血と選択④
「待って、待ってください……何、これ…」
シェイラは混乱しすぎて頭を抱えたくなる。
目の前で竜へと変わる姿を見たのだから、もう納得するしかないと分かっていた。
それでもこんなことはまったく予想をしていなくて、気持ちがどうしてもついていかなかった。
「…何てことだ。純血の白竜がまだ存在していたなんて」
ソウマの呆けたようにも感動したようにも聞こえる声が、洞窟の中にもシェイラの頭の中にもわんわんと響きわたるのだった。
数百年も前に絶滅したはずの、白竜が存在していた。
この事実だけでもありえない事なのに。
「…お母様は、間違いなくお祖母さまの血を引いているのですよね」
混乱した思考の中で、まず一番に疑問に思ったのはこれだった。
白竜の姿をしたレイヴェルは、薄青色の目を細めてその大きな体をシェイラの方へと向ける。
『えぇ。間違いなく、メルダは私が生んだ子よ』
「そっ、それなら!お母様は?お母様も竜なの?」
『いいえ』
レイヴェルがゆっくりと一度首を振った。
『あの子は人の血を半分もち、そして早くから人と共に生きることを選んで以降、一切竜と関わることを辞めたから竜としての力は持っていないわ。でもシェイラ、貴方は竜と共に生きることを選ぼうとしているから』
「っ……えぇ。ココの傍にいたいと思っているわ」
シェイラは頷いて、ソウマの背で眠っているココをちらりと振り返る。
ココのそばにいるために、自分はこのセブランへ来た。
父グレイスと母メルダがシェイラに伝えたかったことは、今の状況からしてもこの白竜についての話なのだろう。
『シェイラ。そうして竜の傍にいて、竜と共に生きることずっと続けていれば、彼らの気に引っ張られて貴方の中にある竜の血が目覚めてしまうわ』
「竜の、血?」
ぞくりと背筋から悪寒が這い上がった。
自分の身体の中に、竜の血が入っているなんて想像さえしたことも無かった。
レイヴェルはゆっくりと過振りをふってシェイラを見つめる。
『このままではあなたは人ではなくなってしまう』
「そ、んな…そんなの、有り得ないわ…!」
シェイラの声が、洞窟の中に響く。
「シェイラ…?」
どちらかと言えば大人しい性格であるシェイラが大きな声をだしたこと に、ソウマは目を見開いていた。
……たとえ祖母が白竜であったとしても。
シェイラがいままで生きてきた16年の中で、自分が人間でないと感じることなんてただの一度だってなかった。
ココやソウマと接し始めて数か月たつけれど、身体に変わったところなんて一切ない。
このままでは人ではなくなってしまうなんて言われても、どうやったって信じられなかった。
『竜はあなたに優しいでしょう?』
「……?」
顔を上げてみると、レイヴェルが慈愛に満ちた優しい表情で笑ったようにみえた。
『全ての竜は白竜にどうしようもなく惹かれてしまうものなのよ。シェイラくらいの年ごろの人間は、一番不安定で揺れ動く。まだ血が目覚めていなくても、揺らぎから漏れ出ているわ』
人間の女性が子供から大人へと変わる一番著しい変化のある時期にシェイラはいる。
その激しい変化の中で眠っている血の力が揺らぎ、ほんの少しだけど周囲の竜たちに影響を与えてしまっていた。
「つっ……。つまりそれは…みんなが優しいのは、白竜の血のおかげだっていうことですか?お祖母様」
『白竜は全ての竜を導く立場にある存在。簡単に言えば竜のまとめ役ね。火竜や風竜は特に我が強いから、誰かが押さえないとどうにもならなくて。だから自然と彼らは白竜を敬愛する。太古の時代、始祖竜が生まれたときからそういうものなの』
「そん、な…………」
思い当たることが無いとはとても言えなかった。
唇をきゅっと噤む。胸が痛くて、これ以上なにか言われれば泣いてしまいそうだ。
(どうして竜が、私にやさしくしてくれるのか。慕ってくれるのか)
偶然だと、思いたかった。
皆はシェイラ自身を見て、その上で親しくしてくれているのだと信じたかった。
何の得手もないシェイラを、好き嫌いが激しいはずの竜たちがそろって気に入ってくれている今の現状。
王子の契約竜となるほどのソウマが、どうしてセブランまでの旅にまで付き合ってくれたのか。
移ろいやすく他人に興味を示さない性質を持つ水竜のクリスティーネが、どうしてシェイラを目に留めてくれたのか。
口が悪く気分やな風流のカザトが、どうして初対面だったシェイラに胸の内を聞かせてくれたのか。
(…ココも?白竜の血に惹かれたから、卵が私のもとに現れたの…?)
