嫌だアアアアアアア…!
「じゃあ、俺は一旦姿を隠すな。このナリに人間はビビるからな」
確かに、神様でも鬼の姿は少々びっくりするだろう。言い終わらぬうちに、殺生鬼様は霧のように姿を消した。
「これがあの汚かった池か!?」と、生まれ変わった池を見て村人達は驚いていた。そして、水を恐る恐る口に含んでまた感嘆の声をあげ、周囲の質素だが美しい草花の正体が薬草だと気付くと喜んでいた。
「あらぁ、本当に綺麗に掃除してくださって。昔話の頃の池みたいだよう」
一緒に来ていた菜明のお母さんも、頬に手を添えて「はぁ~」とポカンと口を開けていた。
「后妃様、長官様、誠に感謝申し上げます。まさか中央の方が、こんな辺鄙な村の古池を気にしてくだすっただなんて……菜明、とても良い方々にお仕えしているんだねえ」
「うん!」
菜明のお母さんの言葉で私達が後宮の者だと知れ渡り、村人達から口々に感謝を告げられた。
こんなにたくさんの人から感謝されたのは初めてで、なんだかむずがゆい。冬長官は慣れているのか、しれっとしていた。
しかも「后妃じゃないんだけどな」とぼそっと独り言を呟いたら、隣の彼には聞こえていたようで鼻で笑われた。あえて何も言ってこないところがまた嫌みったらしい。どうせ、『お前のような者が、女人の一流である后妃とはおこがましい』とかなんとか思っているのだろう。ケッ。
「池を大切にしてくださいね。大切にしたものには、神様が宿ると言われていますから」
村人達は了承の言葉を口にして帰っていった。あの人達の期待に満ちた表情を見る限り、きっとこの池はもう大丈夫だろう。
村人達がいなくなったタイミングで、隠れていた殺生鬼様が姿を現した。腕組みして村のほうを見る眼差しは柔らかい。
「早くお友達の水神様に会えるよう祈ってますね」
「神を祈るって……はは、随分と傲慢な人間だ。それに、さっき手にしてた本は……」
殺生鬼様の目線が私の懐に注がれる。そこには白澤図が入れてある。
「そうか……本当に白澤様が地上にお戻りになられたんだな。そして、お前が白澤様の巫女か」
「白ちゃんは後宮の白瑞宮っていうところで、いつも昼寝してるか庭を散歩してるかなので、良かったら遊びに来てください」
何気なく言った言葉だったが、殺生鬼様には「ハハハッ!」と思い切り腹を抱えて笑われてしまった。
「『白ちゃん』に『遊びに来い』か。本っ当、愉快な人間だ!」
「わわわっ! ボサボサになるんでやめてくださいよ」
またしてもわしゃわしゃと頭を撫でられた。背の高い彼にじろりと目を向ければ、彼のこちらを見つめる目はとても優しかった。先ほど村人達の背に向けていたような眼差しとも違う、細めた目が弧を描いていた。
(殺生なんて怖い名前をしてるけど、全然じゃない)
きっと、この眼差しを、彼はかつての友にも向けていたのだろう。
池で遊ぶ水神様と、それを見守る殺生鬼様。
想像した光景は、なんだか春の陽射しのようにぽかぽかと温かなものだった。
すると、彼は頭を撫でていた手をそのまま頬まで滑らせ、私の顔をクッと上向かせた。
「白瑞の巫女、我は鬼神・殺生鬼。我が名をお前に預けよう」
額に落とされた口づけ。
懐に入れていた白澤図が、するりと着物の合わせから抜け出す。
(これって、梅さんの時と同じ……)
ひとりでに捲れていくページは、とある場所で動きを止めると『殺生鬼』という文字を刻んだ。
「姫さんこそ、何かあったらいつでも呼んでくれ。恩は返すよ」
「ふふ、じゃあその時はよろしくお願いしますね」
またひとつ増えた名前が嬉しかった。
◆
別れ際、殺生鬼様に礼をしたいと言われ、一も二もなく私はアレをねだった。
霧毒なんて言っていたが、実際に見せてもらったら、やっぱり立派な二酸化炭素――つまり炭酸だったんだよね。
しっかりと持ってきていた取水用の瓶に、たくさん炭酸水を詰めて帰った。
そんな私が白瑞宮に帰ってきて最初にやったことと言えば……。
「ん~! このシュワシュワが堪らな~い」
梅ソーダを作ることだよ!
「ンンンッ!? ……ワシは少し苦手じゃ……水割りが良い」
さっそく作ったものを皆で試飲しているのだが、白ちゃんの口には合わなかった模様。ひと口飲んだら全身の毛を逆立てて、イエティのようになっていた。(見たことないけど)
「水割りも美味しかったですが、こちらは満足感がありますね。一気飲みはできませんが、だからよく味わって飲めるというか」
菜明はちびちびと杯を傾け、刺激に慣れないのか、ひと口飲んでは舌先を出している。
「こんな飲み物ははじめてだな。面白い」
対して冬長官は、ゴクッとひと息で杯の半分を空けると、「くぅッ」と肩をすくめていた。絶対ビールとか初手で一気飲みする人だ。
「あ、そうだそうだ。お前に伝えなければならないことがあった」
「なんですか?」
「菜明が侍女教育を受けることは知っているな?」
「ええ、まあ」
菜明は正式に白瑞宮の侍女になった。
侍女は主人に一番近い存在であり、主人の最大の助力者でなければならない。当然、誰かを助けるには相応の知識や、貴族など上位家格の者達と渡り合う術が必要になってくる。本来であれば、侍女になるような娘の家は、幼い頃よりそのような教育を施したり、後宮に入った当初に専門の集団教育を受ける。
しかし、宮女として後宮に入った菜明は、侍女教育を一切受けていない。それどころか、文字の読み書きにも偏りがある。
そのため、菜明には白瑞宮の侍女になる条件として、専任の者から特別授業をうけることが課されていた。
「菜明のことは周女官長に頼んだ。そして、お前にも別の教師をつけることにした」
「え……っええええ!? 私もですか!? 聞いてませんよ!」
「今言った。この国のことをお前は何も知らないからな。少しくらい知っておけ。白澤様のありがたみも分からぬお前には、ちょうど良い機会だ」
「嫌です」
「そんな曇りなき眼で……」
だって異世界に来てまで、勉強なんかしたくないいいいいいい!!
「しかし、これは決定事項だ。仕える者を守るのが主人の役目なんだろう? 阿呆な主人に仕えていると、菜明に嘲笑を向けさせたくないだろう」
「ぐぬぬぬ……っ」
そこを突かれると何も言えない。
「それじゃあ、二日後の午後に呼びに来るから」
冬長官は杯になみなみと注がれた梅ソーダをちゃっかりと手にして、高笑いを響かせながら内侍省へと戻っていった。
勉強いや・・・




