主人になるための一歩目
菜明を正式な侍女にすると言った日の夜。
私は白ちゃんを膝の上に抱いて、寝台に腰掛けていた。
「ねえ、白ちゃん良いよね。菜明は白ちゃんの正体が神様だって知っても、言いふらすような人じゃないって。それは、今まで見てきたから分かるでしょ」
私と冬長官以外の人間に、自分が神様であることが露呈するのを、極端に嫌がる白ちゃん。今まで、菜明にすら私のペットの子牛ということで通してきた。
しかし、これからはそうはいかない。
正式な侍女となったら、菜明もこの白瑞宮の住人になるのだ。
いつまでも隠し通せるものではない。
「確かに、あの者は無闇に言いふらすこともなかろう。それに、ワシもこれ以上畜生の真似をせずとも良くなるしな」
一ヶ月一緒に過ごしてきて、白ちゃんも菜明が悪い子じゃないと分かっているのだろう。暗に了解と言っていた。
しかし、どうしてか白ちゃんの表情は固い。
不満や怒っているわけではなさそうだが、喉に小骨が引っ掛かったような、隠然とした感情が滲んでいる。
「冬花が思うよりも、この国において身分の差というものは大きなものだ。ただの平民宮女が白瑞の巫女の侍女として仕える。周囲からすればあり得ない大昇進だ。当然、相応の反応は受けるだろうな」
「嫉妬ってこと?」
「お主は見たことないだろうが、菜明は仲間の宮女にも煙たがられているようだ。この間、ワシを乗せたまま洗濯物を宮女に渡しおってな……すぐに飛び降りたが……、そこで随分と生臭い台詞を浴びせられておったわ」
胸が冷たくなった。
だって、そんなこと……菜明からはひとつも聞いていない。
いや、彼女が言うはずがないのだ。
告げ口するくらいなら、自分が我慢する――そういった性格だ。私が日々を心地好く過ごせるように、彼女は決してマイナスなことは言わない。
彼女は、そういった人なのだ。
「なんで気付かなかったんだろう……私」
自分の呑気さ加減が嫌になる。
白瑞宮が平和なのは、ここが特別な宮ということもあるが、菜明がそのように振る舞ってくれていたからだ。
「誰かに仕えられる者は、仕える者を守る義務を負うものだ」
「守る義務……」
「お主に菜明を守る覚悟はあるのか」
「あるよ」
「迷いなく言い切ったな」
「迷う必要なんかないからね」
白ちゃんはフッと息を吐くと一緒に丸っこい肩を揺らすと、トンと膝から飛び降りた。
「何事も最初が肝心だぞ、我が巫女よ」
そう言って、白ちゃんは消えた。
目がさえてしまって、いつもの部屋にいたら扉を叩く者がいた。
影を見ずとも、声を聞かずとも分かる。
この時間にやって来るのは、彼しかいない。
「冬長官、また残業ですか」
「期待を裏切らないだろう」
「少しは裏切ってくれても構わないんですけどね」
部屋に入ってきた彼は、分かったように私の向かいに座った。
私も分かったように、厨房へと向かい茶碗蒸しを温め直し冬長官に出す。
彼は掬ったひと匙にふうと息を吹きかけ、ひと口で頬張った。ほぅと熱そうな息を吐くと、またすぐに次のひと匙を口へと運ぶ。
「お前の作るものは美味いな。身体が喜んでいるのが分かるよ」
「その言葉は嬉しいですね」
かまぼこが珍しいのか、彼は白い物体をまじまじと見つめ、躊躇いながら食べた。しばらく目線を宙へと放りながら咀嚼していたが、気に入ったのか「いいな」と呟いて、次もかまぼこを食べていた。
「それで」と、冬長官の手が止まった。
「俺に何か言いたいことでもあるんじゃないのか」
目だけをこちらへと向けられ、ドキリとした。
「今夜は、随分とお小言が少ないようだが」
別に言いたいことがあったから起きていたわけではない。
しかし、そう言われてしまうと、自分は何か彼に話したくて部屋にいたような気になってくる。
「そういうわけじゃなかったんですけど……でも、せっかくなんで、ちょっとお願い聞いてもらっても良いですか」
「言ってみろ。《《これ》》の分くらいは聞いてやらんでもない」
いつの間にか空になっていた茶碗を、彼はわざと音をたてて卓に置いた。
頬杖をついて、『俺に不可能はない』と言わんばかりの挑戦的な目を向けてくる。
「明日の朝、菜明が来るよりも早く白瑞宮に来てください」
冬長官の顔が、頬杖から浮いた。
「……口説いてるのか」
「どうしてそうなるんです」
「誰もいない宮に呼び出すんだ。そういうことだろう」
「違います」
盛大に溜め息を吐いてやった。
どこからその自信は来るのか。
(ああ、もしかしたら、后妃や宮女からそんな誘いを受けたことがあるとか……)
そう言えば以前、後宮内を歩くと疲れると言っていた。
理由を聞いたら、女の人達からあれこれと理由をつけて声を掛けられるからだとか。美人らしい悩みだ。
そんな美人にチラッと視線をやる。
いつもみたいに皮肉に笑っても貶してもいない真面目な顔が、じっとこちらを見つめていた。端正なだけあって、真顔になられると圧が強い。
「私が冬長官を口説くことは万に一つもありませんから。ご安心を」
前のめりになっていた彼の上体が、椅子に鷹揚ともたれる。ギッと椅子が軋んだ。
「ま、それもそうだな。お前が俺に取り入ったところで意味はないし」
「捻くれてますねえ。他人の好意全部が全部、そういった下心からくるものとは限らないじゃないですか。后妃様達は純粋に冬長官のことが好きな人もいるでしょうに」
「ハッ」と鼻で嗤われた。
「俺は、基本的に后妃は全員嫌いだ」
立派に性格が歪んでいる。
まあ、美人故の悩みが色々とあるのだろう。
「実は明日、菜明を迎えに行こうと思うんです。だから、冬長官には菜明がいる宮女宿房まで案内してもらいたくて」
「それだけか?」
さすが鋭い。
「ついでに、ちょっとした後ろ盾になってくれたらありがたいなぁって」
「なるほどな」
察しが良くて助かる。
後宮を取り仕切る内侍省の長官。后妃を除いた中で、後宮では最上級と言える彼の肩書きはきっと使える。
「しかし、侍女にそこまでするものかね」
「仕えてくれる人を守るのは主人の務めだって、白ちゃんに言われたんで。菜明は私に平和で素敵な日々をくれました。だから、今度は私が彼女にそんな日々をあげたいなって。明日はそのための一歩ですから」
冬長官は「良い心がけだな」と眉を上げていた。




