私の神様
「あ、白ちゃん、いた」
二階屋根の突き出した部分に、白い子牛が座っていた。
白ちゃんは一階から見上げる私に気づき、ひらりと下りてきてくれた。羽のような、重さを感じさせない動きだ。こういうのを目の当たりにすると、姿は牛でも白ちゃんは特別な存在なんだなあと実感する。
「どうした、冬花。寝なくて良いのか」
「うん……ちょっと、白ちゃんと二人きりで話したくて」
私の膝下にも届かないくらいの大きさの白ちゃん。見上げてくる瞳は、月の光を受けて金雲母のようにキラキラと煌めいている。
「ならば、ワシとっておきの場所へ案内しよう」
「とっておきを私に教えちゃって良いの」
「冬花だからな。特別だ」
風が髪を揺らしたと思った時には、白ちゃんは本来の姿に戻っていた。
私を見下ろすほどに大きく、一点の汚れもない真っ白な獣。
白ちゃんは私を背中に乗せると、トーンと軽く――本当に、ピアノの鍵盤をはじく程度の力で地面を蹴った。
たったひと踏みで辿り着いたのは、正殿の屋根で一番高いところ。
「わぁ……!」
薄明かりの中仄かに浮かび上がる荘厳な建物の数々。たぶん、松明だろう一定間隔で置かれている朱色の灯り。
空を割る電線も、月を隠してしまう高層ビルも、うるさい車の音もない。
「ここは下から見上げても見えぬからな」
「ご招待ありがとう、白ちゃん」
背中から飛び降り、屋根の端に腰を下ろした。屋根の上って、どうしてこんなにも高揚するんだろう。
白ちゃんは牛には戻らず、元の姿のまま私の隣で身体を丸めた。
傍らに現れた、もふもふの長毛を手で梳く。大きな頭……。いつもは私の腕の中に収まるほどに小さいのに。
気持ちいいのか、白ちゃんの大きな目がゆっくりと閉じていく。
「……今日ね、国史書を勉強したんだ」
「ほう」
夢うつつのような相槌だった。
「そこで、この国がなんで神去りの国って呼ばれてるか分かった」
「…………」
首元の毛に触れた。けれど、白ちゃんは何も反応しなかった。
「痛かった?」
「痛くはなかったなあ」
「苦しかった?」
「苦しくもなかったさ」
どうして夜って、ただ話してるだけなのに、こんなにももの悲しくさせるんだろう。
「じゃあ、悲しかった?」
「…………」
長い沈黙があって、白ちゃんは空気に溶けたような掠れ声で「少しな」と呟いた。
気付いたら、私は白ちゃんの大きな頭を抱きしめていた。
私が抱きしめているのに、長い毛のせいで私が包まれているみたい。
「私、この国の人は嫌いじゃないけど……むしろ菜明とか大好きだし、冬長官もまあ、頼りにはできるし……けど、その皇帝のことは嫌い」
白ちゃんの身体に触れたところから、トクントクンと鼓動が響いてくる。
「白ちゃんがなんでこの白瑞宮を出たがらないのか、人を避けるのか分かったよ。冬長官と菜明以外に、白ちゃんや神様がここにいることを内緒にする意味も」
失礼かもしれないけど、ちゃんと生きてるんだって思った。
神様は人間と違うし、霊体とかそんな私達とは違う方法で生きてるのかな、なんて無意識に思ってたけど……。
「白ちゃんも私達も……同じなのにね」
抱きついた私に頬刷りするように、白ちゃんの頭が傾いだ。
「皆、冬花のようであったら良いのにな」
「皆私みたいだったら、厨房がいくつあっても足りないかもね」
「美味いものが増えるのなら喜ばしいことだな」
お互いの身体が揺れていた。
「お主は優しいな」
「優しいのは白ちゃんでしょ。トラウマがある場所にもう一度来るなんて。それって、人間のことをまだ好きでいてくれるからでしょう。本当なら、二度と来るかって一生無視しても良いくらいなのに……気にしてくれてるんだよね」
「時間だけはいくらでもあるからな。ただの暇つぶしじゃ」
「そういうことにしといてあげる」
また、お互いに身体を揺らした。
やや間があって、「冬花」と名前を呼ばれる。
白ちゃんの頭が持ち上がった。自然と私も起き上がるかたちになり、ちょうど顔を上げた白ちゃんと目線が同じ高さになる。
「少し後悔しておった。お主をこっちの世界に連れてきてしまったことを……大切な者と引き離してしまったのではないかと」
「そんなの……もういないから。気にしないで」
私を大切に思ってくれていたのは、この世にたったひとりだけだった。
そのひとり――おばあちゃんも、私を置いて死んでしまった。
私が悲しい時は一緒に泣いてくれて、怒った時は一緒に憤ってくれて、嬉しい時は一緒に笑ってくれる。そんな、心まで分かち合ってくれたおばあちゃんは、最期、「ごめんね」と言って永い眠りについた。
その日を境に、身体の半分が死んだようだった。身体の中の大事なものが、半分どっかに吸い取られてしまったようだった。
それでも私は生きていたから。
生きる理由はなくても、死ぬ理由もなかったから、ただ日々を繰り返していた。
白ちゃんを助けたのは、そんな時だった。無意識での行動だったけど、今になって思えば、死ぬ正当な理由を手に入れたと思ったのかもしれない。
でも、私はまだ生きていて……。
「私は今幸せだよ。少なくともこの国では、私は必要とされてるんだし……幸せだよ」
『白瑞の巫女だから』という理由だとしても、それが今の私の生きる理由になっているから幸せなことなのだ。
「でも、もし白ちゃんが嫌な思いをすることがあったら、この国を一緒に出て行くから言ってね」
「ははっ、一緒にいてくれるのか?」
「私に生きる理由を与えてくれた恩人だもん」
「助けられたのはワシだというに」
白ちゃんの尖った鼻先に手を沿わせたら、撫でろとばかりに鼻先を押しつけられた。
こういうところは、小さくても大きくても変わらないんだなって、可笑しくなってしまう。
「個人的な意見だけど、白ちゃんには人間と距離を置いたままでいてほしくないなんだよね。私が人だからってのもあるけど、きっとこの国には優しい人もいるから」
菜明と離れるのは寂しい。
冬長官と会えなくなるのは物足りない。
鵬姜様とはまたお話ししてみたい。
皇帝陛下はよく分からない。
「少しずつでいいから、一緒にこの国の人達を知っていこう」
どうか、白ちゃんの忌まわしい記憶が、幸せな記憶で覆われますように。
「ああ、そうじゃな。一緒にだ……ワシの巫女よ」
そしてまた、この国に神様と笑顔が溢れますように。