そう言えば、ココはずいぶんレイヴェルになついている。
竜たちは導き手である白き竜に親愛を抱く。
全ての種の竜が白竜のもとで統率をとっていたから、古代にもっと多くの種の竜がいた時代にも大きな諍いは無かったと聞いた。
ざわざわとなる胸の嫌な音が鳴り止まない。
「…私自身を好いてくれたのはなく、みんな白竜の血に魅かれただけと言うこと…?だから優しくしてくれたの?」
「シェイラ、俺たちは…」
ソウマが何か言い募ろうとしたけれど、シェイラはそれを拒否した。
聞こえないように耳を塞いで、過振りをふる。
心の伴わない友好。
それはなんと空虚な関係だろう。
シェイラはかすれた声でレイヴェルへと尋ねた。
「……お父様が、私と竜を近づけたくないのも、その血せい……?」
『寝食を共にするほどに竜と共にあれば、純血の竜たちの気に引っ張られて人の枠を超えた力を得てしまうことは絶対にさけられないもの。きっとグレイスはシェイラが人でなくなってしまうのではと怖れているのね。そうなってほしくないのね』
「お父様はお母様が人と生きることを選んだように、私にも人として生きてほしいのですね」
父が望もうが望むまいが、シェイラは生まれたころから人間だ。
竜に憧れて、竜のように翼を生やして空を飛びたいと想像したことこそあれど、それが現実になるだなんて思ったことはなかった。
このままココやソウマと王城にいたならば、シェイラは間違いなく人の枠を外れてしまう。
(っ……)
寒気がした。
自分の皮膚からみっちりと鱗が生えてくるところを想像して、気持ち悪いとさえ思った。あんなにきれいだと思った竜の鱗なのに。
自分が自分で無くなってしまうかも知れないという恐怖。
人であることを捨てるなんて、絶対に出来るはずがない。
「……シェイラ」
ソウマが心配そうな声でシェイラの名を呼ぶけれど、どうこたえていいか分からなかった。
口を開けば泣いてしまいそうで、きゅっと唇をつぐむ。
そっと、シェイラの頭を優しい手が撫でた。
見なくたって分かる。大きくて優しくて、少しだけ乱暴な彼の手を、間違えるはずがない。
その暖かさに胸がつきんと痛んだ。
人として、今までどおりのごく普通の人生を生きていきたいと願うなら、この彼の手も離さなければならない。
「そろそろ家の中へ戻りましょうか。ゆっくりと考えなさい。あなたがこの先の人生をどうしたいのかを」
そうして聞こえた祖母の声は耳から聞こえる普通のもので。
シェイラが顔をあげると、もうすでに見慣れた年相応の老人の姿の彼女がそこにいた。
「………はい」
* * * *
* * * *
「どうしてあんな言い方をしたんだ?」
館に戻ってすぐ、シェイラは一人になりたいと自室へ籠ってしまった。
ソウマは彼女を見送ったあとソファに寝かせたココにブランケットをかけて、そのまま談話室でレイヴェルと対峙していた。
腕を組んで壁際にもたれると、不機嫌な顔を隠さないままで相変わらず微笑を湛えているレイヴェルを睨みつける。
「もっと違う言い方があったはずだろう。あんなふうに追い詰めるような説明の仕方では無くても良かった」
レイヴェルのやり方は、人でなくなってしまうことの恐怖をあおるものだった。
このままでは全く違う生き物になってしまうと追い打ちさえかけて。
たとえ同じ内容を話すにしても、もっと柔らかな話し方もあったはずだ。
まるでわざとシェイラが不安に駆られるようにしたレイヴェルに、ソウマは憤っていた。
レイヴェルは見るからに怒っているソウマに対して、薄く笑みを作る。
…老人の姿をしているのに。
正体を知ってしまった今はもう彼女を弱々しい老人として扱う必要もなかった。
きっとレイヴェルがその気になれば、力を使ってソウマを魅了し意のままに操ることさえできてしまうのだろう。
白竜はそういう存在だ。多種の竜を使って悪にも善にも世界を動かすことの出来る、強大な竜。
「そうね。少し意地悪だったかも知れないわ」
レイヴェルは少し曲がった腰をソファへを降ろして、暖かな火の跳ねる暖炉の明かりをその薄青色の目に写す。
「本当言うとね、……羨ましいのよ。あのこは選ぶことが出来るから」
「……?」
「私はどれだけ人になりたいと願ってもできないもの。愛した人はもうとうに天にめされたけれど、私はまだ百年以上、旅立つことは出来ないの。全部納得して、人と添い遂げることを選んで、もちろん後悔もないけれど、でもやっぱり少し複雑なのよねぇ」
「あぁ…」
竜は一度本気で愛した者を必ず生涯愛し続ける。
人と違い、その感情が移ろう事はめったになかった。
むしろ『恋をする』こと自体がめったにないことで、うっかりその感情に取りつかれたものは生涯抜け出すことができなくなる。
だからなおさら『恋』を恐れ、つがいをそういう感情のもとで見つけようとはしない生き物なのだ。
―――人間と恋をしてしまったら、最後は必ずといってよいほど遺されてしまう。
彼女も他の人間に恋をした竜と同じように、もう会う事の出来ない相手に恋焦がれて残りの人生を独りで過ごさなければならないのだ。
たとえすべてを覚悟して選んだ道だとしても。
いざ一人になると、これで良かったのかと後悔するものも多かった。
その痛みを想像してしまうと、彼女のとった態度にも理解できてしまうから、ソウマは苦い思いでため息をはくと瞼をわずかに伏せた。
鮮やかな赤い瞳に、憂いた影が落ちる。
「…シェイラは人であることを撰ぶんだろうか」
もしかすると王都に帰るなり、荷物をまとめて家へ帰ってしまうのかもしれない。
あの脅えようをみると、むしろその可能性の方が高いだろう。
彼女のいない王城を想像して、ぎゅっと、胸が締め付けられた。
「…………嫌だな」
無意識に呟いてしまう。
その呟きを耳ざとく拾ったらしいレイヴェルは、少し驚いたように目を瞬かせて 暖炉からソウマへと視線を写してきた。
「あら、そんなに孫を気に入ってくれているのね」
「まぁ…気に入ってはいますよ」
「そう…そう…そうなのね」
ソウマの誤魔化しを含んだ言葉の裏を敏感に感じ取ったらしいレイヴェルは、目じりを下げて優しく笑う。
2階のシェイラの居る部屋の方を見て、囁くように言った。
「だったらことさら分からなくなったわね。あの子が人と竜、どちらを取るのか」
「…………」




