侍女と鬼と小旅行
「白ちゃんは留守番ですよ。一緒に行こうって言ったんですけど、人がいるところには行きたくないって」
「…………」
途端に冬長官は目を眇め、ふいと視線を逸らしてしまった。
何を考えているのか、大きな手が口元を覆っていて、こちらからは感情を読むことはできない。
「……よし、俺も行こう」
「その《《山》》に囲まれて、よく言えますね」
「厄介なものはこの一週間で片付けたからな。あとは周りに振っても問題無いものばかりだ」
ああ、どうりで梅仕事の日から白瑞宮に現れないと思った。缶詰になって仕事を最優先で終わらせていたのだろう。
「食事とかちゃんと食べられてます?」
「お気遣いどうも。問題はない。さて、それじゃあ少し待っていてくれ」
ちょっと彼の不規則な食生活が心配になって訪ねてみれば、フッと目元だけで笑われた。彼にしては珍しく陰湿さのない笑みだ。
彼は書類山を抱えると、部屋を出て行ってしまった。
次の瞬間――。
「鬼ぃぃぃぃ! 妖魔ぁぁぁぁぁぁ!」
隣の部屋から絶望の阿鼻叫喚が響いてきた。
「残業になっちゃうじゃないですか! 夜更かしは美容の大敵なんですよ!?」
「残業し続けの俺より美しくなってから言え」
「馬ぁぁぁぁ! 鹿ぁぁぁぁぁぁぁ痛いッ!」
戻ってきた時には、彼の両手も表情も実にさっぱりしていた。
「さて、行こうか」
笑う鬼だ。
◆
「ここが私の生まれ育った村です」と菜明に案内された場所は、王都から荷馬車で一日の距離にあった。
途中の村で一度宿を取り、昼前には辿り着いた。上級官吏である冬長官のことだから、てっきり仰々しい馬車で行くのかと思ったら、商人達が使うような幌馬車だった。
彼曰く、「王都内ならまだしも、王都の外でいかにも金持ちという格好でいたら、襲ってくれというようなものだ」ということだ。
だから、衣装も町人のような地味なものに着替えるという徹底ぶりだった。
(いざという時は呼べって白ちゃんも言ってたから大丈夫だよね)
呼べばすぐに現れてくれるって、本当便利だわ。
私達は村には入らず、脇にある竹林が生い茂った場所へと歩いて進んでいく。
高く伸びた竹が頭上で絡み合い、太陽の光が遮られ昼間でも薄暗い。
しばらく歩いたところで、「あ」と菜明が声を上げた。
「ここです、冬花様。元は神様がいる青清池と呼ばれるくらいに美しかったらしいのですが、今はこのような有様に……」
菜明が言った、このような有様という言葉に納得した。
聞いていたとおり、池の水は藻だろうか……緑が一面を覆い、歩いてきた竹林道の清々しさなどない。所々、池から木片や土砂の山が飛び出しており、ぐちゃぐちゃという言葉がよく似合う様相を呈していた。
池では体調が悪くなるという話だったが、池の縁まで来ても今のところ体調不良を訴える者はいない。ただ、ドブ臭い。
それに、泡が出ていなかった。
「私が幼い頃に見た時よりもひどくなっています。農具も見えますから、きっと村の人が埋め立てついでに物を捨てたりしていたのでしょう」
菜明は悲しそうに池を見つめていた。
誰だって、自分達が昔お世話になっていた美しい池が、ここまで姿を変えてしまったら虚しくなるだろう。しかもその一因が、自分達が埋め立てようとした結果だなんて。
「残念だが、これでは炭酸以前に飲み水としても使えんな」
顔を見合わせ、三人で肩をすくめるしかなかった。
しかし、一日かけてここまで来て、汚かったので帰りました……ってのはちょっと癪だ。
「せめて掃除してから帰らない?」
まさかの提案だったのだろう。菜明と冬長官は、これでもかと言うほど眉間に皺を寄せた。
「元は綺麗な池だったなら、掃除したら元に戻ると思うし」
「し、しかし、この池は手を入れようとすると頭痛や吐き気を催すと……! 冬花様をそのような危ない目に遭わせられません!」
「それは多分大丈夫だと思う」
「根拠はどこにあるんだ」
冬長官も反対のようだ。腕組みしてこちらを見る目に険が宿っている。目が『危ないことはやってくれるな』と言っている。
しかし、注意さえすれば危ないことはないと思う。
菜明の話を聞いて、池から出ていた泡はそれこそ炭酸――二酸化炭素だったのではと予想していた。
大地から噴出するガスで、火山ガスというものがある。これに含まれるもので人体に有害な二酸化硫黄や硫化水素は、独特なにおいがあるのだが、この場ではそれらのにおいは感じられない。それらを吸い込むと、中毒症状を引き起こすため、村人は頭痛や吐き気程度では済まなかったはず。
それらを考えると、ただの二酸化炭素の可能性が高い。
二酸化炭素ならば、吸い過ぎなければ大丈夫だ。
ということを簡潔に説明すれば、二人は「でもな」と頭を垂れて唸っていた。




