色い髪をした人。
ジェイクは色も容姿も父親似で、見た目では母親似であるシェイラやユーラと通じる部分はほとんどない。
でも性格の面では、おっとりとしてるのに拘りが強くて頑固なところがそっくりだとユーラは思った。
そしてそっくりなのは性格だけではなく。
「シェイラお姉さまとジェイクお兄さまって、同じ笑いかたなのよね」
「そう?」
「そうなのよ、同じだわ」
「へぇ、自覚は無いんだけどね」
そう言いながら柔らかく笑って小首を傾げる彼の仕草がまた、シェイラと似ているのだ。
ユーラはこんな小さな仕草ひとつでジェイクとシェイラの血をつながりを感じてしまい、きゅっと唇を引き結んだ。
自分たち兄妹の中に流れる、純粋な人間ではないこの血。
確かに同じ両親の血が通っているのだと、何気ない仕草で分からされる。
(でも、お姉さまは同じにはならなった)
同じ両親の元に生まれ、同じ育て方をされてきたのに、姉のシェイラが人生の選択で選んだのは、竜の血。
ユーラは彼女の選んだものとは反対で、絶対に人であることをやめられない。
今とまったく違う別の生き物になるなんてこと、考えもつかない。
「お、お姉さまには、好きなことをして頑張ってほしいわ。だからきちんと見送ったじゃない」
「うん。偉かったね」
「っ……」
泣かないで、笑って送り出したユーラを手放しで褒めてくれる兄に、ユーラは顔をくしゃりとゆがめた。
何よりもユーラも、やりたいことと自分の未来を決めている。
もう既に道は別れてしまっている。
だからユーラが姉と同じ生き方を選ぶことは無く、自分たち姉妹の道が交わることは、この先ほとんどないのだろう。
そのことが、たまらなく寂しかった。
ユーラは震える声でジェイクに訴えた。
「じゃっ、邪魔なんてするつもりはないけれど! でも。寂しいのは別なのっ、あと心配なの! だから少しうじうじするくらい良いでしょう?!」
「そうだね。でももう流石に時間が無いんだよ。父上も母上も、使用人のみんなも待っている。ユーラの侍女になったミネリアも、心配そうな顔で部屋の前をうろうろしていたよ? いい加減にして、馬車に乗ってくれないかな」
にこやかだけれど厳しい兄の指摘に、ユーラは鼻をすすりながら眉間を寄せた。
出発が遅くなればなるほど、旅の行程は狂ってしまう。
誰かを困らせるためにこんな風にシェイラのベッドにしがみついているわけではない。
「…………分かったわ。行くわ」
差し出してくれたジェイクの手を掴んで、ユーラはベッドから出て立ち上がる。
繋いでいない方の手で乱れた髪を撫でつつ、小さく呟く。
「だって…シェイラお姉さまって自分は変に抜けているから」
だから余計に心配は募るのだ。
「まぁ確かに…。しっかりはしていないね」
「まったくだわっ」
真面目で頑張り屋で、大好きな姉だけれど。
ユーラから見たシェイラはほのぼのおっとりとしていた大人しいイメージが強かった。
そう。彼女はずっと守られる側の人間だった。
剣術や武道が好きなユーラと正反対で、戦う術なんて何一つ持っていない。
詩集や読書をしてお茶を嗜んで、お菓子作りと料理を楽しむ女の子らしい女の子。
そんな彼女が。守ってくれる人の誰も居ないところに出て行った。
家族として心配が尽きないはずがない。
ジェイクの同意を得たことで、ユーラの言葉にも熱が入り、ユーラはぐっと拳を握ってみせた。
「何より、お姉様は警戒心が薄いと思うのよ! 誰かに『竜がいるよー。可愛い竜だよー。』なんて言われたらひょいひょいついていっちゃいそう!」
「……否定はしないけれど」
「でしょう! あぁー…心配心配。本当に大丈夫かしら」
ジェイクの手に引かれて廊下に出ると、控えていた数人の侍女がほっとした顔を向けてきた。
中には最近ユーラ付きの侍女になったミネリアの姿もある。
シェイラが旅立って以来、彼女の部屋に閉じこもりがちだったことで、心配をかけていたのはしっている。
ユーラは彼女達ににこやかに笑みを返した。
そんなユーラを褒めるように頷いたジェイクが、手をつないだまま階段へと促してくれる。
どうやらこのままお喋りしながら玄関までエスコートしてくれるようだった。
「でもこれ以上心配しても仕方がないことだろう?」
「だけどっ」
「それよりユーラ、兄上への報告をどうすればよいか考えてくれないかい?」
「え?」
ユーラはきょとんと目を丸めた後、首を傾げてジェイクを見上げた。
「まさか、レヴィお兄さまにシェイラお姉さまのこと言ってらっしゃらないの?」
