フォークスの思い
「にゃっ……にゃっ……ふぅぅぅぅ……」
ピンと尻尾を立てた兄貴が、棒を構えて小さく唸り声を上げている。
視線の先にいるのは、笑みを浮かべたシューレだ。
踏み込もうとした瞬間、シューレに連続の前蹴りを繰り出され、兄貴は辛うじて棒で捌いて距離を取ったところだ。
勿論、シューレは余裕綽々で、兄貴に合わせて手加減してくれている。
それでも兄貴の動きは、貧民街から救い出された当時と比べたら雲泥の差だ。
アツーカ村で復興工事に携わっている間、ゼオルさんにだいぶ鍛えられたようだ。
隙を探してシューレの周囲を回る足取りも、しっかりと地に着いているように見える。
普段から欠かさず続けている、足捌きも加えた素振りの成果が出て来ているようだ。
ただし、耳がペタンと折れてイカ耳になっているせいで、ちょっと表情が情けなく見えてしまう。
「だいぶ見えるようになったみたいね……じゃあ、これはどうかし……ら!」
「みゃっ、ふぎゃ……」
滑るように間合いを詰めたシューレは、兄貴の左側頭部を目掛けて回し蹴りを繰り出した。
兄貴は、両手で握った棒で受け流そうとしたが、シューレの蹴り足は途中で軌道を変えて兄貴の脇腹に叩き込まれた。
驚いたことに、兄貴は蹴られる瞬間に自分から飛んでダメージを軽減させようとしていた。
コロコロと転がった兄貴は、素早く立ち上がって棒を構え直した。
うん、なかなか精悍な顔つきだ……イカ耳じゃなければ。
「今日はここまで、汗を流して着替えてらっしゃい……」
「ありがとうございました」
朝の涼しい時間とはいっても、動き回っているから汗だくだし、地面に転がされるから泥だらけだ。
朝飯前に、水浴びをして着替えるようだ。
「兄貴、手伝おうか?」
「いいのか、頼む」
「ミリアムは?」
兄貴とシューレの手合せを横目に見ながら、素振りをしていたミリアムにも声を掛けると、コックリと頷いてみせた。
野営をしている川原の一角に、空属性魔法でシャワールームを作る。
といっても、足元が汚れないようにすのこを作り、水のシャワーヘッドを二つ用意しただけだ。
そもそも、空属性魔法で壁を作っても、透明だから目隠しにはならない。
汗と埃を落としたら、温めの温風で毛並みを乾かし、また汗だくにならないように冷風で涼ませる。
兄貴と一緒というのが、うら若き乙女ミリアムとしては不満なのだろうが、この便利さには抗えないのだろう。
俺としては猫を洗う手伝いをしているだけにしか思えないので、ミリアムに欲情することはない。
まぁ、それもミリアムにとっては不満なのかもしれない。
そういえば、兄貴もミリアムには興味を示さない。
やはり兄貴は、貧民街にいたころに目覚めてしまったのだろうか。
最近は、昼の間は殆どガドと一緒にいるみたいだし……。
うーん……恋愛の形は自由だから、兄貴が良いなら俺が口出すことではないのかもしれないが……ちょっとモニョる。
今朝の朝食も、ディムが調理を担当している。
といっても、昨日の夕方仕入れたパンと牛乳、それに目玉焼きと焙ったソーセージという簡単なメニューだ。
食べ終えたら野営に使ったものを片付けて、すぐに出発するからだ。
それでも、ライオスのこだわりで、カルフェを一杯楽しむ余裕はある。
俺達も手伝って撤収作業を進める間に、ガドが馬を馬車に繋げば出発の準備は完了だ。
マリス達三人が加わったから、いつもとは少し違う場所に腰を落ち着けると、普段は御者台にいる兄貴の姿があった。
「あれ? どうしたの、兄貴」
「マリスがガドに馬の扱いを習っているから……」
どうやら押し出された形で、こちらに来たらしい。
後ろに目を向けると、ディムがセルージョに後方の警戒の仕方を訊ねていた。
昨日、拾い上げた時には頼りないと感じたのだが、マリス達三人は自分たちの能力を向上させる事に貪欲だ。
これは自分にとって役に立つと思えば、どんどん質問をぶつけてくる。
王家直轄領に隣接するレトバーネス公爵領に暮らしているとはいえ、兄貴よりも少し上ぐらいの年齢で王都に拠点を移そうと考えるのだから、それだけ上昇志向が強いのだろう。
普段とは違う場所に乗り、落ち着かない様子の兄貴に、ムルエッダが話し掛けてきた。
「フォークスは、エルメール卿の実の兄貴なのかい?」
「そ、そうだ……」
「確か、土属性なんだよな?」
「そ、そうだ……」
最近は、チャリオットのメンバーとは普通に話せるようになってきた兄貴だが、まだ親しくない人と話すのは苦手のようだ。
「チャリオットの皆さんと一緒にダンジョンに潜るんだよな?」
「そ、そうだ……」
って、さっきから兄貴は、そうだとしか言ってないぞ。
そんな兄貴の様子に戸惑ったのか、ムルエッダは少し迷うような表情を浮かべたあとで訊ねてきた。
「その……大丈夫なのか?」
「そ、そう……えっ? 大丈夫?」
聞き返した兄貴に対して、またムルエッダは少し迷ってから話を続けた。
「その……馬鹿にする訳じゃないんだが、冒険者で土属性っていうと、一般的には体の大きい人が多いじゃないか、ガドさんとか、俺みたいに……。だから、大丈夫なのかと思って……」
ムルエッダの質問の意味を理解して、兄貴の表情が硬くなる。
土属性の魔法は、野営する時には竈を作ったり、地均ししたり便利だが、攻撃には向いていない。
土属性の冒険者の多くは、体格を活かした前衛を務めることが多い。
