ねえ、前もってひと言いってよ
昔、まだ池が青清池と呼ばれていた頃、ここには本当に水神様が棲んでいたという。
「友って言うのかね。俺ぁ、そいつが好きでよ……コロコロしてて愛らしくて、見ていて飽きなかった。池の周りで草花を摘んだり、水紋で画を描いたりと、本当自由なやつでさ」
思い出を語る彼の表情は、かつての日々が幸せだったことが分かるような、甘やかで柔らかなものだった。
「だが、人間の意識から生まれた土着の神様ってのは弱いもんでよ。人間の、奴に対する信仰心が薄らいでいくに従って力を失い……気付いたら消えちまってた。俺は、村人を恨んだ。井戸を引いたからって、今まで生活を支えてくれていた場所のことなんかすっかり忘れちまって……その上、使わないから埋め立てようだなんて理不尽だろうが。だから、池を埋めようとする連中が来たら、滅茶苦茶に霧毒を振りまいて暴れてやったんだよ」
語り口に暗さはなく、おどけたようにして「仕方ないけどな」と頭の横で手をヒラヒラと揺らす姿は、もう諦めが付いているようにも見える。しかし、まだ彼がここに居続けているということは、そういうわけではないのだろう。
「そのような経緯が……申し訳ありません、殺生鬼様。足りないとは思いますが、村の者としてお詫び申し上げます」
菜明の声は後悔に震えており、しかめた顔を深々と下げていた。
「掃除してくれたからいーよ」
こう言ったら失礼かもしれないが、殺生鬼様は神様というより人間に近いような感じがする。口調がフランクだからか、とても親しみやすい。
梅さんを前にした時よりも、菜明も冬長官も身体から力みが抜けている。
今まで黙って聞いていた冬長官が口を開いた。
「殺生鬼様は、その水神様に会いたいからこちらにいらっしゃるんですよね……でしたら、水神様が人の意識から生まれたのなら、また池に人が集まるようになったら戻ってくるのでは?」
「なるほど!」と三人の声が重なった。
「だったら、池を綺麗にするだけじゃなくて、周囲も村人が来たくなるようにしたら良いと思う! そっちは私に任せてください」
「では、冬花殿が周囲の手入れ。俺と菜明が引き続き池掃除」
やはり人を動かすのには手慣れているのだろう。冬長官はサクッと役割を決めた。
しかし、池を見つめ「だが……」と言葉を澱ませる。
「青清池と呼ばれた頃までの美しさに戻すには、一日じゃ時間が足りないな」
彼の言わんとしていることは分かった。
池に入るとどうしても泥を巻き上げてしまい水が濁る。綺麗にするには、今みたいに水を落ちるかせて掃除をする、というのを何度か繰り返さなければならない。
「一度、全部の水を汲み出せたら楽なのに……」
私が何気なくポツリと呟いた次の瞬間。
「なんだそんなことか」という、殺生鬼様のあっけらかんとした声の直後、パァン! と池が爆発した。
「こういうこともできるぞ」
池の中は空っぽ。突然、池の水が膨張し破裂したのだ。
これぞ人智外の力だと、殺生鬼様は鼻を高くしていたのだが。
「すごい……けど、ひと声欲しかったです……」
「あ、すまん」
破裂した水は雨となって、全員をびっしょりと濡らしていた。
◆
「月兎、召喚」
広げた手の中でまばゆく輝きながら白澤図が現れ、宙から月兎が転がり落ちてくる。効果音をつけるのならば、ポンッだ。落ちてきたぬいぐるみのような子兎を、両手でキャッチする。
あぁ、たった一日しか離れてないのに、このもっふり感が既に懐かしい。
「ヨビー?」
「うん、呼び~。あのね、池の周りを綺麗な花で、かつ日常的に使える薬草でいっぱいにしたいんだけど……そんな都合の良いこと、できたりする?」
無造作に生えた雑草を綺麗に刈るのも良いが、綺麗なだけで村人が来るとは思えない。村人が来たくなるようにするためには、村人にとって役に立つものを用意するのが一番だ。
そこで思いついたのが薬草。
薬草には花が咲くものも多く、花畑兼薬草畑として利用できる。
「ルー!」
「できるんだ!」
さすが薬草の神様。
月兎は私の腕をつたって肩の上に乗ると、ヒクヒクしている鼻先を頬にチュッと当てた。
「トーカ、ドーゾ」
「ん。ありがとう、月兎」
金色の光に全身が包まれる。
いつもながら変な感覚だ。本来持ち得なかった感覚が急に芽生えたような、そんな感じ。
目を閉じ、自分の作りたい景色を想像して祈りを込める。
「《あまねふる 福寿のしろき生々草 朝よ葉菜よ芽となり野となれ千代八千代》」
呪文を口にした瞬間、足元を風が吹き抜けていった。風のはしった後には紫や白の可愛らしい小花が池の周りの草地を覆っていた。
「コレ、傷薬。コッチ、熱冷マシ。アト……」と、咲いた草花を月兎が説明して回ってくれた。どれも役に立てそうな草花だ。
そして、冬長官と菜明の地道な努力と、殺生鬼様の幾度かの池爆発のおかげで、池の水はすっかりと透明さを取り戻していた。
竹林の陰から漏れ入ってくる太陽の光に、水面がキラキラと輝いている。辺りに充満していた悪臭は消え、代わりに草花の清々しい香りが満ちる。ドロドロとした池の姿ももはやない。神様がいる池だと言われたら、すぐ納得してしまいそうなほどの清らかさがあった。
「私、村の人達を呼んできます!」と、駆け出して行く菜明。その背を見送り、残っていた弁当のおにぎりをひとつ、池の縁にある平岩の上に置いた。
「なんの握り飯だ?」
笹を丁寧に重ねた上に置かれたおにぎりに、殺生鬼様が首を傾げる。
「こうしておくと、なんだか祀ってる感じがしてありがたさが増しませんか」
「ハハッ! 確かにな。面白いことを考える奴だな」
余程気に入ったのか、殺生鬼様は鋭い犬歯を覗かせながら、私の頭を何度もポンポンと叩いていた。
「きっと……また戻ってきてくれますよ。水神様は」
「そうだな」と頭を粗雑になで回され、頭でバウンドしていた彼の手は遠ざかった。
すると「お待たせしましたー」と、菜明の声が近付いてくる。村人を連れてきてくれたようだ。