「どうもそうらしい」
「本当に? お父様がとっくに知らせているのだと思っていたわ」
「知らせたら領地の任を放って飛び出してきそうだからと、敢えて伝えていなかったらしい。でも、全員が帰るのにシェイラが居ないなんて、もう誤魔化しようもないだろう?」
「そう……そうね。どうしようかしら」
父であるグレイスが王都に居る間、長兄であるレヴィウスは一人ストヴェールの領地に残り代理領主として領地を納めていた。
「そもそもレヴィお兄さまがお父様の後を継ぐって決めた理由が、妹達に苦労をかけさせてたまるものか! …と言うものだったものねぇ」
ストヴェール子爵家四兄妹の長男、レヴィウスは誰もが認める度のつくシスコンブラコンである。
妹と弟に苦労をさせたくないが為だけに、一番に責任の重い後継ぎの役割を真っ先に引き受けた人。
もしもジェイクやユーラ、シェイラが自分が跡が継ぎたいなどと言い出せば、あっさりと聞いて簡単に渡してしまうのだろうと想像も出来てしまう。
父の王都赴任に真っ先に自分が残ると言いだしたのも、弟妹が親の居ない場所で寂しい思いをするなんて考えられないと言う兄心からだった。
とにかく何より誰より、弟妹の幸せ第一な長兄なのである。
そろそろ一人前の淑女として見てほしい年頃のユーラとしては、幼い子供ように甘やかすばかりの兄の愛情が近ごろだいぶと鬱陶しい。
「レヴィお兄さま、お姉さまと私の結婚相手は自分が見つける!って宣言してらっしゃったわよね」
「離れている間に恋人が出来たなんて知ったら失神するんじゃないかな」
遠い目をするジェイクに、ユーラは薄青の瞳を瞬かせてからくすりと笑った。
「あら楽しそうね」
「え?」
「レヴィお兄さまがソウマ様のもとに乗り込んだりしたら、どうなるのかしら。決闘とか?」
「ユ、ユーラ?」
少し想像してみてから、ジェイクの慌て様にユーラは噴き出した。
愛を得るために戦う男たち。と言う恋愛舞台劇によくあるシーンを実際に見てみたいと言う好奇心は少し置いておくべきらしい。
「冗談よ。冗談。王子殿下のパートナーに手を出さないように、ストヴェールにつくまでに良い言い訳を考えましょう」
「そうだね。そうしよう」
「ああぁ、でもシェイラお姉さま、本当に大丈夫かしら……」
「またそこに戻るのかい!?」
ジェイクは苦笑いを浮かべながら、ユーラを連れて玄関の扉をくぐりながら声を上げる。
妹や兄の話を笑顔で何時間でも聴いて頷いていたシェイラの居なくなった今、少し個性的な妹と兄の相手をするのは自分一人。
(ちょっと荷が重い気がする)
やっていけるのだろうかと自信を無くしそうになりつつ、傍らにいるユーラには届かない程に小さく囁いた。
「思っていた以上に、君の存在は大きかったようだよ、シェイラ」
目前に止められた馬車のむこう、青い空を遠くに眺めて、少し前の便りで西の方にいると聞いた妹シェイラを彼は想うのだった。
――――妹や兄からの心配など露知らず、シェイラは心地の良い気分で規則正しく揺れる振動につられて微睡んでいた。
あぜ道を走るのは、八人ほどが腰掛けられる乗り合い馬車。
ときおり隆起した道に、馬車は大きな音を鳴らして揺れる。
古びた木椅子に腰かけているシェイラの頭も、揺れに合わせて前後左右に大きく揺れていた。
彼女の閉じた瞼の上に影を差す色素の薄い白銀の髪は一つにまとめられ、妹から贈られた銀糸のレースリボンが飾られている。
馬車の上部に空いた小窓から差し入る太陽の光に当てられて、鎖骨の中央で僅かに輝くのは赤い竜の鱗で出来たネックレスだ。
身を包んでいるのはシンプルなドレスと革のブーツ。
どこにでもいる十代半ばの少女の格好。
まとう穏やかな雰囲気から労働階級の人間には見えないが、しかしたいていの人間は親しくならない限り、相手の事情などには口を出さないもの。
どこかの令嬢が一般の乗合馬車に乗っている理由を聞いてくるような無遠慮なものは見当たらない。
朝から夕方近くまでの長い道のりの間も、同じ馬車に乗っている乗客とは当たり障りの無い世間話をたまに交わすくらいだった。
「お嬢さんたち、おひとついかが?」
「……?」
かけられた声に意識を浮上させたシェイラは、ゆっくりと瞼を上げた。
薄青色の瞳で声をした方を見ると正面に座っていた老婆が、シェイラの両脇に座っていたココとスピカに黄色の包み紙に包まれたキャンディを一粒ずつ手渡してくれていた。