猫人の兄貴が、チャリオットの前衛を務めるのは難しい……というか、無理だろう。
中衛や後衛を務めるにも、土属性魔法はあまり役に立たない。
つまりムルエッダは、兄貴がチャリオットの一員としてダンジョンに潜った場合、足を引っ張らないで済むのかと訊ねているのだ。
勿論、兄貴は役に立つし、発掘において力を発揮してもらいたいと考えている。
それを俺の口から伝えるのは簡単だが、周りを囲んでいる全員が注目する中で、兄貴がなんと答えるのか聞いてみたい。
「お、俺は……たぶん、足を引っ張ることになると思っている。ベテランのガドやライオス、セルージョと肩を並べて戦えるなんて思ってない……でも、役立たずだとは思ってない。それでも……それでもパーティーの仲間が俺には無理だと言うなら、その時は潔く辞める」
「そうか、それなら俺がとやかく言うことじゃないな」
途中、何度かつっかえながら、それでもキッパリと言い切った兄貴に、成り行きを見守っていたセルージョとシューレも頷いていた。
兄貴の言う通り、ライオス達とは年季が違いすぎる。
俺は空属性というレアな属性を手に入れたから、経験値の差を火力で補っているが、兄貴やミリアムは地道に積み重ねていくしかないのだ。
「それに……俺の人生は一度終わったようなものだから、後悔するような生き方はしたくない」
俺が頷いてみせると、視線を向けて来た兄貴も力強く頷いてみせた。
やはり、貧民街での暮らしは兄貴に大きな影響を残しているようだし、そこから抜け出してチャリオットと一緒に行動するようになって腹が据わったのだろう。
レトバーネス領に入って以来、道中は平和そのものだ。
グロブラス領での反貴族派の騒ぎは、いったい何だったのだろうと思ってしまう。
原因は、やはり庶民の生活レベルにあるのだろう。
途中で立ち寄る村の様子を眺めてみても、困窮しているような様子は見られない。
農作業をしている人達の表情や顔色なども、意識しているからかもしれないが良い気がする。
何よりも、村や町を包んでいる空気が違う。
連日のように襲撃騒ぎがあれば、ギスギスした空気になるのは仕方ないとはいえ、グロブラス領の村を包む空気は重く澱んでいた。
ラガート子爵に同行した時も周囲を警戒はしていたが、これほど人々の暮らしを観察はしていなかった。
領地が違うだけで、これほどまでに違いが出るのだから、領主の役割というのは大きいのだと改めて実感した。
うん、俺は領地を持たない名誉騎士のままでいいや。
その日は、午後から雲が広がり始めて、夜には雨になりそうな気配がしてきた。
予定よりも一つ手前の小さな村の近くで、早めに野営の支度を始めることになったのだが、馬車を降りた兄貴が突然ムルエッダに手合わせを申し込んだ。
「武器は木剣を使い、魔法もありの手合わせ? 別に構わないぞ」
「よろしくお願いします」
村の近くに設けられている野営地には、チャリオット以外の馬車はおらず、開けた場所で兄貴とムルエッダが向かい合った。
双方、革の防具をつけて、ムルエッダは長めの木剣、兄貴は棒を携えている。
「私が審判を務めるわ……準備はいい……?」
シューレの言葉に、二人は無言で頷いてみせた。
「勝負一本、始め!」
シューレが開始の合図をしても、二人は睨み合ったままで動かなかった。
お互いに相手の出方を探っているようだ。
「フォークスは、どうしたんじゃ?」
「さぁ? 何か思うところがあったのかも……」
いつの間にか隣に来たガドに聞かれたが、俺にも兄貴の考えは分からなかった。
ムルエッダは、ペタンと耳を伏せて荒くなりそうな呼吸を鎮めている兄貴を暫く観察していたが、腰のあたりに横たえていた剣を肩に担ぐように構え直すと、ふっと息を吐いて一気に踏み込んだ。
「ぬぁ……」
「にゃぁぁぁ……」
勢いよく踏み込んだムルエッダが、突然体勢を崩し、そこへ兄貴が踏み込んで突きを放った。
カツーンと乾いた音が響いて、間一髪ムルエッダは兄貴の突きを払ったが、更に体勢を崩して尻餅をついた。
「にゃっ! にゃっ! にゃっ!」
「くっ……あっ……うわっ……」
「それまで! 勝者フォークス!」
座り込んでしまったムルエッダは、兄貴の三連突きを捌き切れず、鳩尾に一撃を食らってしまった。
良く見るとムルエッダの左足は、踝のあたりまで地面に沈み込んでいる。
「やられた……いつの間に魔法を使ったんだ」
「最初に向かい合った時から準備してたんだ。次は引っ掛かってくれないだろうけど、初めての相手ならば俺だって戦える」
どうやら兄貴は、ムルエッダが踏み込んで来そうな地面を軟化させ、足が埋まった途端に硬化させたらしい。
たぶん、アツーカ村での復興工事をやっている時に、工夫を重ねていたのだろう。
「大したもんだぞ、フォークス」
「ガド……いや、まだまだだ。まだこの程度じゃ、ニャンゴの尻尾にも届かないよ」
ガドに褒められて一瞬笑顔を浮かべた兄貴だったが、表情を引き締めて俺に視線を向けてきた。
その俺は、レイラにだっこされている状態だから格好が付かない。
「へぇ、フォークスもやるわね」
「うん、兄貴は頑張ってるよ」
「乗り換えちゃおうかしら……」
「えぇぇ!」
「追い越されないようにしないとね」
「うにゅぅぅぅ……」
まさか兄貴にレイラを寝取られるとは思わないけど、追い越されないようにしなくては……。