シェイラの右側に座るココは赤い瞳を輝かせて受取り、左側に座るスピカは人見知りが出ているのか控えめに、片手でシェイラの服の裾を握りながら小さな手を伸ばしている。
老婆はシェイラの手にも、黄色の包み紙に包まれた一粒のキャンディを載せてくれた。
「すみません。有難うございます」
「いえいえ。可愛いらしい子たちね。貴方が眠っている間にたくさんお話してくれたわ」
老婆はココに視線を向けていた。
スピカが積極的に話す様子はないので、主にココが話していたのだろう。
「まぁ、どんな話を?」
「王都からずっと旅をして来たこととか。美味しいお料理を貴方が沢山つくってくれるのだとか。あぁ、そういえばお子様なのかしら。それともご兄妹?」
「子供です」
両脇にある赤いはねた髪と、黒い真っ直ぐな髪をなでてシェイラは微笑む。
ココもスピカも、もうシェイラの子どもで間違いはない。
ココと出会って早半年。突然に竜と言う生物に出会い、自分が『親』と言う存在になったことに対する違和感や戸惑いはもう消えつつあった。
今では健やかに育ってくれるよう成長を見守りたい、心から本当の我が子なのだと思えるようになった子供たちだ。
外聞的にも早ければ女性は十四歳程度で結婚をしているから、十六になったばかりのシェイラが子供を持っていても、別に不思議ではなかった。
多少早いなと言う感想を抱かれるくらいだ。
髪色や雰囲気が全く似ていない、と言う疑問は多少抱かれるかもしれないけれど。
今、目の前に居る老婆は、大らかなのか気を使ってくれているのか、その辺りについての追求はなく、ただ微笑んで頷いてくれた。
「ココ、スピカ。お婆様にお礼は?」
包み紙を開いてすでに口の中で転がしている二人を窘めた。
やはりここでも性格は出る。
ココはにっこりと笑って元気よく、スピカはシェイラに抱き付きながら礼を述べた。
「あいがとー。おばあしゃん!」
「あ、りがとう」
「いえいえ。どういたしまして。―――やっぱり貴方達もルブールへいらっしゃるのかしら?」
今乗っている馬車の行き先である地名に、シェイラは頷いて答える。
「はい。ルブールから船で海を渡るつもりです」
「まぁ海を! 船旅なんて素敵ねぇ」
「お婆様は? どちらかへ旅行なのですか?」
シェイラが聞くと、彼女は皺を深めて嬉しそうに笑った。
まるでこの後にとても楽しみなことが待っているという風に。
「私はルブールに居る息子に会いに行くのよ。……あぁ、そろそろ着きそうね。潮の香りがしてきたわ」
「えぇ。本当に」
彼女との会話の通り、確かに小窓から吹く風には潮の香りが含まれていた。
シェイラは僅かに瞼を伏せ、静かに深呼吸する。
風が、空気が、目的地が近いのだと教えてくれる。
馬車の終着点であるルブールはネイファの国の本土最西端に位置する港町だ。
世界各国から人や品物が集まる賑やかで国際色も豊かな場所だと聞いていた。
「楽しみね」
呟いたシェイラは両脇の子どもたちを抱き寄せて頬を擦り付けた。
柔らかくて暖かな体温が、身じろぎしながら小さな歓声を上げる。
そんなココとスピカは肩から背中の中ほどくらいまでを覆う短い外套を羽織っていた。
人目のあるところでうっかり翼を出してしまった時に隠れるようにだ。
余計な騒動を避けるためにも、多勢の前ではやはり人間のふりをしておくべきだと思って、旅に出る前にシェイラ縫い上げたものだった。
ちなみにココのものには赤色に金のリボンでふち飾りを施し、スピカのものには黒色の生地を同色のレースで飾っている。
内側にはいくつかのポケットも作り付けていて、細々としたものも運べるようになっている。
今のシェイラの手の中にあるのは、この小さな竜たちと一つの大きめのバッグだけ。
バッグの中身はシェイラの着替えとあとは筆記用具に地図と少しの薬と非常食程度。
ココとスピカが術で衣服も形作れる分、荷物が減ったことは非常に助かった。
もちろん夜間着と羽織る物程度は入れているけれど、それでも本来必要な分より余程少ない。
――――城を出発して既に二か月。
たった二ヶ月だけれど、ほんの少しは成長できたような気がする。
下町の宿に泊まり、乗合の馬車に乗り、知らない土地でさまざまな人に出会った。
西へ西へと進んで目指しているのは、住んでいたネイファの国の王都から一番近い竜の里と言われる、西の端にある水竜の里だ。
憧れていた場所に、刻々と近づいているというワクワク感は、日に日に強くなっていく。
一体どんな処なのだろうと想像をはせ、シェイラたちは港町ルブールに降り立った。




